間は相変わらすやらかし続けていたようだったし、学校側は母に特別学級を勧め続け、 母はそれを拒否し続けていた。 桜並木を母と歩くこの時間は、それはそれは平穏なもののはすだったが、僕は勝手 に母の気配に当てられ、緊張していた。様々な様子で和んでいるほかの家族たちを見 て、初めて、僕たちは少しおかしいのかもしれない、と思った。だが、そう思うより ももっと深い場所で、僕は、だからどうなるものでもない、 と思っていた。 もう、生まれ落ちてしまったのだ。 僕には、この可能性以外なかった。 そんな言葉は、やはり知らなかったが、僕はその思いを経験していた。もしかした ら、すべての子供がそうだったのかもしれなかった。今ある環境がすべてで、それ以 外の可能性はなくって、自分はすっとすっとここで生きてゆくのだと、思うより先に、 ほとんど生存本能として身につけていることなのかもしれなかった。一方でスー マンになりたいとか、お姫様になるのだと強く思っているにもかかわらす、自分の世 界には無限の可能性、無限の選択肢があるなんて、実は小さな頃は、思いもしないの 僕には、この家族しかいない
180 人が現れて、新聞紙やティッシュ、得体の知れない食べ物などを売ってきた。中には、 車道の脇に座り込んで、ただ手を出しているだけのおばさんもいた。おばさんは、上 から下まで真っ黒いカーテンのようなものをまとい 目だけを出していた。そんなこ とをしているのが恥ずかしいのだろうと思ったが、そうではなかった。ああいうおば さんは熱心なイスラム教徒なのだ。イスラム教では、女性がいたすらに肌を出しては いけないことになっているので、布をまとって顔を隠しているのだそうだ。頭に巻く 布はヘジャブ、全身を覆う布はチャドルといっこ。 「どうして女の人が肌を出したらいけないの ? 」 「うーん。」 父は答えにくそうだった。そういうとき父は、大抵母の助けを借りてきたのだが、 母もその理由を知らなかった。僕らは父が答えを教えてくれるまで、待たなければい けなかった。 「なんでって、なあ。 姉は、いつまででも待つ、というような顔をしていた。僕は、父の反応からして、 もう諦めたほうがいいんしゃないかと思っていた。父は明らかに話したくなさそうだ ったし、もしかしたら父も、その理由を知らないのかもしれなかった。
278 お母さんは、とても太っていた。美人かどうかなんて一 = ロえるような風貌ではなかっ た。ヤコブの妹ふたりもまるまると太り、僕はヤコブの体格の良さの理由が分かった ような気がした。 ヤコプは家族に囲まれて、嬉しそうだった。 家族はヤコブを愛していた。それは僕にも分かった。そしてヤコ。フは、その家族を 誇りに思っていた。自分の母親を心から美人だと思っていたし、この場にいないお父 さんのことを、何度も何度も褒めた。 ホテルで会ったとき、目を逸らしたのは、羞恥からではなかったのだと、そのとき 気づいた。ヤコプは僕と母に、ただ気を使っただけだったのだ。もしかしたら、ホテ ルの従業員に、ホテルの客を見てはいけないと、言われていたのかもしれなかった。 僕は自分の卑しい思いに、また打ちのめされた。そして同時に、ヤコブをますます愛 しているという実感を得た。自分の仕事を、地下の家を恥じないヤコ、、フを、僕は眩し く思った。 「僕」と「ヤコブ」の間には、きっと、大ぎな溝がある。 でも、「」に入らない丸腰の僕とヤコブの間には、僕らを遮るものなど、何もな かった。ヤコプは僕を愛してくれた。そして、僕のヤコプに対する愛は、きっとそれ
