どの奥でくつくっと笑った。「無駄だよ。どう考えたところで、殺人は許されるか許され ないかの二つに一つだ。戦争だから許される。戦争が終わったから許されない。そんなも のではありえない。敵も味方も関係あるものか。それに、だ」手を振り、ロを開きかけた ささや 私を制して、囁くような早ロで先をつづけた。「あんたはいま、日本が軍国主義だったか ら戦争をはじめたと言ったな ? いや、あんただけじゃない、いまや日本人自身までが だま 『日本人はこれまで軍部に騙されてきた。敗戦によって日本は解放されたのだ』と言って いる。だが、妙なことに、俺が覚えている戦争前の日本社会は、あんたたちに解放しても らう前から、民主主義国家だったのだよ。俺が覚えている〃戦前〃の日本では、投票によ って国会議員が選ばれ、彼らが国政を担当していた。つまり、国会で決められる法律や政 策はすべて、形式上は、国民の意思を反映したものだったのだ。あんたたちは、それを民 主主義と呼んでいるんじゃないのか ? もし日本が帝国主義的侵略戦争に邁進したのだと したら、あるいは民主主義や国際秩序に対して戦いを挑んだのだとしたら、しかしそれも また民主主義の結果だったということになる。これはいったいどういうことなのだ ? 何 を意味している ? 」 私はキジマの意外な興奮ぶりに驚きながら、慎重に口を開いた。 「そう : : : 戦前の日本の民主主義は不完全なものだった、と聞いているー 「完全な民主主義なんてものがどこにある ? 」キジマは唇の端をゆがめて言った。「古代 ギリシアで民主主義が発明されて以来、そんなものはかって存在しなかったし、これから
トーキョー・プリズン もけっして存在しないだろう。そもそも民主主義には完全な形なんてものは存在しない。 それが民主主義の特徴なんだ」彼は大きく見開いた眼をぎらぎらと輝かせ、低い、ようや く聞き取れるほどのかすれた声で、早口につづけた。「あんたたちは今度の戦争は民主主 義を守るための戦いだったと言っている。すると、本当は良心などではなく、民主主義こ そがあんたたちに戦争を許し、人を殺すことを許したわけだ。なるほど、古代ギリシアで 発明された民主主義は人類の偉大な発明品の一つかもしれない。だが、大きな正義という やつは、民主主義であろうがテンノウ制であろうが、いくら真っ白に見えようと、近づく : こんな具合にな」 と無数の染みがあるものなのだ。 たた キジマはそう言うと、ふいに手を伸ばし、べッドの反対側の壁に勢いよく叩きつけた。 彼が壁から手を取りのけると、真っ赤な血のあとが小さな丸い点になっているのが見え かぎ がちゃがちゃと鍵を回す音がして、独房の扉が開いた。 のぞ 看守の若者が、恐る恐る顔を覗かせた。 「 : : : 大丈夫ですか ? 」 「なんでもない」私は首を振って答えた。「壁に這っていた虫を殺しただけだ」 「ああ、南京虫ですね。ここはよく出るんですよー看守の若者はほっとしたように言うと、 私を見てたずねた。「ところで、そろそろ交替の時間なんですが : : : 」 私はべッドの上に目をやった。
しようね。日本がどんな理由で戦争をはじめたにせよ、結果的に何十万人もの市民が死ん だのです。誰かが責任を取らなければならない。とすれば、企業だろうが国家だろうが、 責任は必ずトップの人間が取るべきです」 日本の王 私は無言で肩をすくめてみせた。今抱えている調査ですでに手一杯なのだ。〃 政存続の是非〃などというやっかいな問題に、これ以上頭を悩ませるのは願い下げだった。 「何をしても誰にも責任がない、なんてところに民主主義が成立するはずがありませんか らね」ポビイはこちらの事情にはおかまいなく、なおも一言葉を続けた。「そもそも深い穴 を覗き込むといった垂直な構図は、民主主義に反するものですよ」 彼はそう言って、立ち去る前に私の返事を待つようすである。 仕方なく、部屋の隅においてある金モールで飾られたクリスマス・ツリーを指さした。 「だが、垂直な構図と言えばあれだってそうだぜ ? 」 ズ ポビイが口を開くより早く、ニシノが唐突に顔をあげ、目を閉じたまま甲高い声で叫ん 一「キリストは十字架にかけられました ! 」 翌日スガモプリズンに行くと、正門のところでニシノが私を待ち受けていたように飛び
