人により円を売ってドルを買うと、結局、手持ちしたドルは米国国債の購入に向かってしまう。 九四年末から九六年八月までの一年八カ月の間に、米国民は、国債保有を一 CXCD 億ドル以 上も純減させ、一方、株式投信向けに一一 C)OC) 億ドル以上を純増させているが、これは外国の 中央銀行などがアメリカ人の国債売却を肩代わりし、保有比率を上昇させてきた結果である。 八五、八六年以降、ドル安に対抗するためのドル買い介入を原因とする外国人の米国国債保 有比率は、上昇の一途をたどってきた。九六年八月末には発行残高 ( 米政府機関による保有分を 除く ) の三割、一兆ドルにも達している。このように、外国人による、アメリカの対外債務に も匹敵するほどの米国債保有が、結局はアメリカ全体としての株式シフトをもたらし、株価の 上昇を継続させる構造的要因となったのである。 日本は高コストか 逆このように、ドルの下落を媒介として、債務国・アメリカでは経済の好循環が続いた。一方、 米債権国・日本が九〇年代に入って経験した不況は、戦後未曾有のものであった。 日 この不況の原因は、じつは複雑である。金融機関の不良債権問題のみが声高に叫ばれたのは、 四その解決が急がれたという意味では正論であろうが、そればかりが強調されては不況の全体像 を捉え損ねることにもなりかねない。不良債権問題それ自体が、プラサ合意後の対米協調金利
このように、アメリカ企業の努力の成果と見られがちな、九〇年代に人っての製造業部門の 復権の背後では、ドル安が実際には大きな役割を演じている。国内外の経済活動をすべてドル ・べースで考えればよいアメリカに、ドル下落は「見えない補助金」をもたらし、これが経済 をすみずみまで潤すのである。 また、アメリカは八五年以降の経常赤字の累計からすると、対外純債務が九五年末には実質 一兆ドルを超えていると見られるわけだが、経常赤字は不安を伴いつつも、結局はファイナン スされる。こうして対外債務が増加してもそれがドル建てであるかぎり、アメリカはドル安に より、結果としてその対外価値を減してゆく。 巨額にのばる為替による「補助金」を手にした製造業Ⅱモノづくり部門の好調は、マネー部 。門へと波及し、両者の好循環が生まれた。証券市場の上昇は九四年以降ピッチを増し、ダウ平 均は九七年に入ると八一一〇〇ドルにも到達した。こうした株価の高騰は、資産効果による消費 逆の底上げ、企業の低コスト資金調達による設備投資の刺激などでモノづくり部門を支援したの 米である。 日 こうした株価の上昇に対して、いかにドル安の効果が大きかったか。それは、どのような企 四業グループの株価の上昇がとくに大きかったか、を見れば端的に理解されよう。 五〇〇と称する指数採用銘柄を対象とするインデックス型投資信託があって、これはい
この着眼には、たいへん深い意味が含ま 引き続き中心的資本輸出国といえるのかもしれない。 れているので、後であらためてふれることにしたい。 いっそう重要な点がある。ビクトリア時代の基軸通貨はポンドであり、イギリス もう一つ、 は海外債券への投資をポンド建てで行い、したがって、その果実もまたポンドという自国通貨 で得ている。アメリカの中心的資本輸出国時代においても、やはり基軸通貨・ドルが資本循環 の主役である。ただ八〇年代に始まる日本の中心的債権国時代のみ、資本輸出が円建てではな 、主としてドル建てで行われている。歴史的に見て、これは異常な現象といえないだろうか。 ポイントは、レーガン政権以降のアメリカのマネー戦略にある。それに日本がどのように対 応し、巻き込まれ、その結果、無惨な結末を迎えるにいたったのか。次章以降は、八〇年代の 日本とアメリカの経済関係に焦点を合わせ、両国間のマネーの流れと政策決定のプロセスをつ かむことにしょ一つ
