6 た。イスラム教徒は、経済的にポルトガル人のようにリスクを冒す必要を感じていなかった。 大きな船がなくても、小さな船だけで効率的に広い地域を支配できていたし、良い陸路も確 保していたからである。 一方のポルトガル人は問題を抱えていた。その問題の一部は、イスラム教徒のとった戦略 から生じていたものだ。キリスト教とイスラム教は、イスラム教というものが生まれた当初 から互いに競い合っていた。キリスト教は地中海の北岸、イスラム教は南岸に広まっていた が、七一一年、イスラム教徒の軍勢は北へと向かい、スペインを征服、その後、最終的には ピレネー山脈を越えてフランスにまで進出した。しかし、七三二年、カール・マルテルがト ゥール・ボワティエ間の戦いに勝利したことで、イスラム教徒はピレネー山脈の西に押し戻 され、イベリア半島に閉じ込められることになった。この時、もしマルテルが敗れていたら、 ヨーロッパは今とはまったく違った場所になっていただろう。 興味深いのは、たとえ戦争をしていても、キリスト教徒とイスラム教徒が実はかなりの程 度、共存していたということである。「ローランの歌」は、一二世紀半ばのフランスの詩で、 現存する最古のフランス文学作品だ。この詩の中では、スペインにおけるキリスト教徒とイ スラム教徒との戦いのことが語られる。舞台となるのはサラゴサという街である。カール・ マルテルの孫、カール大帝 ( シャルルマーニュ ) は、イスラム教徒のサラセン帝国のマルシ ル王と戦う。マルシル王は、「もしカール大帝が戦いをやめてスペインを去れば、自分はキ リスト教に改宗するだろう」と申し出る。戦いに嫌気が差していたカール大帝はこの申し出
75 第 2 章世界を席巻するヨーロッパ ■イスラム教徒の人口分布 : 交易、政治の面でも深く関わってきたし、戦 争をしたことも同盟を組んだこともある。両者の 間では緊張が高まったこともあったが、ここで重 要なのは、緊張はありつつも両者は互いに協力し 合い、切磋琢磨していたということだ。 イスラム教徒は、人類の歴史でも特に広範囲に またがる文明を築き上げた人たちだ。それは一つ の統合された帝国ではなかったが、イスラム教徒 には、世界全体を支配する可能性もあった。イス ラム教国の多くには、商船隊や軍艦もあったが、 ・ 00 遠い地域まで出て行く海軍を発達させる必要はな かった。沿岸からそう遠く離れずに、イスラム教 の支配地域の端から端まで帆船で航行することが 域 可能だったからだ。遠くまで航行する船を作るに は費用がかかるが、それだけの費用をかける価値 教を彼らは認めなかったのである。彼らは多数の地 その大半はイスラム教国であ ラ域に港を造ったが、 ス イ り、あくまで交易や食糧補給を目的とする港だっ
明が同様の革命を起こす可能性もあったはずだ。エンリケが航海学校を設立したのと同時期、 中国人はすでに世界の海に乗り出せる能力を備えた海軍を持っていた。その気になりさえす れば、遭遇する人間すべてを自らに服従させることもできたはずである。古代ローマ人や古 代スカンジナビア人にも可能だったかもしれない。当時のヨーロッパ人、ポルトガル人の持 っていた技術は彼らだけのものではなかった。にもかかわらず、世界を変えたのは他の誰で もなく、ポルトガル人やその他のヨーロッパ人だった。なぜ、最初はポルトガルだったのか、 その後、大西洋側の他のヨーロッパ諸国、スペイン、フランス、オランダ、イギリスなどが 後を引き継いで動きをさらに大きなものにしたのはなぜか。それを考えなくてはいけないだ ろ、つ ヨーロッパとイスラム、探検の始まり ここでの物語で重要な役割を果たすのはイスラム教徒たちだ。ヨーロッパ人はキリスト教 徒であり、ヨーロッパはキリストが崇拝されている土地である。だが、キリスト教がヨーロ ッパを支配する傍らで、別の宗教も成長を遂げていた。イスラム教だ。イスラム教は、キリ スト教よりもはるかに広い土地を支配した。モロッコからミンダナオ島まで、中央アジアか らザンジバルにいたるまでの広大な地域がイスラム教の支配下に入ったのである。二つの宗 教の信者には密接な結びつきがある。それは単に旧約聖書を共有しているというだけではな
