く取り扱う理論を構築できなかった。理論が現実のスピードについて行けず、現実を分析しき れなかったのである。ようやく理論の構築に成功したとき、この領域は、変動相場制を前提と して貨幣的要因を考慮した国際マクロ経済学という形の理論に生まれ変わっていた。この学問 領域は現在、「オープン・マクロ」と呼ばれている。 オープン・マクロのひとつの理論的な到達点が、マンデルⅡフレミング理論である。この理 論は、変動相場制の下で、財政政策と金融政策が経済にどのような影響を及ばすかについて理 論的枠組みを与えた。その結論は、固定相場制の下における財政政策と金融政策が経済に与え る影響に比較すると、まったく異なる結論が導かれるものとなっている。 変動相場制そのものについては、「固定相場制にはない効率性がある」という肯定的な評価 が与えられている時期があった。あるいは、実際には固定相場制を維持できるだけの力が各主 権国家にはないのだから、変動相場制を前提にしない理論モデルを考えることは時間の無駄で ある、という暗黙の了解でもあったのかも知れない。 しかし、今日のように国境を越えて怒濤の勢いで流れ込むマネーがもたらす災禍を眼前に見 るとき、変動相場制の調整機能なるものの限界が噴出してきていると言わすにはいられない。 経済学はこの事態をただ手をこまねいて観察し、分析しているだけでよいのかという考えも頭 214
ノーベル経済学賞受賞者のジェ 1 ムズ・トービンは、一九七二年にトービン税を提唱した。 トービン税とは、国境を越えるクロスポーダーの通貨取引に課税して、投機マネーの過度の国 際間移動にプレーキをかけよ、つとい、つものである。 一九七一年のニクソン・ショック ( 金とドルとの互換性の放棄 ) が引き金となって、世界は変動 相場制の時代に突入した。トービンは、その直後の一九七二年にはすでに、クロスポーダーの 金融取リ ーに課税して、投機マネーの動きに歯止めをかけようと考えていた。これは時代の先の 先を行く慧眼であって、驚くべきことである。 しかしながら、その後はかなり長きにわたって、トービン税構想は経済学の教科書の一トピ ックとして取り上げられる以上には、人びとの関心の対象となることはなかった。その理由は はっきりしている。「変動相場制には固定相場制では果たしえない経済的不均衡の調整機能が 模 ある」という考え方が、経済学者たちの間で支配的であったためである。 の 抗国際経済学は二つの領域に分かれる。貿易論と国際金融論である。貿易論は、貨幣を考慮せ 対 ずに、財・サービスの貿易という経済事象を分析する学問領域である。国際金融論は、これと 6 は異なり、貨幣を取り入れた国際的な経済分析をする分野であった。 世界的に変動相場制が定着してからおよそ一〇年の間は、国際金融論は、変動相場制をうま 213
とになった。 英国大蔵省とイングランド銀行の行動はドン・キホーテのようなものでしかなかった。自ら そう気づいたときには、無益に費やされた資金は二七〇億ドルに達していたという。これはす べて、納税者が支払うことになる無駄金である。他方で仕掛け人のソロスは、一九九二年だけ で個人資産が六億ドル以上にも増えたとされる。 レバレッ ) ン 投機マネーによって破壊されつつある金融システムを守るべく政府が動員できる資金は、ヘ ッジ・ファンドなどのマーケットが動かす資金の規模に比べれば微々たるものに過ぎない。政 府とマーケットの資金規模の差は、為替相場への介入を見れば一目瞭然である。 政府資金の介入だけで為替相場をコントロールできないのはなぜか。政府資金とマーケット との間に、動かせる資金規模に圧倒的な差があるからである。政府資金で為替相場をコントロ ールできるならば、そもそも変動相場制になるはずがない。固定相場制を維持できないのは、 マーケットが売り浴びせてきたとき、それに対抗して政府が買いにまわせる資金の規模があま りにも小さいからである。ヘッジ・ファンドなどが動員する投機マネーは、一国の経済を呑み 152
