よれば、若い男だったような気がする、ということだ。この言い方から想像がつくと思 うが、店員の記憶は甚だ曖床で、客の顔はもちろんのこと服装もろくに覚えていない 若い男、というイメージには縛られないでくれ。またワインが買われたデパートだが、 こちらのほうは客のことを覚えていた店員はいない。そもそも、いっ購入されたのかも 不明だ。昨日でないことは伝票から判明している。次に鑑識から追加報告。ワインの瓶 から指紋は全く見つからなかった。布で拭いた形跡もないようなので、おそらく犯人は 手袋を使用したと思われる。包装紙と箱からは何点か見つかっているが、購入時と宅配 便に出す時だけ無警戒だったとは思えないので、それらの中に犯人のものが混じってい ることはあまり期待できない、とのことだ」 新田はこっそりとため息をつく。要するに、現時点ではあのワインからは何の手がか りも得られていないというわけだ。 テ 捜査員の一人が、ワインの送り主として名前を使われた北川敦美から聞いてきた話を ホ 報告した。それによれば、明日の式について話したのは、一緒に出席することになって 一いる大学時代の友人ぐらいだという。祝儀をいくらにするか、ということで電話で話し ス 合ったらしい。名前を使用されたことについては全く心当たりがないようだ。 マ 「その女性の名前が使われたのは、おそらくたまたまでしようね」稲垣が隣の尾崎に話 Ⅷしかけた。「高山さんは、しばしば郵便物を何者かに盗み読みされています。結婚式の
307 マスカレド・ホテル 品川の近くだと思われます , 「なるほど。で、その上で井上浩代は本多さんが手嶋に電話をかけるよう話を誘導する : と」能勢が引き継いでいった。「本多さんは何の疑いもなく、登録されている手嶋 の番号にかける。偽の場所にいる手嶋は、その電話を受ける」 「次に手順その二です。本多さんが手嶋との電話を終えた後、井上浩代は再び隙を見て、 先程変更しておいた手嶋の番号を元に戻す。さらに、その状態で発信します , ほう、というように能勢が口をすばめた。「それは何のためですか」 「その時間に、本多千鶴さんのケータイから手嶋の部屋に間違いなく電話がかけられた、 という通話記録を残すためです。おそらく手嶋の部屋の電話は、留守番電話になってい たのでしよう。そして最後に手順その三。本多さんが手嶋と話した際の発信履歴を携帯 電話から消しておく。これで完了です」 「うーん、なるほどねえ」能勢は腕組みし、唸った。「そういう手がありましたか」 「ケータイに一度登録してしまった番号というのは、余程のことがないかぎり確認しま 一せんからね。勝手に書き換えられていても気づかない。本多さん自身、自分が別の場所 にいる相手と話したとは、夢にも思わないでしよう」 栗原健治によって気づかされたことだった。ホテルの交換手が意図的に別のところに 繋いでも、かけた人間にはそれがわからない。そのトリックを第一の事件で使えないか
「嘘をついたのかも。その元恋人が . 「どうして ? 「刑事さんにはいいにくいことだったから。たとえば、その容疑者のことが今でも好き で、近況を知りたくて電話をしたってことなら、正直には話しにくいですよね ああ、と新田は頷いた。 「なるほどね。でもそういうことなら、友達と一緒にいる時にはますますかけにくいん じゃないですか すると山岸尚美は、企みを秘めたような笑みをふっと浮かべた。彼女がこんな表情を 見せるのは珍しいことなので、新田は少し意外な気がした。 「そうではなくて逆だと思うんです」 「とい、つと ? ・ 「その友達がそそのかしたんじゃないでしようか。電話をかけてみたらって。部屋に友 人がいたと聞いて、私はますそんなふうに想像したんですけどー 新田は思わず唸っていた。その可能性については、これまでに考えたこともなかった。 「ごめんなさい。素人の考えです。無視してくださって結構ですー 「いや、案外当たっているのかもしれない。やつばり女性のことは女性じゃないとわか らないってことかなあ」新田は腕組みした。心の底から感服していた。
