バブルの引き金をひく マーケットはプラザ合意に即時に反応した。ドルは急速に売られて安くなり、円は予想以上 に高くなった。ここで日本の財界はまたしても円高に悲鳴を上げ、政府を突き上げて財政金融 政策の発動に踏み切らせた。八五年一〇月には、三兆一〇〇〇億円余の過去最大規模の経済対 策を講じ、一二月の予算でその具体化を図った。日銀も追い込まれて、翌八六年の一月に公定 歩合を〇・五 % 引き下げ、さらには三月にも〇・五 % 引き下げた。それでも、さらなる総合経済 対策を要求する声が産業界を中心に高まるばかりであった。マスコミの論調もまったくこれと 革同じであった。 政四月には前川レポートが出され、ほぼ同時に「総合経済対策」が発表された。同月、日銀は 行 なさらに公定歩合を〇・五 % 引き下げた。これで公定歩合は三・五 % という戦後最低の水準になっ わた。緊縮財政のなかで金融政策にしわよせが行っていることは明白であった。 終 五月には当面の経済対策、九月にはさらに新たな総合経済対策を講じたが、その内容が薄い 4 との批判が巻き起こる。ただし、内容が薄いのは当然のことで、「必要のない経済対策を講じ なければならないなら、見た目の華々しさだけを取り繕えばよい」と考えて、経済対策を連発 115
アベノミクスにおける「第一の矢」は金融政策による円安誘導である。しかし、輸出型企業 は現在、円が大幅にぶれるのを嫌って、すでに生産拠点を海外に移してしまっている。円安が 輸出振興に役立っという神話はもはや成り立たない。安倍総理の放った一本目の矢が的の中心 を射貫くことはない。次なる「第二の矢ーは機動的な財政政策である。古典的な手法であるが、 これは供給が追いっかずに効果が出ていないという予想外の結果に終わった。 財政政策の難しさは、ゝ しちど熱を帯びた経済を引き締めることはなかなか難しいことである。 景気刺激策としての財政政策は即座に実行される。しかし、経済が財政によるテコ入れを必要 としなくなり、むしろ逆に引締めを必要としはじめたとき、政府は国民の不人気を恐れるあま り、世論に評判の良くない引締め策をためらう。対策はつい遅れがちになり、かっ不十分なも のになる。これを、財政政策の「非対称性ーという。その点が決定的に重要である。 著書『雇用・利子および貨幣の一般理論』によって財政政策の発動による恐慌対策を考案し たケインズは、このことに当初から気がついていた。そして、財政政策の発動による景気調整 は、民主主義的な意思決定によるのではなく、ひと握りの知的エリートによってなされること を前提とすればよいと考えた。このような考え方を、ケインズの生家のあるケンプリッジの通 りの名にちなんで、「ハーヴェイ・ロードの前提」という。
日銀の黒田総裁も、多数決で決めた経済政策が最良の経済政策であるという根拠は一切ない、 というのが持論である。金融政策をつかさどる中央銀行は政府から独立である方が望ましいと いう考え方があるが、その理由も右の「非対称性」にもとづく。金融政策によって景気浮揚を 図りたいとき、政府は中央銀行に過剰な圧力をかける誘惑にかられる。一方、金融を引き締め なければならないときには、どうしてもためらいがちになるからである。 日銀は、大蔵スキャンダルをきっかけに、一九九七年の日銀法全文改正によって政府からの 独立性を勝ち取った。しかし、アベノミクスの始動に当たって安倍総理は、日銀の金融政策を まさあき 起コントロールしようとするあまり、日銀法の改正までちらっかせた。当時の白川方明総裁と安 一倍総理、どちらの判断が正しいのか。それは歴史が審判を下すことであろう。 イ 冬また冬 ス ク . 高度成長期、各省庁の官僚たちは、自分たちの管轄の範囲内でそれぞれ何らかの目標をもち、 タ その目標に向かって邁進していた。インフラの整備、電源開発、中小企業振興、食糧増産、福 章 祉の充実など、日本の経済にとってどれも重要であったことに疑問の余地はない。官僚たちの 第 目標がそのまま国益に直結していた時代であった。司馬遼太郎が描いた明治期の『坂の上の