221 あき 「それが調査の前提だと言うのか ? 私は呆れて言った。 人はお互いを殺す。機会があれば、必ず。動機など必要ではない。 それが〃王様は裸〃の意味だと言うのか ? 世界の見えない関係性の秘密だと ? 私は反論を試みた。「戦争は終わったんだ。戦争中はなるほど敵を殺すことは〃正しい こと〃だったかもしれない。だが、戦争が終わった以上、もはや敵味方は存在しない。人 を殺す理由はなくなったのだ。殺人は許されないさー 「誰が殺人を許さないのだ ? 」 「誰 ? 」私は一瞬答えにつまった。「むろん、人間の良心が、だ」 あざわら 「それなら、戦争中は人間の良心が殺人を許すのだな ? 」キジマは嘲笑うように言った。 「つまりあんたたち連合軍の兵士たちは、戦争中、良心にもとづいて、日本兵と殺し合っ やま たわけだ。良心の命じるまま、なんら疚しい思いをすることなく、何万、何十万人という 以日本の民間人を殺すことができた。そうなのか ? 」 「今度の戦争は、日本の方から国際社会に戦いを挑んだものだったのだ」私は噛んで含め るように言った。「戦争直前、日本の政府はもはや一部の軍部と財閥の言いなりだった。 ひょ、つぼう まいしん 彼らは国をあやつって、帝国主義的侵略戦争に邁進させたんだ。軍国主義を標榜する日本 の行動は、国際社会秩序への、ひいては民主主義への挑戦だった。だからこそ、われわれ 連合軍は : : : 」 「良心の名のもとに、女子供の頭の上から爆弾をばらまいたわけだな ? 」キジマは再びの
292 「ねえ、きみ」穴が言った。「民主主義というやつはなにも、それをつくる人たち以上に よいものではないのだよ」 穴のまわりで黒い魂たちが歌をうたっている。 ) かざり職人も洗濯屋も、手代たちも学生も / 風にそよぐ民くさになって / みんなみん ないくさに出ていった誰も彼も区別はない / 死ねばいい、 みんな死ねばいいと教えられ て / ちんびらで、小心で、好人物な人々はテンノウの名前で目先まっくらになって / 腕白 小僧のようによろこびさわいで / みんなみんな出ていった ) 歌に和して穴が言った。 たくさんの人が死んだが、誰にも責任はなかったのだ。 もはや誰でもなくなった者が、豚をつかまえ、引き寄せて、穴にむけて首を切った。 どす黒い血が流れ出し、世を去った亡者たちの霊が、深い穴の底からぞろぞろと集まっ めと てきた。幼い乳飲み子を胸に抱いた若妻がいる。まだ妻を娶らぬ若者も、世の辛酸をつゞ さになめた老人も、胸の悲しみもまだ生々しいうら若い乙女たちの姿もある。 だがなんといっても一番多いのは、兵士たちの姿であった。銃弾に腹や胸を、あるいは 頭や顔を撃ち抜かれて戦場に倒れながら、さらには爆弾に手足を吹き飛ばされながら、彼 らはなお血まみれの手で武器をしつかりと握りしめている。 あおじろ 亡者の大群が不気味な声をあげながら、穴の周りをここかしこと飛び回り、私は蒼白い 恐怖に襲われた。
166 「それもこれも、すべて共産主義が悪いのです」マツウラは吐き捨てるようにそう言うと、 ぎろりとした眼を壁際にむけた。「そうだろう、総務部長 ! 」 「そのとおりです ! 」アンザイが機械的に声をあげた。「マツウラ社長は現在、共産主義 と徹頭徹尾、命を懸けて闘っておられるのです ! 」 「聞きましたか ? 」マツウラは私に向き直って言った。「総務部長の言うとおりです。わ たしはこれまでも、またこれからも、命あるかぎり共産主義と闘いますよ。わたしの持っ ているものはなにもかもつぎ込んで、デモクラシイと天皇制護持のために闘います。その ためには、あらゆることを行わなければなりません。そのなかには、たとえば戦犯リスト を作成し、警察に提出することも含まれているのです」 ようやく話題が私の望むところに戻ってきたらしい 「あなた、さっきたしかニージーランド人だとおっしゃいましたね ? 」マツウラがひょ いと思いついたように私にたずねた。「今回のトーキヨー裁判には、ニュージーランド人 も判事として参加されているようですが、あなたご自身はトーキヨー裁判をどうご覧にな っているのです ? あらたまって、たずねられても、私に意見などあるはずがない。 その通り答えると、マツウラは一瞬思案したあと、 「いやいやまた、ご冗談を : これは、あなたをとくに友人と見込んでお話しするので すが : : : 」と視線を逸らし、声をひそめた。「わたしの眼には、今度のトーキヨー裁判は
178 べきなんです。戦争中はさんざんいい思いをしたようですからね。連中は戦争中はさんざ ん『キチク・べ ーエー、撃ちてし止まん』などといって先頭に立って騒いでいたはずなの です。共産主義と闘うなんて言っていましたが、この間までは闘う相手は英米軍だったに 違いありません。本当なら、彼らこそが第一級戦犯にふさわしいはずなのです。連中が戦 争をはじめたのですからね。多数の人間をある建物のなかに押し込めて、ガソリンや火薬 まき くぎ を撒き散らし、石油をひたしたポロをつつこんで戸口に薪を積み、窓を釘付けにして、自 分は棒の先に火を点けたうえで、誰かに命令してその棒で放火させたとして、それが罰せ られないなどということがありますか ? ちくしよう、戦争をはじめた奴らが逃げ延びて、 無理やり戦争に駆り出された若者たちが裁かれるなんて、やつばりなにか間違っています 「エディさん ? 」 いつの間にかうとうとしていたらしい。ィッオの声で私ははっと我に返った。 「その路地を入ったところが、ぼくたちの家です」 私はあらためて周囲を見回した。 はいきょ その一帯は爆撃や火災を免れたらしく、廃墟となったトーキヨーの街並みが嘘のように、 高い生け垣に囲まれた雰囲気のある古い家屋敷が軒をつらねていた。 庭先に停まった。 車はその中の一軒の門をくぐり、
