366 うとはしなかった。 裁判手続きは驚くべき速度で進められた。そして、初公判からわずか十日ののち、五回 目の公判で、早くもキジマに対する判決が言い渡されたのだった。 デス・バイ・ハンギング 被告を絞首刑に処す。 裁判官が判決を口にしたその瞬間、傍聴席でちょっとした騒ぎが起きた。最前列にいた 傍聴人の一人が、その場で倒れ、気を失ってしまったのだ。 のぞ 一番後ろの席で傍聴していた私が身を乗り出して覗き見ると、とっさに想像したのとは こんと、つ 彼女はすぐ 逆に、昏倒したのはイツオであり、それを支えているのがキョウコであった。 , イい、だがしつかりとした声で言っ に、周囲の者にどうか裁判をつづけてくれるよう、氏 髪をスカーフでおおったキョウコは、か細い腕にぐったりとした兄の身体を抱えたまま、 あごをあげ、自身、いまにも気絶しそうな真っ青な顔ではあったが、裁判の行方を最後ま でしつかりとその目で見届けるつもりのようすであった。 いざというときは女性の方が強い、か ) あまね 古来遍く知られた真理に、私はそっとため息をついた。 その三日後、いっかのティールームでキョウコと待ち合わせた。 「イツオの具合はどうです ? 」席についた私は、最初に冗談めかしてたずねた。
トーキョー・プリズン 363 ィッオが《ハ ーク伍長刺殺事件の真相〃を陳述している途中で、裁判長が彼の証言を遮 そこから、裁判長とイツオのあいだで次のようなやりとりが交わされた。 裁判長あなたがさきほど証言した〃捕虜たちが被告に贈った感謝状みを見たいので すが、いま手元にお持ちですか。 ィッオいし 、え、持っていません。 裁判長次回の公判で提示できますか ? ィッオそれは : 裁判長では、あなたが証言した《ハ 場に来ていますか ? ィッオ しいえ、今日は来ていません。 裁判長次回の公判で彼女に証言してもらえますか ? ィッオ 裁判長これで証人調べを終わります。 裁判長から退廷を命じられたイツオは、救いを求めるようにきよろきよろと左右を見回 し、傍聴席に私の姿を見つけて、いまにも泣きだしそうな情けない顔を向けた。 ーク伍長を実際に刺殺した女性みは、いまこの
「一一一一口葉のことなら心配しなくてもいい」 ジョンソン中佐はそう言うと、話はすでに済んだといった様子で、残りのファイルを引 き出しにしまいこんだ。 「キジマは日本人には珍しく、英語を流暢に話す。通訳を介さずともコミュニケーション は可能だ」 「私が言うのはそんなことではなく : : : 」 「いいかねきみ、このままでは裁判に差し支えるのだよ」彼はふいに語調を変え、厳しい ひじ 表情でびしりと言った。机の上のほこりを手で払うと、きれいになった天板に肘をつき、 両手を組み合わせて、冷ややかな調子でつづけた。 「われわれは現在、キジマの裁判手続きを停止させている。考えてもみたまえ、自分が何 をしたか覚えていようがいまいが、キジマがやった事実にはなんら変わりはないはずだ。 彼はその行為に対して責任を取らねばならない。だが、ナチス・ドイツを裁くニ、ルンべ ルク同様、日本の戦争犯罪人を裁くトーキヨー裁判は、現在世界中の注目を集めている。 プロセス われわれは正当な手続きにおいて、戦争犯罪人を裁かなければならないのだ。無論、裁判 になれば、キジマにも日米合同の弁護士団がつくことになるだろう。もしこのままキジマ の裁判がはじまればどうなる ? 彼が戦争中の記憶を失ったまま裁判に臨めば、あのヘポ 弁護士どもが何を言い出すか知れたものではない。連中は、現在の記憶喪失を理由にキジ マの免責を申し立てる可能性すらあるのだ。 りゆ、っちょう
にも蝶が多すぎるせいで空気が薄くなり、息ができなくなる。俺は蝶を追い払おうと、懸 命に手を振りまわす。だが蝶の数はなおも増えつづけ、〃もうだめだ〃と思った瞬間 : ・ 目が覚める」 キジマはそう言うと、まるで眼に見えない蝶をつかまえるように手錠でつながれた両手 こぶし を中空に伸ばした。 , 。 彼ま自分の顔の前に持ってきた拳を開き、一瞬戸惑ったような表情を 浮かべた。 「それほど妙な夢でもないさー私はちょうど吸い終えたタ。ハコの火を靴底でもみ消して言 った。「私も最近、同じような夢にうなされたところだ。テーブルに美味そうな肉料理が 並んでいる。ところが、一口食べてしまってから気づくんだ。