第 6 章対抗策の模索 をもたげてくる。 マンデルによる最適通貨圏の理論は、単一通貨が良いということを前提にしてその単一通貨 でカバーできる経済の範囲はどこまでかを導こうとする理論である。そして、理論だけではな く現実に変動相場制が貿易障壁とならないようにと、単一通貨圏の実現に踏み切ったのがユー ロであった。ヨーロッパは先進国の集合体であり、しかも国同士がびっしりと肩を寄せ合って いる。ヨーロッパでは長い時間をかけ、多大な労力を払ってユーロ・ゾーンを構築していった。 しかし、ユーロ危機によって、いまやそのチャレンジも危機に直面している。 トービン税構想が再び注目されるようになったのは、一九九四年、メキシコ通貨危機がきっ かけである。変動相場制の弊害が端的に見えるようになってきたちょうどその頃、長い眠りか ら覚め、真剣な検討対象としてよみがえってきた。マネーの奔流にプレーキをかける一案とし て、試みるに値するであろう。 国際連帯税 国際連帯税は、トービン税とは異なって、むしろ税収を何に使うかということの方に主要な 5 関心がある構想である。そのアイデアは、国連ミレニアム・サミットにおいて提起され、二〇
ことを前提にシステムを組んだことである。後知恵ではあるが、財政の辻褄が合わなくなるこ とは当たり前のことであった。福祉元年は、財源が急激になくなりはじめる元年でもあったの である。 しかも悪いことに、円高によって景気が悪くなると、マスメディアを筆頭に日本社会全体が 悲鳴を上げて、ケインズ的な財政の大盤振る舞いで解決を図った。財政は悪化する一方であっ た。いまや毎度毎度のことであるが、当時は大蔵省の力が日銀よりも強かったから、いきおい 経済政策は金融緩和に依存することになる。結局、それが過剰流動性問題を引き起こして、 プル経済を誘発することになった。 変動相場制と円高は否応なしの与件であるから、円高ではやっていけない産業・企業は市場 から退出させてしまうのが正しい。それを財政金融政策で救おうとすれば、生き残る資格のな い産業・企業がゾンビとなって、いつまでも日本経済の足を引っ張ることになる。それに気づ かずに保護政策をとりつづけた政治家も官僚もマスメディアも愚かであったと言わざるをえな 。長期的に見れば、日本の経済政策運営の失敗は円高対応の拙劣さにある。経済学者や評論 家がこの点を厳しく指摘しないのは不思議というほかはない。 金融行政にいたっては、保護行政と監督行政という相反する行政を大蔵省の同じ部局でやっ 166
うほかはない。 高度成長期に国庫は税収の豊富な自然増収で潤っていた。大雑把にいえば、自然増収の三分 の一は真っ当な政策予算にあて、三分の一は減税にあて、残りの三分の一を無駄遣いにあてる という図式で財政運営は行われていた。 政治家は地元への利益誘導を優先した。そういう政治家でなければ有権者が選出しなかった からである。有権者の責任にも重いものがある。しかも議員定数の配分が農村部に傾斜しすぎ ていた。省庁は省益確保を優先した。族議員と官僚と業界団体の「鉄のトライアングル体制 機 危は、田中角栄によってその完成形を見ることになった。税金を食い物にするタックス・イータ 金 ーが日本中にあふれた。霞が関の官僚もこれにつられて、いっしか国益よりも省益を優先する る すメンタリティに染まっていき、志の高さを失っていった。官僚組織に身を置いていた筆者の実 て感である。 続日本の高度経済成長は、三六〇円という超円安レートによる輸出によって支えられていたが、 連 一九七一年のニクソン・ショックを契機に変動相場制へ移行すると急激な円高になり、輸出主 章 導の日本の高度成長期は終わりを告げた。皮肉なことであるが、日本の社会福祉制度は同じ一 第 九七一年の時点から整備が始まった。その本質的失敗は、従前のような税の自然増収がつづく 165
機に際しては、の一〇 % という大規模な公的資金が必要であるという相場観は、このと きに形成されたように思われる。 図 5 ー 1 には入れなかったが、 アメリカの一九八〇年代における二度にわたる oo & 危機の 際の公的資金注入の規模も、の一〇 % という相場観の基礎になっている。 & とは貯 蓄組合のようなものである。このの一〇 % という相場観は、後年、日本の金融危機の際 に役立った。日本は概算で言って五〇〇兆円経済である。金融危機に際して日本国政府は当初 ハ〇兆円を用意し、さらにこれを七〇兆円に増額した。 アジア通貨危機 一九九〇年代の初め、アジア経済はドルにペッグ ( 自国通貨を為替相場と結びつけること ) してお り、資本取引の自由化によってホット・マネーと呼ばれる短期資金が大量に流入し、外資の流 入で繁栄を謳歌していた。ところが、タイのペッグは長続きしないと見たヘッジ・ファンドが、 ーツを売り浴びせにかかった。これによってタイが外貨不足に陥っての支援を求めた。 この危機は周辺国に一気に広まった。ヘッジ・ファンドが火付け役であったという点で、ポン ド危機とアジア通貨危機は構造的には同じ面がある。 160