「同感だね。今回の事件では、我々もいろいろなことを学ばせてもらった。今後のサー ビスに生かせればと、今も田倉君と話していたところだ。しかし君が詫びたいというの は、そのことではないのだねー 「はい。私が詫びなきゃいけないのは、総支配人たちを裏切っていたことについてで 藤木は椅子の背もたれに身体を預け、尚美を見上げた。 「それは聞き捨てならないね。どういうことかな」 尚美は唇を舐めた。 「すでに報道されていますけど、今回の事件の構造は特異なものでした。一人の犯人に よる連続殺人事件ではなく、複数の犯人が連携して、そう見せかけていたんです。警察 はそのことをわかっていながら、ホテル側にも隠していました」 「そのようだね。で、それが何か ? テ ホ 「じつは : : : その事件の構造について、私は知っていました」 一「知っていた ? 君が ? 「誰からかは申し上げられませんが、教えてもらっていたんです。話を聞いて真っ先に ス マ 私が考えたのは、当ホテルでの犯行を企んでいる人間がそれまでの事件の犯人と別人な ら、わざわざその人物に犯罪を行わせる必要はない、ということでした。警察が事件の
4 ドアの前で深呼吸を一つしてからノックをした。どうぞ、と藤木の落ち着いた声が聞 こえてくる。尚美はドアを開けた。 こくたん いつものように黒檀の机を前にして藤木が座っていた。その脇に田倉が立っている。 尚美は一礼してから彼等に近づいた。 藤木は苦笑して田倉と顔を見合わせた後、少しおどけたような表情を尚美に向けてき ホ 「これはまた、すいぶんと怖い顔をしているな。一体何事だ ? 君のほうから折り入っ 一て話したいことがあるということなので待っていたんだが、何か抗議でもする気かね」 尚美は唾を呑み込み、呼吸を整えてからロを開いた。 ス マ 「そうじゃありません。そうではなくて、逆にお詫びをしなければいけないと思って、 繝こうしてお時間をいただいたんですー 事件は完全なループとなって完結したわけだ。 新田は久々に出席した正式な捜査会議で、管理官の尾崎が高らかに勝利宣言をするの を聞いた。
インの正体がばれたのかもしれないと考えるか。後者だとすれば、警察が動きだしてい ることを見越して、しばらくおとなしくしてくれるかもしれない 「でも昨日は、これが * 4 の犯行なら、そう簡単に犯行を断念しないだろうと : 「の犯行ならね。でもワインに関してはとは関係がないように思うんです 「どうしてですか。じゃあ、とは関係のない全然別の殺人が、たまたま行われよう としたというんですか。そんな偶然ってあるでしようか」 「可能性は低いと思います。でもがワインによる毒殺を狙ったとすれば、納得でき ないことがあるんです」 これは能勢刑事の推理ですが、と前置きして新田が話す内容に、尚美は目を開かされ る思いがした。ワインを飲んで高山佳子たちが死んだとして、それが夜なのか朝なのか は犯人にはわからない。だから例の暗号めいた数字を残すにも残せない。仮に一日の違 いがあれば、経度は大きく変わるーーー聞いてみれば、まさにその通りだと思った。 「すごい推理ですねー 「同感です , 新田は即答した。「初めの頃は、冴えないおっさんだと思ったんだけどな 「それで、どうされるんですか。ワインがの仕業じゃないとしたら 尚美の質問に、新田は意外そうに目を見開いた。 あ」