それが人間の肉だったと な」 今度はキジマが無一言のまま、じっと私を見つめている。 ズ 私は肩をすくめた。「ミス・フジムラが出廷した〃人肉食裁判〃の初公判が先日行われ 。フたばかりだ。冖毋日ここに通っていれま、、 をしやでも噂は耳に入ってくるさ」 スガモプリズン唯一の女性囚人ミス・フジムラが逮捕されたのは、やはり捕虜虐待容疑 →によってであった。戦争中、日本の大学病院で看護婦長を務めていた彼女は、大学の医師 たちが英米の捕虜を生きたまま解剖した手術の場に立ち会い、そのうえ全員で捕虜の生き 肝を食ったというのだ。 ″人食い事件みと呼ばれるこの裁判は、事件の猟奇性、さらには珍しい女性戦犯が裁かれ 213
361 一、被告は捕虜たちをしばしば理由もなく、不法かっ残酷に殴打し、また捕虜同士で の暴力を強制した。 一、被告は赤十字からの支給品を故意に隠匿し、またその分配を遅らせた。 一、被告は病気になった捕虜を殴打し、また火のついた棒を押しつけるなどの虐待を 指示した。 一、被告は捕虜に充分な食料を与えず、文句を言った一部の捕虜に対して腐敗した食 べ物や蛆を与えるなど、非人道的な行為に及んだ。 ′」ちょう 一、被告は、捕虜アメリカ兵バーク伍長が脱走を企てたさい、自らの軍刀をもってこ れを刺殺した。 いずれも捕虜収容所所長時代の行為、もしくは不作為の罪を問われたものだ。 以証拠として、捕虜たちの証言を記した書類が提出された。 かってキョウコが 新年早々に行われた第一回公判において、キジマの弁護士たちは しんびよう これらの証言の信憑性を問題にし、もしこれらの証言を証拠として採 指摘したように 用するなら当人たちがこの裁判に出廷し、あらためて直接証言を行うことを要求した。 だが、裁判所は、戦後の混乱を理由にこの申し出を却下した。該当する捕虜たちに迅速 に連絡を取るのは不可能であり、またせつかく故国に戻った彼らをもう一度日本に呼び戻 すことは、む情的にもできないというのだ。
374 「ほかに誰がいる ? 」肩をすくめた。「何時になるかはわからないが、ま、これもなんか の縁だ。せいぜい見送ってやるんだな」 たた グレイは小声でそう言うとにやりと笑い、私の肩をぼんと一つ叩いて離れて行った。 何時になるかわからない。 グレイはそう言ったが、キジマが独房から引き出されたのは、夜がやがて終わろうとし ている、悪魔が銭勘定をするというあの半端な時刻であった。 あるいはジョンソン中佐は、わざと他の囚人たちが寝静まった時間を選んだのかもしれ ちょうつがい ない。独房の扉が開くと、不気味なまでに静まり返ったプリズン内に蝶番のきしむ音がい やに大きく響きわたった。 数人の看守が見守るなか、独房からキジマが姿を現した。 私は少し離れた場所に立って眺めていた。 キジマは、結局最後まで私を思い出さなかった。〃記憶の欠落箇所の反転 % 軍医はそう 言ったが、彼の一部の記憶は失われたままだったのだ。裁判において、弁護士の一人がそ のことで異議を申し立てたが、裁判官は「当法廷で裁かれているのは被告の戦時中の行為 であり、被告にその期間の記憶がある以上、当法廷を維持することにはなんら問題はな い」と言って異議を却下した。 キジマが私を知らず、そのうえジョンソン中佐によって面会を禁じられては、彼とのつ ながりは何もないにひとしかった。
245 「それで、兄さん」とキョウコが左右を見回して、ロを挟んだ。「神父様は : : : ホフマン 神父は、いまどちらにいらっしやるのですフ 「神父 ? 」イツオはきよとんとした顔になった。次の瞬間、彼ははじかれたように椅子か ら立ち上がった。 「しまった、ト ーキヨー駅に置いてきたままだー ィッオがホフマン神父をあらためて迎えに行っている間、キョウコはじっとテーブルの 一角に眼を落としたまま、ほとんど口をきこうとはしなかった。 私もまた、何本かのタバコを煙に変える以外は、これといって為すべきことも見当たら ュな . かっ 4 」 0 盗難騒ぎは、考えれば考えるほど馬鹿げたものであった。そして、馬鹿げている分、 ン ズっそうショックが大きかった。 捕虜たちがキジマに贈った感謝状がキョウコの言うようなものであれば、あるいは彼を スガモプリズンから生きて救い出すこともできたかもしれない。少なくとも、裁判におい てキジマの弁護に何かしら役に立ったはずだ。だが、肝心の証拠物件が提示できないので は、裁判官を説得することは間違いなく不可能であった。 残る可能性は、ホフマン神父が裁判の場でキジマに有利な証一言をしてくれるかどうかだ
