ックしておきながら、ゼロが三つも四つも違う膨大な税金の無駄遣いを見逃しているわけであ る。次節で見るように、会計検査院による検査も同じようなところがある。 予算編成の実際 では、そもそも予算はどのようにして立てられるものなのだろうか。そのプロセスを簡単に 解説しよう。予算編成は、八月三一日に要求側各省庁の概算要求が財務省の主計局に提出され るところから始まる。これを受けて、九月一日から予算編成作業がスタートする。主計局の官 僚にとっては四カ月にわたる地獄の長丁場である。 査定は、基本的に課長補佐レベルの主計官補佐 ( 主査 ) が受け持ち、九月末から一〇月上旬の 「第一次局議」に臨む。第一次局議は局次長が主宰して、厳しい審査が微に入り細をうがって おこなわれる。課長級である主計官は、重要局議案件は別として、主査の査定作業にはほとん ど介人しない。主査の査定作業は不眠不休でおこなわれる時間との競争であり、中身を主計官 に説明している時間はないためである。主計官はもつばら政治向きの用務を果たす役割を担う。 主計局内には、主査、主計官、次長、局長という四段階のレベルのピラミッドがあるが、そ のはしご段の中に、主査と次長、主計官と局長という二つの人れ子のコンビができる。主査・ 174
主計局主計官 旧大蔵省主計局の組織については「三個師団九連隊」と呼ばれていた。予算を担当する最前 線の九人の主計官がいて、三人の主計局次長に主計官三人ずつが割り振られたことから、この 呼び名がある。文官にもかかわらず、なにゆえ軍隊の編制用語を使うのかといえば、「昔陸軍、 今大蔵省」と言われた時代の名残である。 予算担当の主計官のほか、企画担当、総括担当、法規課担当の三人の主計官がいる。このう ちの企画担当の主計官は、全体を見て予算編成のグランド・デザインを考える立場にある。か っては、主計官になり立ての者が担うジュニアなポストであったが、財政状況が厳しさを増す につれてグランド・デザインが重要となり、最もシニアなポストへと地位が変化していった。 主計局の予算担当主計官は九人いるが、九人の主計官がすべて横並びに平等の責任を分担し ているわけではない。大規模な予算を取り扱う担当者には、ゆくゆくは次官や局長などの重要 ポストを狙う人材が配置された。一九七〇年代にはそれが、農水、公共事業、厚生の三人の主 計官であった。この三人の主計官の支配下にある予算係のことを「大部屋ーと呼ぶ習いであっ た。主計官の下の主計官補佐 ( 主査 ) を数人も抱えて、一省を丸ごと担当するからである。 主計局ではこの大部屋に優秀な人材を集めた。カネを目当てに有象無象のタックス・イータ
次長組は実務の査定、主計官・局長組は国会関係というように、それぞれが事務と政務とを分 担する。 第一次局議に先行して、あるいはそれに並行して「重要局議、がおこなわれる。これは主計 局長が主宰するもので、官邸の了承を必要とするような政治案件の重要事項について議論する 会議である。このような重要案件は、小泉内閣が創設した「経済財政諮問会議」の『骨太の方 針』において決定されるようになった。 予算編成権を握る者 よ、小泉内閣において本格稼働を始めた合議制機関である。総理を議長と 経済財政諮間会議ー 策 対 して関係閣僚と有識者を集め、経済・財政運営の基本方針を定める。二〇〇一 ( 平成一三 ) 年、 所中央省庁再編の一環として内閣府に設置され、小泉総理によって活用されるところとなった。 題例年六月頃に予算編成の基本的な考え方である『骨太の方針』を提示する。 誰が予算編成の決定権限をもつのかという点については、昔の大蔵省の専権だった時代と違 6 って現在は流動的になった。その時々の総理、財務大臣、経済財政諮問会議メンバー て、どういう人となりであるかによって異なったものとなる。予算編成権を官邸で主導するの 175
