110 僕は、姉と同じ小学校に人学した。 担任教師は、圷貴子の弟が入ってくることに、おそらくビビっていたのだと思う。 入学式の後の顔合わせや、初めての出欠で、僕のことを多分に意識している様子が見 て取れた。 僕の出席番号は 1 番だった。担任は、 「圷歩くん。」 そう言った後、僕の顔を確認するように見た。生徒の顔を覚えよう、という表情で はなかった。これが圷貴子の弟か、似てないな、だが油断するな、なんたってあの圷 貴子の弟なのだから、という感しだ。 僕は、速やかに、そして丁寧に返事をした。その静かな声は、悪意や暴力的なもの からは、遠くかけ離れていた。
姉の声が聞こえた。 「貴子どないしたん ? 大丈夫か ? 」 「うんこ落ちてる、いやだ。何これ、いやー 「貴子、こっち来なさい。」 ク僕が用を足し終わるのを待って、母は個室を出た。あんなに急いでおしつこをした マのは、生まれて初めてだった。 ザ 「貴子、ここでしなさい。」 イ信じられないことに、姉は涙ぐんでいるようだった。落ちているうんこを見たこと カ が、よほどショックだったのだろう。気の毒である。それにしても、どうしてトイレ にうんこが落ちているのだ。 プ ジ 姉と母が続けて用を足し、僕らはなんとかトイレを出た。出るとき、おばさんは僕 工 らをしろじろ見ていたが、何も言わなかった。掃除をしようとする素振りも見せなか 章 ったし、お金ありがとう、みたいな顔もしなかった。 第 「なんなのあの人、トイレ掃除の人とちがうわけ ? 」 「ほんまやわ、うんこが落ちてるトイレに、なんでお金払って入らなあかんの。
132 「学校で見てん。 「ミイラを ? 」 「ううん。ミイラの本。」 「そんなん置いてあるんか。」 「うん。」 「ミイラなあ。」 父は、何故か満足そうだった。山で、先に登っていた父が、振り返って僕たちを見 るときの顔だった。 「その、ミイラの国にな。エジ。フトにな。」 「うん。」 「行くことなってん。 「そうなん。 「そうなん、て。驚かへんのか ? お父さんも、お母さんも、貴子も、歩も行くんや そ ? 」 僕はすでにのぼせ始めていた。でも、父の言うことにうまく返事が出来なかったの は、そのせいだけではなかった。
156 エレベーター呼んだだけやんー 「チッ。フってこと ? 」 母が問うと、父は返事に窮していた。 「うーん、チッ。フとはまた違うねん。バクシーシいうてな、こっちの人は、イスラム 教っていう宗教なんやけど、喜捨、分かるかな。喜んで捨てる、ていう気持ちがある らしくって、ああやって何かしてもろたら、バクシーシ、喜捨のお金をやな、あげん とあかんねん。」 「僕らも ? 」 「歩らはええよ、大人だけ。」 「なんや面倒くさそうやなあ。」 父が 3 階を押すと、エレベーターはぎゅおおん、と不吉な音を立てて動き出した。 こんなに、と驚くほど、ゆっくりした動きだった。 「このエレベーター大丈夫なの ? 「エレベーターはよう止まるから、貴子と歩は子供だけで乗らんほうがええな。 3 階 やし、歩けるやろ ? 」 「うん。」
162 「メイドって何 ? 「そうか、歩はイランのこと覚えてへんもんな。メイドいうのは、お手伝いさん。」 「お手伝いさんがいるん ? 」 「はは、そない驚くか。せやで。イランのときもおったんやで。バツールって名前の。 貴子は覚えてるやろ ? 」 「当然。」 姉は、僕の顔を見て、ちょっと得意そうだった。僕はそのときまだ、小さな頃の僕 がバツールにどれほど可愛がられたかを聞かせてもらっていなかった。僕は、ハツール を知っている姉が、うらやましかった。 「メイドさん、名前なんていうん ? 」 「ゼイナ。フっていうんやって。」 「変な名前ー 「大丈夫なん ? そのゼイナブって人信用できるん ? 」 きゅう 母のむ配はもっともだった。だが、後冫 こ母のその心配は、まったく杞憂に終わるこ とになった。。 セイナ、、フは、素晴らしい人だった。メイドとしてだけではなく、人とし て。
カイロに着いてからの姉は、信じられないほど素直だった。母が言うことに、笑い オここでなら、それ さえした。僕はこのままふたりが仲良くなってくれたらと願っこ。 は可能なような気がした。 エレベーターが 3 階に到着すると、さっき駐車場にいた男の人がふたり、僕たちの 荷物を持って待ってくれていた。階段で上がって来たのだ。父が彼らに金を渡すと、 ク嬉しそうに笑って、階段を降りていった。 マ 「バクシーシ ? 「そうや。」 ロ 「ありがとう、はエジ。フト語でなんて言うの ? 」 イ カ 「シュクラン。」 「シュクラン ? 」 プ ジ 「そう。 工 「綺麗な言葉。 章 一一「そうか ? そんなん考えたことなかったな、貴子は感性が豊かやな。 それはおそらく、姉が一番言われたい言葉だった。やはり父は、姉の心をすぐにつ かんでしまうのだ。僕は、さきほど自分が「アッサラ ] ムアレイコム」を一番綺麗な