ド・ゴー政策」である。行き詰まった固定相場制を無理に維持しようとすると、このような不 自然な経済政策の悪循環に陥るわけである。 しかし、戦後の日本経済は、高度成長の時代を通じて十分に競争力を高めて経常収支の黒字 が定着し、外貨準備も世界のトップ・クラスにまで上り詰めた。ところが、まさにその時、そ れと正反対の立場に追い込まれて経常収支の悪化と金の流出に苦しみ抜いていた米国が、渾身 の一矢を放った。それが、ニクソン・ショックである。結果的に固定相場制は廃止され、世界 経済が変動相場制へ突入したことで、日本が享受していた一ドル三六〇円という超円安は突如 源 起終わりを告げて、円は実力にふさわしい価値にまで切り上げられることになった。 そうして大小の円高局面で輸出産業などが被害をこうむると、その都度、財政金融政策が発 タ 動されるようになった。プラザ合意などの大幅な円高局面だけでなく、ちょっとした円高であ イ ってもつねに財政金融政策の大盤振る舞いがなされた。まず「調整インフレーという美辞麗句 ス ク をもちいて、行きすぎた円高を金融緩和により円安方向に動かすことが考えられた。高度経済 タ 成長が終わるとともに税の自然増収もなくなると、財政は急速に傷んだ。すると当然、金融緩 章 和にますます依存するようになる。また、補正予算などによって、なんだかんだと理由をつけ 第 て財政政策による手当てがなされた。
渉を受け付けない、たくましい農家でもある。 日本にもこうした強い農業分野が現にあるにもかかわらず、国民は「農林水産業日弱者ーと いう連想が働くように馴致されている。族議員をはじめとするタックス・イーターたちは、巧 みに世論を誘導し、財政に不要で不当な負担を強いているのである。コメの関税化にともなう 六兆円の予算措置はその典型例であろう。震災復興予算一九兆円の流用問題も本質的にはまっ たく同様である。被災者の救済を口実に、復興とはおよそ何も関係のない事柄に貴重な予算が 費消されたことは、いまや知らぬ者とてない 源 起 の 一財政金融政策の難しさ さて、日本の経済政策の失敗は目を瞠るほど多々あるが、円高局面に臨んで政府の無策を批 イ ~ 判する声が上がるたび、その場しのぎの無用な財政金融政策が発動された。その結果、巨額の ク 長期債務残高の累積、過剰流動性に起因するバブル、金融機関を壊滅の淵に追い込んだ金融危 タ 機など、日本の現代経済史は死屍累々の惨状を呈している。これらのほとんどすべてが、円高 章 に対する過剰反応によるものである。ただし、これに米国からのガイアツによる政策発動の強 第 制も付け加えなければフェアではないであろう。
はやないにもかかわらず、財政金融政策の発動が真っ先に念頭に上るようになっている。アベ ノミクスの「第一の矢ーも「第二の矢ーもまさにこれであった。 日本経済は以後、このニクソン・ショックを嚆矢として四度にわたる大きな円高局面を経験 するが、そのたびに世論は政府を突き上げた。そして、政府もこれに応じて、円高対策として の財政金融政策を発動しつづけた。その判断の誤りが、今日における経済の惨状を招いた根本 的な原因である。 四つの円高局面 これは一九五〇年代以来、四つの円高局面を表したグラフで ここで図 1 ー 1 を見てほしい ある。その一回目が、先に見たニクソン・ショックを引き金として一九七三年から始まった、 変動相場制への移行過程における円高局面である。一一回目は一九八五年のプラザ合意を契機と する円急騰の局面である。この際、政府はドル高の是正を図ろうとしたところ、円がオー ・シュートしてしまった。変動相場制の困ったところは、円高なら円高の一方向に雪崩を打 シュート」 って進み、均衡点をはるかに行きすぎてしまうところにある。これを「オー という。三回目は、一九九五年四月一九日、瞬間的に七九円台をつけた超円高局面である。こ