ーが集まって介入してくるからである。キャリア組として人省すると、「官僚は人に頭を下げ られても、それはポストに対してであって、おまえ個人に頭を下げているわけではない」と徹 底的に叩きこまれる。それでもはき違えて道を誤る者が出て、大蔵省は分割の憂き目を見た。 主計官のなかでも農林担当主計官は、多くはのちに主計局長、次官のコースを上り詰めてい く人材があてられた。エリート中のエリートの主計官である。こういう人物のなかでもさらに 大物になると、退官後もと現役を包括する全人事体系を掌握して「大蔵省のドンーなどと 者呼ばれ、人には見えない影のピラミッドの頂点に君臨し人事を動かしていた。 いかに政治的な大間題であったかを物語るエピソ 往時の農水予算が、米価その他を中心に、 ードは多々ある。大臣室の御前会議で農水予算のある項目をめぐっての議論があった。そのと きは、次官と主計局長がいずれも農水担当主計官経験者であった。大蔵大臣の両脇に座って、 ス問題解決のための議論をしながら、互いを指で差し合って「おまえがやった予算だ」「いや、 おまえがやった予算だ」と笑いながらやり合っていたのを目撃して、いたく感心したことがあ 公共事業担当主計官もこれに次いで出世街道であった。理由は同じである。厚生労働担当主 計官は、これらに比べれば半歩下がるところがあった。厚生省の首脳が「厚生担当の主計官経
った。消費税導人の決定に際しての貢献は殊勲甲といえるだろう。理屈もなしに喚き立てる若 手議員がいようものなら一喝で黙らせたものである。 主税局の幹部にとって、党税調での審議は非常に厳しいものがあった。自民党本部に呼び出 されて猛烈な吊し上げを食う。この吊し上げは要求側のガス抜きという側面もあるが、身も細 るほどに凄まじいものであった。主税局の課長以上は出席するが、課長補佐以下は出席させて もらえない。なぜか。党税調の側が出席を認めないということではない。主税局の課長クラス 以上の面々は、罵詈雑言のただ中で吊し上げを食うことになる。その姿を部下には到底見せた くないから部下の随行を禁じたのである。 主税局の課長といえば、主計局の主計官と同じレベルのポストである。主計官は国会議員か らは大事にされ、酒の席に呼ばれて蝶よ花よとちやほやされることもある。それに引き替え主 税局の課長はというと、呼ばれるのは宴席でなく党税調という伏魔殿なのだから、まことに雲 泥の差である。主税局の課長として一回でも党税調の吊し上げを経験すると、その後の人生は 何が起ころうとも「あれより恐ろしいものはあるはずがない と思えるよ、つになるから度胸が つく。そうして主税局の幹部は、増税という非常に厳しい作業でも、図太い神経で難局を乗り 切る胆力が備わるのである。かくして技は伝承されていった。
か、昔日のように財務省がすべて仕切るのか、あるいは政権与党主導のものとするのかは、そ のとき誰がどのポストにいるかによるのであり、最終的には永田町・霞が関の権力関係で決ま る。配る財源が豊富にあった時代ではなくなり、かつ大蔵スキャンダルによって大蔵省の権威 が失墜して、このような仕儀となった。 積み上け対増分主義 主計局の三人の次長が作った第一次局議の査定案が、年末における予算政府案の原型となる。 ただし、内示復活の前にもう一度総ざらいをするために「第二次局議」がおこなわれる。一次 局議・二次局議では、旅費、人件費その他の各目明細までが細かくチェックされる。その背景 には、予算は個々の予算事項の正確な査定による「ゼロからの積み上げである」という考え方 がある。このように細かな「積み上げ」で編成される予算が、木を見て森を見ずの弊に陥るこ しかも、重箱の隅をつつくような規制をしながら、大きなところで尻抜け とは避けられない となっていることは先に述べたとおりである。 対する要求する側の各省庁には、前年度に付けられた予算は自分たちのものであって、一度 付いた予算は削減できないという既得権の発想がある。したがって、要求は前年度の予算にど 176
験者からもっと主計局長、次官を輩出してほしいものだ」とこぼしていたのを聞いたことがあ る。ニクソン・ショックで財政状況が急変するまでは、万事このような具合であった。 中選挙区制時代の選挙は、地方に議員定数の配分が厚く、地元利益誘導型の議員に票が集ま る仕組みになっていた。このような仕組みをうまく利用したのが、農水省、建設省などの事業 官庁である。予算をばらまくことによって地方の政治家と結託して利権の中枢に位置し、権勢 を誇っていたものである。地方財政担当の主計官も、大部屋に並ぶ重要ポストであった。 事業官庁 霞が関の官庁は、政策官庁と事業官庁とに大別される。事業官庁は予算を大量に使用して所 管領域の事務を遂行していく官庁で、国交、農水、厚労の三省が代表である。これらの官庁に 特有のものとして「とにかく予算を確保したい。予算がなければ何もできない」という心理が ある。そのため、政界業界との結束を固めて財政当局に政治的圧力をかけ、 ) ゝ し力に大きな予算 を分捕るかが最大の課題となる。 近時の予算規模の大きさでいえば、厚労省による社会保障費が群を抜いている。その破綻の 歴史は昭和四八年度予算に始まる。「福祉元年」は同年予算をもって嚆矢とする。ところが、