188 姉はすでにその棺を覗き込んでいた。 「ここに王さんが入ってたん ? 」 母は、クフの名を覚える気はないようだった。 棺はそっけなかった。縁が壊れた、ただの大きな石の固まり、といった感しだった。 実際、母はすぐに飽きてしまったし、僕も正直、この部屋にはガッカリさせられた。 これまでのドラマティックな道のりの先には、僕らの度肝を抜く、冒険中の冒険とい うような何かがあると思っていたのだ ( 例えば、そう、ミイラだ ! ) 。 姉だけは違った。姉は明らかに、何かに圧倒されていた。棺の中に、まるで まだミイラが眠っているかのように、じっと目を凝らしていた。ふう、ふう、と、と ても深い呼吸をしていた。 「貴子 ? 」 父が声をかけても、姉は振り返らなかった。 その夜、姉は熱を出した。 日射病にかかったのだったが、熱の原因はきっと、それだけではなかった。巨大な ヒラミッド、 長い長い歴史、ラクダの糞のにおいや殺人的な日差し、何より初めて触
年生にあるましき眼光の鋭さを持っていた。いわゆるワルっぽくもあったが、それ以 上に賢そうで、とにかく僕らが知らない何かを知っているような雰囲気があった。 向井さんは、髪の毛をきのこみたいなおかつば頭にしていた。そして、驚くべきこ とに、洋服は明らかに女の子のものだった。例えばふわふわした白い。フラウスや、裾 にレースのついたカットソーなどだ。さすがにスカートを穿くことはしなかったが、 クポケットについたアツ。フリケは可愛いイチゴだったし、折り返した裾からはピンク色 マのギンガムチェックがのそいていた。 ザ そのような女の子的要素は、向井さんのお母さんの好みだった。とはいえ、よくあ ロ る、女の子を望んでいた母親が、生まれてきた男の子に女の子の服を着せて満足して イ カ いる、というようなことではなかった。 向井さんには、姉がふたりいた。姉、貴子のクラスにひとり、 3 年生のクラスにひ プ ジ とりだ。名をそれそれ向井真珠、向井翡翠といった。つまり向井さんのお母さんは、 工 すでに女の子ふたりを得ていた。向井さんに対して、女の子的であれと願うような道 章 二理は、なかったのだ。 真珠、翡翠、輝美。 三姉弟のお母さんは、子供たちにつけた名前のごとく、どうやらただキラキラした しんじゅ
146 母はおばさんを無視して、姉の背を押した。すると、おばさんが怒鳴った。立ち上 がって手をぐるぐる振り回しながら、僕たちの分からない言葉を叫んでいる。何がな んだか、全く理解出来なかったが、 ものすごく怒っていることだけは分かった。恐布 に駆られ、僕たちは固まってしまった。おばさんは、ぐるぐる回した手で腰をたたき、 そのままその手をこちらに差し出した。すっと、何か叫んでいた。 母はとうとう、おばさんの剣幕に気圧されて、財布からお金を出した。父からもら っていたエジ。フトのお金だった。おばさんはそれを受け取ると、急に、本当に急に、 静かになった。母に数束のトイレットペー ーを渡し、またべたりと、床に腰を降ろ したのだ。そのギャツ。フが、僕には恐ろしかった。 母が姉を促した。 「ほら、貴子。」 あんなに不安げな姉は、見たことがなかった。姉は母の顔を見ながら、奥の個室を 選んだ。母は僕の手を引き、手前の個室に入った。言っておくが、僕は 4 歳からトイ レにはひとりで入っている。母と一緒に個室に入るなんて、こんな緊急事態じゃない と自分に許すはすもなかった。 母にうながされ、僕がしぶしぶ用を足そうとすると、
僕は僕で、小学校人学という出来事に、すごくビビっていたのだ。新しい世界に踏 み出すときは、いつだって勇気がいるものだ。その上僕には「あの圷貴子の弟」とい うおまけがついた。 小学校で相変わらすやらかし続けていた姉だったが、つまり姉は変わっていなかっ たが、姉の周囲にいるクラスメイトの態度には、変化が見られるようになっていた。 代低学年のときは、皆姉を恐れた。乱暴者、得体の知れない人物として、姉を遠巻きに 少見ていたし、「怖いや「嫌い」に類する拙いかたちでしか、姉のことを表現するこ のとは出来なかった。 だが中学年になり、高学年になってくると、皆姉の狼藉を疎ましく思うようになっ 齔た。相変わらす不気味な姉ではあ 0 たが、成長するにつれ衝動的な暴力行為はなりを 潜めていたし、そうなると姉は恐れるに足りなかった。つまり、ただの「うっとうし 的 奇い奴に成り下がった。 ばりそうごん 皆「怖い」や「嫌い」以外の言語を持つようになり、姉をからかう罵詈雑言やあだ 一名を考えるようになった。頭の足りない男子生徒は、姉のことを「ぶす」と言ったし、 意地悪な女子生徒は、姉のことを「ガリガリ」と言った。十分残酷だったが、とても 稚拙だった。姉はだから、彼らのことをまだ、下に見ることが出来た。言葉を知らな