。フシャンの子供に対してそう思ったのは、もちろん初めてのことだった。 あとで分かったことだが、ヤコプは、健の家からもう数プロック行った先に住んで 僕らは、友達になった。 話しかけてくれたのはヤコ。フだったが、そうさせたのは僕だった。ヤコブの笑顔に ク対し、もしもしと恥すかしがり、何か言いたげな顔をしていた。それはエジ。フシャン マの女の子が僕らに見せる態度だった。そう、僕は全く、女の子みたいだった。 僕らは卵と牛乳を持ったまま、僕の家の前で、数十分話し合った。 ロ 僕はアラビア語を全く話せなかったし、ヤコブも日本語を全く理解していなかった。 イ カ でも僕らは、お互いの母国語と体を使ったジ = スチャーを躯使し、お互いの名前、自 プ分たちが同し年なこと、僕は 2 年前からこの家に住んでいて、ヤコプは 4 年前から住 ジ んでいること、などを伝え合った。そしてまた明日の夕方、ここで会おうという約束 工 まで、交わしたのだった。 一一家に戻った僕は、有頂天だった。 友達がこんなに簡単に出来ることに驚いたし、苦手としていたエジ。フシャンの子供 と、素直に「友達になりたい」と思った自分が嬉しかった。たった数十分の出来事だ
どうして今まで気づかなかったのだろう。「みやかわさき」の特徴的な顔は、忘 れられる類のものではなかった。しかも僕の好きな女の子なのだ。僕はそのとき初め て、自分の脳の力を疑った。その頼りなさに、不安を覚えた。 今こんなに好きな女の子を、あのとき好きじゃなかったのは、どうしてだろう。 「みやかわさき」の、誰も必要としない態度を好きになったのは確かだったが、僕 は、「みやかわさきの顔も、はっきりと好きだと思ったはすなのに。 僕は「みやかわさき」を、もうすでに知っていたはすの女の子の顔を、しっと見 つめた。「みやかわさき」は、僕のことを、僕がするようにしっと見つめていたが、 その視線はどう考えたって煩わしくなかったし、それどころか僕の耳たぶを赤くして、 僕を幸せな気持ちにするのだった。 僕は、あのときすでに「みやかわさき」に会っていたことを、何かとても重大な ことのように思い始めた。後年、皆がそういう感情のことを「運命を感しる」と言う のだと知ったが、それを知るには、僕はまだうんと子供だった。でも、僕にとって 「みやかわさき」が、とても大切な何かに、以前にも増して変わりつつあることは 分かった。 「これあげる。
どれもショックだった。だからこそもう、どれにショックを受けているのかが、分 からなかった。僕と姉はただただ黙って、車窓を眺めていた。 初めて見たビラミッドの感想はこうだ。 て力い クそれだけ。それ以外思い浮かばなかった。 マ ビラミッドは、でかい。馬鹿みたいだが、本当にそうなのだから、仕方がない。そ の証拠に、 イ「大きい カ 母も、それしか言わなかった。 母は、大きなサングラスをかけ、駆け出すように車を降りた。姉もそうだった。姉 プ ジは様々な疑問をとりあえす胸に収め、今はただ、この驚きに忠実でいようと決めたよ うだ、母の後について、駆け出した。遅れを取ったのは僕だった。父は父で、笑いな 章 二がら運転席でモタモタしていた。 走り出すと、砂に足を取られた。僕の紺色のスニーカーが、みるみる白くなった。 時折ツウンと強烈な臭気がした。近くに大きな糞が落ちていた。それは僕らの周りを ふん
とっさ 僕はその子と目が合うと、咄嗟に笑ってしまった。 母に手を引かれながら、必死で笑顔を作ったのだった。それは、僕なりの「ごめん なさい」なのかもしれなかったし、そうではないのかもしれなかった。ただ分かって いたのは、僕の笑顔が、今まで作ったどの笑顔よりも、卑屈なものだということだっ クその子は、僕に向かって唾を吐いた。 マ白い泡が、べしやっと、地面を汚した。 ニャニヤと笑っている男の子たちの中、その子だけが、怒りに燃えていた。 イ僕はショックを受けた。数秒前は、「唾を吐きかけてくれたほうがまし」、そう思っ カ ていたのに、実際そうされたときのショックは、計り知れなかった。地面に吐かれた 白い唾は、僕を直接汚すよりも強く、僕を傷つけたのだ。 プ ジ 母のやったことは間違っている。それは確かだ。 工 だが僕は、母のやったことに、ほとんど感動すら覚えていた。 章 一一僕だって、本当はそう思っていた。「汚い」と。「触るな」と。でも、僕は、「そん なこと、決して思ってはいけない」と思っていた。誰に教わったわけでもないのに、 僕はエジ。フシャンの子を、とりわけ学校に行くことが出来ない、物乞い同然の生活を