ドルをいかに散布するか もちろん、現実には基軸通貨の交代が瞬時に実現するはずもなく、ドルは、さまざまな問題 に直面する。 ます第一に、とくにヨーロッパで、ドルは、従来の基軸通貨であるポンドを押しのけて広が 亡らねばならなかった。アメリカは大戦中から、武器貸与法に基づく対欧軍事援助に際して、つ のとめてドルを使用する等の手を打ってきたが、戦後は東西対立を背景にヨーロッパの復興援助 大のためのマーシャル・プランを実施した。 この一三〇億ドルに上る対欧復興援助は、アメリカの寛容さを示す伝説となっているが、そ マ れがドル建てで行われ、ドルがポンドを押しのけてヨーロッパに浸透するために活用された経 一緯は伝説の陰に隠れてしまった感がある。 その装置となったのは、 (European payment Union) である。 分身として生み出そうと試み、両案せめぎ合うなかでようやくアメリカは勝利を得たのである ( ただし、後述するように、基軸通貨としてのドルは、中央銀行間ではなお、金とのリンクを 維持するものとされ、これによって将来のドルの暴走に歯止めがかけられるとして了解され た ) 。
七年一一月、 7 のループル合意においてであった。 ここまでの段階で、それでは日米経済にドル高の是正は何をもたらしたのか。モノ経済つま り貿易問題とマネー関係の、二つの面から検討する必要がある。 輸入は居すわる 問われるべき第一の問題は、当然、日米間の貿易の不均衡は著しい改善を見たか否か、であ る。 アメリカの立場から見れば否であろう。ドルは、対円で約四割もの大幅切下げとなったが、 その過程で、アメリカの貿易収支は、ドル・べースでは期待された反応を示さなかった。 この理由については、すでにさまざまな見解が紹介されているたろうが、筆者なりにまとめ てみる。 プラザ合意によってドル下落の方向は明確になったものの、アメリカの貿易収支の赤字は増 大を続け、八六年には一五五〇億ドル、そして八七年には一七〇〇億ドルと金額的には最大を 記録してしまった。 これは根強い輸人の増勢のためであった。輸出が増えなかったというのではない。根強い輸 人の陰に隠れて目立たなかったが、八七年後半以降は、輸出も数量ベースで増勢をたどってお
強となった。そして八六年度まで、このような水準で上下する。これをアメリカ国債購人を中 心とするジャパン・マネーが一挙に埋めていたのである。 ドイツに代わって支え役に それでは、対米投資の誘因となったアメリカの高金利はそもそも何が原因であったのか。 ・インフレを抑え込もうとし それは先にもふれたように、第二次石油ショック後のハイハ たの強い姿勢によるものと、一応は考えられる。 だが、この点については次のような仮説も成立っ余地があるのではないだろうか。つまり、 これほどまでの高金利は、日本資金の誘引をも、大きな目的として作り出されたのではないか ということである。八〇年前後、レーガン政権出現による財政赤字の拡大を予想していた専門 家は多かったが、その赤字を補填し、ドルを支える役割を積極的に日本に期待したとみるのは、 あながち根拠のない見方ではない。少なくとも、アメリカがこの前後に非居住者 ( 外国人投資 ん家 ) の米国証券保有に対して税制上の優遇措置を行ったりしているのは、自身、外国マネーへ 日 の依存体制を整えていたと見ることができるであろう。 一一そしてさらに、その背後の事情をより現実的に観察してみると、結局は日・米・独、三極間 の政治力学の間題にたどりつくのである。