トーキョー・プリズン 383 なぜか ? いまとなれば、理由はいくらでも思いつく。日本人看守のほとんどが英 語を話せなかった。異なった文化への相互の無理解。日本軍の実現不可能な現地調達 主義。住民たちが捕虜に向けるいわれなき憎悪 : ・ 戦況が悪化するにつれ、収容所を取り巻く環境はますます悪くなっていった。捕虜 たちに充分な食料が行き渡らない。病人が出ても与える薬がない。、 しくら厳しく注意 しても何人かの看守たちは捕虜を殴ることをやめず、また捕虜たちのあいだでも盜難 が多発する有り様だ。 俺は上位機関に対して、ことあるごとに苦情を訴えた。「このままでは捕虜たちが 暴動をおこすかもしれない」と脅しめいたことを口にしたことさえあった。 だが、そのたびに戻ってくる答えはいつも同じだった。日く、 「テキトーニ、ショチセョ」 東洋には四面楚歌という表現がある。 捕虜の待遇改善に走りまわる俺に、部下たちの眼は冷たかった。地元住民のなかに も「敵の捕虜など殺してしまえ」と声高に言う者もあり、俺の官舎にその旨を書面に 書いて、匿名で投げ込んでいく者さえあった。 彼らの反応はしかし、一面無理もないことだったのだ。日本の軍隊では常々「捕虜 になるような奴は国の恥であり、人間のクズだ」と教えていたのだから。 捕虜収容所を〃より良きもの〃にしようとした俺の考えには誰も耳を傾けず、それ
268 「このごろよく、戦争中に読んだある新聞記事のことを思い出すのですー少し間を置いて、 彼女は先をつづけた。「わたしがその記事をいっ眼にしたのか、はっきりとした日付は覚 えていません。まだ戦局がそれほど厳しくはなかったころ、戦地で捕虜になって日本に連 行されてくる英米の捕虜が珍しかったころの話ですわ。新聞記事は、収容所に連行される ! 』と一声叫んだことを伝えた 若い捕虜を見かけたあるご婦人が『まあ、おかわいそうに ものでした。 : : : 彼女にしてみれば、子供のように幼く見える外国の若者が、衆目の中、 後ろ手に縛られ町中を引き立てられて行く姿に哀れを催して思わず口をついて出た一言だ ったのでしよう。もしかすると彼女の眼には、戦地に送られた自分の息子の顔が二重写し に見えたのかもしれません。いずれにせよ、人間として当然の感情から発せられたその一 言は、周りの人たちの聞きとがめるところとなりました。周囲の者たちは彼女を〃ヒコク ののし ミン〃と罵り、厳しく弾劾したのですー 「ヒコクミン ? 「自分たちの敵ーーー反国家主義者を意味する罵り言葉ですわ」 「″かわいそうに〃と言っただけで ? 」 「自分たちの敵か味方か ? あの頃はみんな、極端な二分法でしかものを考えられなくな っていたのです : ・ 「だが、新聞記事は、人々のヒステリックな反応を諫めるものだったのだろう ? 「それが : : : 逆、なのですーキョウコはため息をついた。「新聞は、当の婦人の〃軽率な
256 破れ帽をかぶり、古びたスフの背広を着た店主は、うんざりした顔でぼやいた。 私はキョウコに言って、もう一つ彼に訊いてもらった。 「浮浪児の連中がどこにいるかですって ? 」店主はきよとんとして言った。「よしなさい。 あいつらと話をしようたって無駄ですよ。得る物はなにもありやしません。寄ってたかっ てむしられるだけですぜ」 それでも私がなおとたずねると、男は肩をすくめた。 ねぐら 「あいつらがどこを定宿にしてるかは知りませんがね。知ってりや、行ってこれまで盗ん : でもまあ、試しに、駅の向こう側のチカドーに行って だものを取り返してきまさア。 ごらんなさい。あそこにいる連中なら知っているかもしれません。せ。昔つから″蛇の道は 蛇″って言いますからね」 彼はそう言うと、通訳をしているキョウコを横目で見て、へつへつへっと妙な笑い方を した。 それ以上は何を訊いても無駄であった。 私たちはいったんヤミイチを離れることにした。 「どうする ? 」私は時計に眼をやり、キョウコを振り返ってたずねた。「今日はもうこん な時間だ。じきに暗くなる。チカドーとやらには、明日、朝から改めて出直すという手も あるが : : : 」 「折角ここまで来たのです。今日、これからまいりましよう」キョウコが、私をひたと見