360 前の委任状は返してくれたまえ」 私はくいしばった奥歯で噴き出しそうになる感情を懸命にかみ殺し、言われたものをジ ョンソン中佐に差し出した。 きびす 踵を返して部屋を出て行こうとすると、背後から声をかけられた。 「 : : : きみはついている」 振り返ると、ジョンソン中佐は机の上にすでに別の書類を広げてペンを走らせていた。 をいいかげんな調査の責任を取らずにすんだのだ。 「オオ。ハが死んでくれたおかげで、きみよ せいぜい彼に感謝することだな。え、探偵さんよ」 ジョンソン中佐はそう言うと、顔をあげ、一瞬素の顔を見せて、私をいまいましげに睨 みつけた。彼は、すぐにまたもとの職業軍人らしい個性のない顔に戻って、書類に眼を落 とした。 数日後、中断していたキジマに対する裁判の手続きが再開された。 キジマが失っていた戦争中の記憶を取り戻した以上、ジョンソン中佐が裁判を躊躇する 理由は、もはやなにも残っていなかったのだ。 裁判所に提出されたキジマに対する訴状は、かって私が考えたものとほ・ほ同じ内容であ ちゅうちょ にら
「あんたは、子供の目がときとして大人の知り得ない真実を見抜くことがあるのはな。せだ と思う ? 」 キジマはゆっくりとした口調でつづけた。 「同じものを見ても子供にはものとものとの関係性が見えない。大人にとっては至極当た り前の関係性というやつが、子供には分からないんだ。だから、子供にはときとして大人 に見えないものが見えることがある。 俺も同じことだよ。五年間の記憶を失った俺にとっては、目に見えるものはなに一つ当 たり前ということがない。俺は、あんたたちが当たり前だと思うものとものの関係性を懸 命に考えなくちゃならないんだ。だから、ときとして、あんたたちが見えないものが見え ることがある : 。例えばあの写真がそうだ」 キジマはゲーリングの写真を貼った壁にむかって軽く顎をしやくってみせた。 あの写真の中でゲーリングが、被告の立場だとい 「あんたはなぜおかしいと思わない ? うのに、まるで映画スターかなにかのようにめかし込んでいることを。奴が身につけてい る軍服は、どう見ても、監獄で支給されたお仕着せなんかじゃなく、体に合わせてわざわ ざ作らせたもののようだ。胸ポケットから覗いている絹のハンカチは、まるで香水でも染 : そう、多分あんたたちは、あの写真がナチス・ドイツ み込ませていそうじゃないか。 を裁く〃世紀の裁判〃ということでなんの不思議も感じないんだろう。〃世紀の裁判の登 場人物はみす。ほらしくあってはならない〃、それが大人の常識だ。 あご
ひっきよう戦勝国が敗戦国を裁くみせしめ裁判としか思えないのでしてね。もちろん裁判 は必要ですよ。敵味方の両方で多くの人間が亡くなったのです、なにもなしというわけに 。いかないでしよう。やはり〃誰か〃が責任を取らざるを得ない。そこで、わたしは考え たのです。〃それならば、このさいできるだけ少数の人たちに重い罪を背負ってもらって、 範囲を絞り、間違ってもテンノウ陛下に責任が及ばないようにすべきじゃないか〃とね」 彼はちらりと私の顔を見た。 「当時は、日本の警察に戦犯の逮捕を命じていました。ところが一方で、漏れ聞く ところ、警察はどんな基準で誰を逮捕してよいのかさつばりわかっていないようでした。 が日本の警察に示した戦犯の基準というやつが、〃戦争中に人道に反する行為を行 った者、もしくは明らかに国際法に違反した者〃という、ごく漠然とした、曖昧なもので したからね。戦争中の行為などというものは、理屈をつければなんだって″人道に反す ン ズる〃あるいは〃国際法に違反〃と一一一一口えなくはない。 これは、考えようによれば大変危険な状況でした。もし日本の警察が判断を間違えば、 なかんずく 戦後の日本を担っていくべき大事な人たちにーーー就中テンノウ陛下にまでーーー責任がおよ ぶ可能性がでてくるのです。わたしは何とかしなければならないと思いました。そこでわ たしは独自に基準をもうけ、連合軍の人たちが納得するような逮捕者リストの作成にとり かかったのです。そのためにはずいぶんお金もかかりましたが、もちろんそんなことはな んでもありません。わたしはいまも、自分がよい仕事をしたと思っています」彼は誇らし あいまい