る。こ、つい、つ時にこそ役に立たねば、とも田 5 った。 「久我君には、すでに話してある」田倉がいった。「君一人に押しつける気はない。み んなでバックアップしていくつもりだから心配しなくていい」 「ありがとうございます」 上司二人からここまでいわれれば、もう文句はいえない。逆に、なるべく頼らないよ 、つにしよ、つと、いに決めた。 「十日、とおっしゃいましたよね。ベルキャプテンの杉下がいった。「十日以内に何ら かの事件が起きるおそれがあるって , 「警察の話によれば、そういうことだ」片岡が答えた。 「じゃあ、十日間の辛抱ってことですねー 「それはわからない、藤木がいう。「犯人が逮捕されるか、うちのホテルが安全だと確 認されるまでは、捜査員が置かれることになると思う」 つぶや そうか、とベルキャプテンは呟いた。 再びノックの音がして、ドアが開けられた。先程の男性社員が顔を覗かせた。 「お連れしました」 「入ってもらってくれ , 片岡が答えた。 男性社員に促されてまず入ってきたのは、五十歳前後と思われる、顔の大きな男性だ のぞ
101 マスカレド・ホテル 妻というのは都合がいいかもしれません」能勢は話した後、自分で納得したように頷い 「それ、全部能勢さんが調べたんですか」 能勢は髪が薄くなりかけた頭を撫でた。 「歩いて聞き回るしか能がありませんのでねえ。まあ、居酒屋を見つけられたのは、多 少土地鑑があったからですが。それが何か ? 」 「いや、何でもありません」 このホテルでの潜入捜査が始まって以来、所轄の刑事が何をしているかなど、新田は 考えたこともなかった。 「さてと、では行きますか」能勢は上着を手にした。 「どちらへ ? 」新田は訊いた。 「署に戻るんです。引き続き、聞き込みをしなきゃいけませんからね。その人妻の正体 を、何とかして突き止めないと」 一新田は首を振った。「そんなことしたって無駄ですよ」 能勢は意外そうに口をすばめた。「無駄 ? どうしてですか . 「第一の事件では、犯人は被害者を鈍器で殴った後、首を紐で絞めている。しかしその 鈍器も紐も現場にはなかった。つまりどちらも犯人が用意したものということになりま
あった。たしかに新田と能勢は、第一の被害者である岡部哲晴の人間関係を調べるよう 命じられていたのだ。だが本格的な聞き込みを始める前に、新田は今回の潜入捜査を命 じられたのだ。 「岡部さんのマンションの近くに、行きつけにしていた居酒屋がありました。そこの店 員がーーー」 「いや、ちょっと待ってくださいー能勢が手帳を見ながら話し始めたので、新田はあわ てて制止した。「俺に報告してもらっても困ります」 能勢は細い目で瞬きした。「どうしてですか」 「どうしてって : : : だって、あなたにはほかに相手がいるでしよう」 「ほかに、とは誰ですか」 「新しく組んだ相手です。俺の後任がいるはずです」 だが能勢は当惑した顔で小さく首を振った。 テ ホ 「いえ、私の相手は現在も新田さんのままです。別の人間と組むようには指示されてお 一りません」 新田は丸い顔を見返した。 ス マ「それにしたって、俺とのコンビはもう解消だってことは、考えなくてもわかるでしょ 的、つ」
「試練だと思って、何とか乗り切ってみます」 「試練か。たしかにそうだな。君だけの試練ではなく、うちのホテル全体が試されてい よみがえ るのかもしれない . 藤木は頷いた。その目には真剣な光が蘇っていた。「それで、どう かな。今日一日やってみた印象を率直に話してもらいたいんだがね 「新田さんのことですか」 「もちろんそうだ。正直に答えてほしい 尚美は一旦視線を落とした後、改めて藤木の顔を見つめた。 「あの方をホテルマンに仕立て上げるのは非常に難しいと思います。お客様へのサービ スを実際にお任せするのは危険ですー 藤木は田倉と顔を見合わせた後、尚美のほうを向いた。 「それは新田刑事だからだろうか。それとも刑事という人種には無理ということだろう 尚美は首を傾げた。 「わかりません。もしかしたら刑事さんの中にも適任者はいるかもしれません。ただ、 新田さんと一緒にいて思ったのは、この人たちと私たちとは価値観も人間観も全く違う とい、つことです・ . 「それはどういう点で ? 」 か