270 集団はどれも極めて好戦的で、大国などの圧力がかかっている間はおとなしくしているが、 圧力が緩むと、途端に互いに争い始める。 ソ連崩壊後、マーストリヒト条約締結後に生じた戦争には他にも特徴があった。それは、 キリスト教徒とイスラム教徒が交じり合う境界の地域で発生したということだ。ポスニア、 アルバニア、コソボはイスラム教で、セルビア、クロアチアはキリスト教の地域になる。ア ゼルバイジャンはイスラム教だが、アルメニア、ジョージアはキリスト教だ。共産主義崩壊 後、最初に起きた戦争は、キリスト教徒とイスラム教徒の間の戦争だった。ヨーロッパ内に イスラム教徒がいるという問題はしばらく忘れられていたのだが、共産主義崩壊とともに復 活した。最初の戦争でそれが明らかになったということだ。宗教間の争いというよりも民族 間の争いという性質が強い戦争ではあったが、ともかくこれが新しい種類の戦争ではなく、 昔からの戦争の続きであることはわかる。しばらくはなくなっていた紛争の火種が復活した わけだ。 特に壮絶で、世界からも注目されたのは、バルカン紛争である。第一次世界大戦後、バル カン半島の西部は「ユーゴスラビア」と呼ばれるようになっていた。ューゴスラビアは、複 数の民族、宗教が併存する国家だが、ヨーロッパの他の地域と同様、民族どうしは長年、敵 対関係にあった。敵対関係にあった民族が、勝者により一つの連邦国家にまとめられたわけ だ。一つの理念の下に集まり、過去の争いを乗り越えようとした。だが、ユーゴスラビアは、 まさにマーストリヒト条約調印の年である一九九一年に崩壊することになった。ューゴスラ
408 は確かだが、それは同時に植民地管理からの解放を意味していた。おかげで第一一次世界大戦 後は本国の再建に集中することができた。 戦後の復興後は北アフリカとの間に新たな関係が始まった。それはやはり概ねイスラム教 徒との関係ということになる。ヨーロッパは、経済が発展するにつれ、より多くの労働力を 必要とするようになった。最も近い供給源は、イスラム世界だった。そのため何百万人とい う数のイスラム教徒が、職を求めてヨーロッパ へと来た。これでヨーロッパの本質が変わる ことはなかったが、 変化がもたらされたことは確かである。たとえばベルギーは、現在、イ スラム教徒が一〇パーセントを占めるまでになっている。イギリスではまだ五パーセント足 らずで、ドイツでも五パーセントほどにとどまっているが、都市部だけに限ると、この数字 は驚くほど跳ね上がる 。パリは一〇パーセントから一五パーセント、プリュッセルにいたっ てはもはや約三分の一がイスラム教徒である。 以前から地中海の北岸にもイスラム教徒は常にいた。トルコやポスニアはわかりやすい例 だし、プルガリアにも少数派ではあるが無視できない数のイスラム教徒がいた。ただ、近年 のイスラム教徒の流入は三つの点で過去とは違っている。一つ目は移民の数、もう一つは彼 らの定住場所だ。たとえば、マルセイユやバルセロナには古くからイスラム教徒の居留地が 存在する。だが今、彼ら ( そのすべてが地中海周辺地域から来るわけではない ) は、ロンド ンやプリュッセル、フランクフルトなど、従来はほとんどイスラム教徒の移民が来なかった 北ヨーロッパの都市へと来るのだ。三つ目の違いは、流入の速度である。流入が本格的に始
教徒はどちらも「非キリスト教徒」という点で同種なのである。そこが他の外国人たちとの 最も大きな違いだと認識されていたわけだ。それぞれ別の時代にやって来て、別の運命を耐 えてきたとい、つことは、彼らにとっては重要ではない。 現代のヨーロッパ人は、過去に比べると非宗教的になった。宗派を問わす、定期的に教会 ロ に行くという人はほとんどの国で少なくなっている。世論調査などの結果を見ても、ヨーロ ョ ッパ人が総じて宗教に敵意までは持たないものの、無関心になっているのは確かなようだ。 亜ユダヤ人もやはり第一一次世界大戦の前から世俗化が進んでいたのだが、どうやらそれは問題 にされなかった。イスラム教徒が、現代のキリスト教徒に比べて信仰に熱心なのは間違いな まい。イスラム教徒全員がそうということはおそらくない。だか、少なくとも世俗化の進むョ ーロッパ人の目に奇異に映るのに十分なくらいの熱心さは総じてあるのだろう。たとえば、 フランスでは、イスラム教徒の女性が公共の場でべールをかぶるのを禁止している。これは と治安上の理由からの措置とされているが、それだけではないと思われる。特にイスラム教を ム 攻撃する意図はないのだろう。というよりも、公共の場で信仰を明らかにするのをよしとし イないとい、つことのよ、つだ。 キスタンからイギリ 章イスラム教徒は地中海の南から北へと移住してくるだけではない。パ スへと来る人たちもいれば、インドネシアからオランダへと渡って来る人たちもいる。いす 第 れも同じように問題を生じさせている。ヨーロッパのかっての植民地の人たちには、独立後、 かっての宗主国へと移住する権利が与えられている。つまり、過去に帝国を持っていた国の