輸出入の各約四割しかドルの変動には反応していないのである。すなわち、貿易収支が為替レ ートで補正できる範囲は「教科書」が想定しているほど全面的なものではないことが、こうし た分析からも確認される。 と同時に、産業ごとに不可逆性の視点を導入することによって、ある特定の時期 ( この場合 は八〇年代半ば ) のアメリカ産業における為替調整の機能する分野が、ある程度まで具体的に 特定される。とすれば、アメリカ側にとっての処方箋も、古典的な貿易理論やクルーグマンの モデルから導き出される「全面的円高戦略」にはならないはずである。 隠された日本産業の疲弊 ただし、ここで急いで強調しておかなければならないことがある。 以上の考察は、いずれも輸出人統計をドル・べースでとらえたものである。したがって、プ ラザ合意がアメリカの期待した貿易収支の改善をもたらさなかったからといって、それは日本 側輸出企業のダメ 1 ジが僅少であったことを意味するものではない。 対米貿易が基本的にドル建てで行われるなかで、四割もドルの価値が下がれば、日本側輸出 企業は、まずはドルの建値の引き上げによって円の手取りを確保するしかない。建値を引き上 げて、なおどれほどの手取りの目減りに耐えられるか。リストラその他、日本企業の対応が当
要約される。 日本政府が、早い時期に円建て投資環境の整備を押し進めていればどうであったか。円建て 。、いたすらに自国通貨ドル・べ 1 スでの債務を膨らませる円高政策を、 の対米資産が多けれは アメリカといえども、むやみに押し進めることはできなかったのである。 だが、日本の政策当局者は、すでに、七〇年代から八〇年代前半にかけての、かけがえのな い好機を逸してしまった。九五年以降、アメリカ経済の「一人勝ち」が喧伝されるなかで、日 本経済には、マネー敗戦の荒涼とした戦後の光景が定着することになる。 巧 2
けられた先の規制であろう。 ところが、日本の銀行は、その規制をも楽々とクリアして行くかに見えた。 規制の定める自己資本比率の基準を、分母の資産を圧縮せずに達成するには、分子と しての自己資本を増加させる必要がある。株高による含み益の増加は、その四五 % がこれに寄 与することになったわけだが、ここで邦銀は、含み益の増加のみに頼らすに、銀行自身の高株 価を背景にエクイティ・ファイナンス ( 株の時価発行増資 ) で、基準クリアへの最短距離を走 ろうとした。規制の強行突破である。株式の時価発行で得られる資金がそのまま自己資 本として積み上がるわけで、何より即効的であるうえ、九三年が目標年次であれば、これを急 がざるをえない事情もあった。 高株価の秘密 逆ジャパン・マネーの巨大化に危機感をつのらせたアメリカの警戒感は、例えばダニエル・バ 米ースタインの『 , 日本の新金融帝国とアメリカへの脅威』 ( 原著書 ) などに如実に 日 描かれている。邦銀は、その進出を食いとめる装置としての「規制、をも、株高、土地 章 四高を利用して楽々とクリアしようとしている。日本の直接投資によって、いっかはアメリカ全 体が「買い込まれてしまう」のではないか。なぜ日本は、きわめて低いコストで大量の資金を
ホワイトいケインズ フランス文化相であったアンドレ・マルローは、かって「アメリカは、自ら求めないで世界 覇権を得たおそらく唯一の国である」と語ったことがある。しかし、マルローのこの認識は国 しささか文学的にすぎた。パクス・アメリカーナの成立は、 際政治の現場を見る眼としては、 ) 自然の成り行きというだけでなく、マネーこそが覇権の基盤であることを認識していたアメリ 力の、周到な戦略、演出によるものであった。 第二次大戦後のアメリカは、企業の多国籍展開による直接投資を武器に、すでに世界最大の 債権国の地位についていた。また、国土を直接にはほとんど戦火に曝さなかった唯一の戦勝国 として、その工業力、経済力も群を抜いていたが、そうした有利な条件にもかかわらす、戦後 のマネー秩序を決定するプレトンウッズ会議で、ドルの支配が自動的に確立するというわけに 。いかなかったようである 基軸通貨としてポンドの命脈は尽きていたけれども、この会議で、イギリスはケインズ案と して、新たに国際決算同盟とその通貨単位である「バンコ 1 ル」の創設を打ち出し、ドルの浮 上を抑えようとっとめた。これに対して、ウォール街の利益を反映させ、ホワイト案を押した てたのがアメリカだった。基軸通貨Ⅱドルを前提に、— ( 国際通貨基金 ) を、いわばその