無事だったが、イランを発って幻時間も経たぬうち、母はもうバツールを恋しがって いた。今考えると、母もまだまだ子供だったのだ。 そして、そんな子供つぼいところのある母には、姉の行動に我慢が出来なくなると、 容赦なく子供の夢を打ち砕いてしまうようなところがあった。子供そのものより、子 供つぼい大人のほうが、タチが悪い瞬間があるが、母は典型的なタチの悪い人だった。 姉が小学校 2 年生のクリスマスのときもそうだ。さりげなく姉のほしいものを聞こ うと苦心していた母だったが、姉が頑なに「サンタさんにしか言わない」と繰り返す ので、しまいに自棄になった。そしてとうとう、 「サンタはおらんー そう、叫んでしまったのだ。姉はそのときも、大きなショックを受けた。だが、姉 はまだいい。僕はそのとき、たった 4 歳だ。 4 歳にしてすでにサンタの存在を否定さ れた僕のほうが、よほどかわいそうだと思う。でも僕は泣かなかった。僕が泣く前に、 姉があらん限りの力を振り絞って泣いていたからだ。 いつも大体、そんな感じだった。僕が怒る前に姉が激怒する、僕が泣く前に姉が号 ちゅうちょ 泣する。だから僕は、なんとなく躊躇してしまって、沈黙するだけになる。大人にな ってもその性格は尾を引いた。だから僕は、誰かが僕の「感情」を待っている状態に
、パックの 5 割増しで美味しくなるのだった。 は同じはすなのに、瓶に入っていると ところ 母の名誉のために言っておくが、母の料理が下手くそだったわけではない。。 か、母は料理上手だった。イサキのアクアパッツアや、 ー。フがたくさん入った トボール、にんじんのボタージ : 母の作る料理は、華やかで豪華だった。でもどれ しゃれ も、僕にとってはいささか「大人」すぎた。素材の味を生かしたお洒落な料理に興味 を持つには、僕は幼すぎたのだ。僕はケチャツ。フの味が好きだったし、マヨネーズの 味が、とんかっソースの味が好きだった。魚肉ソーセージなんて最高だったし、べし ゃべしやに伸びたインスタントラーメンはごちそうだった ( それらは大抵、父と登っ た山の山頂でしか食べられなかった ) 。 思えば、母は気の毒だった。せつかく手のこんだ料理を作っても、姉はヨーグルト と。フリンの食生活だったし、僕は幼かった ( それでも僕は母の料理を「美味しい」と 言い続けた。その年頃の少年にすれば、涙ぐましい気の使いようだ ) 。 父は平日、家でご飯をほとんど食べることが出来なかった。やっと週末に食べるこ とがあっても、ぼそぼそと口を動かすだけで、ちっとも美味しそうではなかった。母 はよノ \ 父に、 「もうちょっと嬉しそうに食べられへんかね。」
276 僕がヤコブを無視することはもちろん、ヤコプが僕を無視することに関してだって、 非があるのは僕の方だと思っていた。いや、僕ら側の方だと。そしてそんな考え方が、 卑怯で下劣なものだと分かってもいた。つまり僕は、どうしていいのか分からなかっ ヤコプは、いつも通り歩いてきた。笑って手を振り、僕の肩を抱いた。 ヤコ。フは笑っていた。僕も、いつもと同じようにふるまった。昨日のことには触れ るべきではないと思っていたし、そうする以外僕には出来なかった。だが、ヤコ。フは、 「歩のお母さんは綺麗だな。」 そう言った。僕は声が出せなかった。 ヤコ。フを見ると、ヤコプはにこにこ笑っていた。卑屈な笑いではなかったし、無理 しているわけでもなさそうだった。 「僕のお母さんも、すごく綺麗なんだー ヤコプは僕の手を引いて歩き出した。突然のことに戸惑った。ヤコプはどうやら、 自分の母親に、僕を会わせようとしているようなのだ。 サマレク ヤコブの家は、僕のフラットから 3 。フロックほど歩いたところにあった。、、 ひきよう