②その結果、「金融セクターと実物セクターの乖離」が広がる。「資本収益率 > 経済成長率」 という現象もこのことから容易に説明できる。また、近時流行の長期停滞論もここに根拠を見 いだすことができる ③・④金融セクターが狂奔するマネーゲームは、実物の生産を何らともなわない虚業である から、量的に成長しているといってもそれはバブルに過ぎない。そうして発生したバブルはや がて必ず破裂する。 ⑤「金融は経済の血液である」と言われる。金融セクターで起きたバブルの破裂は実物セク ターに多大な被害を及ぼす。このとき初めて、二つに乖離していた金融セクターと実物セクタ ーとの間に望ましくない関連性が生まれる。 ⑥政策当局は、このようなバブルの破裂にともなう経済的ダメージを放置できない。そこ て 越で救済に乗り出すが、その救済は「 ( 00b 一 g ( 0 蕓一」 ( 大きすぎて潰せない ) の発想にもとづくもの 境である。そして、大きすぎて潰せない巨大金融機関のために、巨額の国費が投人されることに 国 なる。 章 ⑦ところが、政策当局による救済は、市場に「過剰流動性のさらなる供給」をもたらす。 第 ⑧その結果、世界の金融市場は再び過熱しはじめ、新たなマネーゲームとバブルの生成の 163
快感を示した宮澤蔵相 ( 当時政調会長 ) が、プラザ合意の向こうを張って漕ぎ着けたループル合 意であったが、結局は空振りに終わったのである。 五月になって緊急経済対策が決定されると、その内容には六兆円規模の真水の財政措置が含 まれていた。ところが、この時点で日本経済が回復軌道に乗っていることは明らかであった。 はじめ 大蔵省は大臣官房、主計局を筆頭に全省あげて阻止を図ったが、田村元通産大臣を陣頭に立 てた通産省がこれを押し切った。当の通産省の官僚は、六兆円の真水を推進していたにもかか わらず、いざ決定されてみると「これ以上の経済対策を打っと経済が過熱して大変なことにな る」と言い出した。 革 バブルへの引き金は、かくして引かれた。ガイアツに屈し、財政の苦しさから金融政策にツ 改 政ケをまわしつづけてマネー・サプライを増加させた大蔵省の責任の上に、通産省の手柄ほしさ 行 き の緊急経済対策による六兆円の財政支出が火をつけて、バブルは起きたのである。 わ円高恐怖症は、日本経済の体質転換を阻害しつづけた。政府と財界は円高にともなう痛みか 終 らひたすら逃げ回ることだけを願い、大局を見失って経済政策を誤った。手術すべきところを 章 対症療法で誤魔化したということである。それが完全に裏目に出た。モルヒネで苦痛を緩和さ 第 せても根本的な治療にはならないのである。 117
3 日本発金融危機 護送船団方式の終焉 長らく続いた日米金融摩擦によって、日本の金融自由化は一九九三年には終了していた。し かしその時点で、日本の金融機関はバブル崩壊にともなって恐るべき不良債権問題に直面して いた。おそらく当時のほとんどの金融機関は債務超過に陥っていたが、それが十分には認識さ れていなかった。 一九九六年にはバブル後の不良債権間題に苦しむ日本の金融機関にさらに追い打ちをかける かのように、あるいは死中に活を求めるかのように、日本版金融ビッグバンが実施された。日 本版金融ビッグバンは、橋本行革の一環として提出された六分野の規制緩和の大方針に沿って おこなわれた。 「ビッグバン」の名前の大本は英国である。サッチャー政権の前までの英国経済は不況にあ えぎ、英国病とまでいわれた。サッチャー首相は「サッチャリズム」と呼ばれたサプライ・サ イド・エコノミクスで労働組合の力を弱め、ビッグバンという大胆な金融自由化政策でシティ 120
下ごしらえができる。 かくして、サマーズ元財務長官が「三年に一度はバブルが起きる」といみじくも述べている ように、世界規模で異常な金融危機が頻繁に生起する。そして、そのたびにツケが中低所得層 の納税者にまわされていくのである。 アラン・グリーンスパンは、その一九年間にわたる議長在任中、まさしくこれら①か リーマン・ショ ら⑧のことを推し進めて、最終的にはリーマン・ショックを招いた。そして、 ックが起きると「これは一〇〇年に一度の災厄だ」とまるで他人事のように言って失笑を買っ たうえに、「バブルは破裂して初めてバブルだとわかる」などとも言った。 グリーンスパンの政策方針は「グリーンスパン・ブット」と呼ばれた。「ブット」とはブッ ト・オプションのことで、狂ったようにマネー・ゲームを繰り広げバブルがはじけて大損を出 しても、グリーンスパンが気前のいい金融政策で救ってくれるから心配はいらない、 という意 味である。後継者のバーナンキもその政策方針を継承し、「バーナンキ・ブットと言われた。 近時の日銀による異次元緩和についても「クロダ・ブット」という一一一一口葉が囁かれている。同じ 轍を踏まないことを願うばかりである。