有名であった。しかしながら、ちょっとした相場の読み違いが原因で一気に破綻の淵に追い込 まれた。理論の最先端どころか、とくに複雑なファイナンス理論による投資を行っていたわけ ではなく、わずかな相場の不整合に金をつぎ込んで利ざやを稼いでいただけに過ぎなかった。 »-a O は借り入れによってレバレッジを利かせた投機を行っていた。そのため、 *-a O がデフォールト ( 債務不履行 ) すると、波及効果で世界の金融機関、とくにアメリカの金融機関 が連鎖倒産するドミノ現象の引き金を引いてしまう可能性があった。そこで、ニューヨーク連 銀のマクドノー総裁が主要なメガ金融機関のトップをニューヨークにかき集めて、なかば強制 的に資金を拠出させて急場をしのいだ。 マクドノー総裁はバーゼル委員会とのメンバー同士でもあったことから、筆者とはお 互いによく知る間柄であった。の騒ぎが終熄した後、マクドノー総裁が連邦議会に召 喚されて、を救済したことで責められているシーンをテレビの生中継で見た。折しも 日本の金融危機の真っ最中である。あのマクドノー奉加帳がなければ、アメリカは大変なこと になっていたであろう。 ー }—バブル崩壊
かなければならない と述べた。国内の経済を守るためには、その血液である金融システムを しつかりと規制しなければならない。そのために、金融規制行政が重要になる。内外の取引者 は規制によって取引の形態が制限され、それによって国内経済が守られるわけである。 ところが外国の取引者で、そのような規制された取引をしたい者がいるとする。仮に政府は その外国人がそのような取引をしたとしても、国内経済に影響を及ばさない限りは構わないと 判断したとしよう。そして特別に、外国人同士だけが取引できるようなク座敷クを設けて、そ こで取引させることにしたとする。税金も免除する。外国人同士だけの取引であるから、国内 経済に対する悪影響は遮断できるし、座敷を貸す座敷料は国内に落ちるというわけである。 たとえば、カジノを例として考えればよい。日本ではカジノは禁止されている。しかし、こ こでお台場に「特区ーを設けてカジノを開設することに決めたと仮定しよう。お台場のカンノ では、中国や韓国からの観光客はルーレットやプラック・ジャックを楽しむことができるし かし、賭博罪にあたるから日本人の入場は許されない こ、つい、つイメージである。 一方、②のような一体型オフショア・マーケットの典型は、世界の金融センター、ロンドン である。「ロンドンはオフショア・センターである」と言われる所以である。 一九五〇年代半ば、ロンドンではユーロドル市場というオフショア・マーケットが成立した。 0 、ヾ
ショックと言われた。これがリーマン・ショックへとつながっていくのである。 次に「どのように」だが、それを知るには、マネー・ゲームの主要プレイヤーであるヘッ ハルなメガ ジ・ファンド、その資金供給源としての個人富裕層や機関投資家、さらにはグロー 金融機関の動きに注目する必要がある。 たとえば、一九九二年のポンド危機の経緯を見てみよう。この危機の原因は、ジョージ・ソ ロスのクオンタム・ファンドが仕掛けたポンドの売り浴びせである。当時のポンドは ( 欧州為替相場メカニズム。単一通貨ューロの前身 ) というヨーロッパの通貨メカニズムに加わって 機 いたが、ソロスはその中でのポンドの割高感に目をつけた。そして、世界の金融センターを擁 融 金する英国を向こうにまわして、徹底的にポンドの空売り攻勢をかけた。ソロスが空売りしたポ すンドはおよそ一〇〇億ドルであったという。 襲 英国が相手にしなければならなかったのはソロスだけではなかった。マーケットがソロスに て 続追随して、怒濤のようにポンドに襲いかかったのである。これに対してイングランド銀行は徹 底抗戦を挑み、ポンドを買い支えてポンド防衛を試みた。しかしながら、政府資金の規模など、 章 ソロスとその投機行動に追従する マーケットが動かす資金規模に比較すれば物の数ではない。 第 マネーの攻撃の前にイングランド銀行と英国大蔵省は膝を屈し、英国はから離脱するこ 151