と、会計監査の域を出ないものばかりが羅列されている。会計監査の域を出て、業務監査の域 にまで踏み込んだものとしては、高速増殖炉「もんじゅーのプロジェクトとしての評価くらい のものであろう。会計検査院は相変わらず、政府の会計経理の適正を検査するばかりで、法文 にあるように政府の政策の「経済性、効率 4 生及び有効性の観点」から検査することなどは念頭 にないよ一つに見、んる 筆者は主計局の予算係に配属されていたこともあるが、少なくともその経験からすると、会 計検査院が生み出す成果物を何らかの判断の基礎とすることはなかった。そもそも、主計局全 体が会計検査院に何ひとっとして期待していないのである。現状のままでは、タックス・イー ターの駆逐に何らかの役割を果たせることはないであろう。 審査請求 では、会計検査院の機能を拡大強化して、タックス・イーターの事例の数々を発見し、評価 し、公表し、是正を勧告できるように制度を整備し、予算と人員を配備してはどうか。事態打 開の第一歩となるであろうか。これが最重要論点である。 会計検査院法三五条には、審査請求の制度がある。データによると、利害関係人からの要求 182
とはまずない この内示復活のセレモニーは、族議員が業界と選挙区に「どうだ、俺は仕事を しているぞ」と見せる場をこしらえる必要から考案されたものである。予算関係者は地元から 東京に出てきて要所に挨拶をしてまわる。年末における霞が関と永田町の風物詩であった。 平成になってからようやく、九州選出のある議員がこのセレモニーのからくりに気がっき、 主計局の総務課長を呼びつけて「内示復活は人を欺く儀式ではないのか」と問い詰めた事件が あった。総務課長はハナから相手にせず、件の議員がいかに猛り狂っても、しゃあしゃあと建 前だけ説明して、表も裏もないと言い張って押し切った。 一二月二三日が体日になってからのことである。与党から、従来の予算編成の段取りをすべ て変更して一二月一一三日の前に終わらせろ、という要求が出た。右と同じ総務課長は、与党幹 部に向かって「そんなことが出来るわけないだろう。主計局に死人が出るぞ ! ーと、机をバン バン叩いて怒鳴りまくって押さえ込んだ。なかなかの武闘派であった。 内示復活劇のような猿芝居も今となってはさすがに通用しない。復活折衝などというセレモ ニーはほとんどやらずに、現在は重要案件の処理だけになっている。 蛇足だが、猿芝居といえば、大蔵省はかって為替の介人は日銀が自己の判断でおこなってい ると説明していたこともある。こうして世間の目をそらしていたのも似たような欺瞞である。 172
かって、予算の内示のときの記者会見で「昭和の三大馬鹿査定」と言い放った主計官がいた 戦艦大和、青函連絡トンネル、伊勢湾干拓堤防工事の三つだそうである。今であれば、何某川 このような大 河口堰、何某湾干拓事業、何某ダムなどは「新三大馬鹿」と言うかも知れない 規模プロジェクトが本当に必要なのかを審議し、不当なものについては指弾して責任者の責任 を追及する権能を与える必要がある。 決算委員会は議論だけで済ませずに、予算の策定、執行、成果の評価をして、不適切であれ ば責任者に責任を取らせなければならない。そうすることによってのみ、後続の事業について の判断を慎重なものにすることができるのである。最後は結局、国会がそのような強力な監視 機能をもつ意志と気概があるかという間題に帰着する。 策 対議院内閣制の下で、政権与党が自分たちの党の内閣の政策とその効果を厳しくチェックしょ 在 うとするであろうか。司法にそのようなチェック機能をもたせることは可能であろうか。それ 所 題が次節のテーマである。 章 第 189