ヨーロッパロシアはその大部分が平坦な土地で、川を除けば行く手を阻む障害物はない。 一一一一口語、宗教、民族の面では、ロシアはヨーロツ。ハ大陸に比べてはるかに均質である。ヨーロ ッパ大陸に乗り越えがたい多様性があるとすれば、ロシアには壊しがたい均質性があるとい うことになる。ロシアには、約一〇〇の民族集団があるが、人口の八〇パーセント超はロシ ア人で占められている。次に大きい民族集団であるタタール人はわずか三・九パーセントだ。 つまり、民族集団の数は多くても、人口はどれもごく少なく影響力はほとんどない。チェチ エンのイスラム教徒は時に暴力的になるが、モスクワ政府を転覆させることはできない。宗 教は重要だが、どの民族に属するかはさらに重要だ。特に民族ごとに言語が違う場合にはそ 陸う一一一一口える。イスラム教徒は集団としては非常に大きい。しかし、イスラム教徒を全部で一つ の集団として扱うのは間違いだ。ロシアでは、同じイスラム教徒であっても場所により一一 = ロ語 により大きく違っている。また、信仰しているイスラム教にも種類があり、信仰の強さも 様々だ。 ロシアは実質的には内陸国家である。人口のほとんどは海から遠く離れた場所にいる。反 対にヨーロッパ大陸は海に囲まれている。その経済、文化においては、海上貿易が重要な位 章置を占めてきた。古代ギリシャの歴史家、トウキディデスは「内陸のスパルタは貧しいが、 海に面したアテナイは豊かだ」と指摘している。事実、アテナイは世界を相手に貿易をして ゝこが、スパルタは自分たちが育てる作物だけに頼って生きるしかなかった。トウキディデ スは同時に、海の近くで生きる人々が贅沢によって軟弱になっていること、逆に、内陸の
402 最盛期のローマ帝国 ( 紀元 117 年 ) 地中海 国現在も概ねはそうだ。南側の北アフリ ( マカでは古くからイスラム教が圧倒的だ。 ロ東側のレバント地方にはキリスト教徒、 年イスラム教徒、ユダヤ教徒が混在して 7 おり、その宗派も様々だ。これは、こ 元の地で戦争が繰り返され、人々があち こちへと移り住んだ名残りであり、今 もそれは続いている。 地中海は全体が一続きになった海で ある。東西の長さは約三二〇〇キロメ ートル、南北は最も狭いところでは一 六〇キロメートルに満たず、最も広い ところでも八〇〇キロメートルほどで ある。南北の海岸は、西ではジプラル タル海峡で最も接近し、東のレバント 地方では一つになる。地中海の周辺の どこかで何かが起きれば、同じ地域の 別の出来事に影響する可能性があるし、
は宗教ではなく、パシャ ( 高級軍人 ) への忠誠心である。この忠誠心を保証するのは、高い 俸給と、軍務期間中あるいは退役後に強い権力を得られる機会である。つまり、オスマンの 力は、キリスト教徒として生まれた兵士たちの上に築かれていたわけだ。ヨーロッパに侵入 し、プダベストにまでいたったのもこの兵士たちだ。オスマン帝国がキリスト教徒として生 まれた兵士に依存していたことは、もう一つの重要な事実と密接な関係にある。それは、オ スマンの君主であるスルタンが、初代のオスマン一世を除き、生まれながらのイスラム教徒 でない母親から生まれていたということだ。母親は皆、あとでイスラム教に改宗した人ばか りだった。どちらも、多様な帝国を一つに束ねるためにあえて採られていた手段である。 コ トルコ人はすでに何世紀も前からキリスト教徒ではなかった。ヨーロッパ人が彼らをヨー レ ロッパ人とみなすのに抵抗を持つのはそのせいだしかに世俗化したとはいえ、ヨーロッパ の はいまだに宗教と一一一一口えばキリスト教という土地である。世俗化をするということは、裏を返 縁 の せばそれ以前に強い影響力を持っ宗教があったわけだ。強い宗教がなければ、わざわざ世俗 ッ ロ イする必要もない。その宗教は、ヨーロッパ人にとっては概ねキリスト教だった。トルコで は、同じことがイスラム教に関して起きた。どちらもが世俗化したのだから、両者が接近し ョ 章ても不思議ではなかったが、それが逆に障壁を高くした。基礎を成す宗教は、たとえ勢力が 衰え、時代遅れとみなされるようになったとしても、やはり今も両者を規定する存在であり 第 続けている。 トルコは大きく二つに分けられる。イスタンプールとそれ以外だ。イスタンプール以外の
406 質は、基本的に境界地帯とよく似ているが、多くの点で違ってもいる。狭い範囲で共存して いると、元来大きく違っていた人々も似るようになる。だが、元の性質が失われるわけでは ない。地中海は周辺地域の交易の促進に役立ったが、戦争の原因にもなった。ヨーロッパ人 にとって、地中海は自分たちと似通っている部分もあるが、深いところでは異質な人たちと の間の境界である。 イスラム教徒は、二方向からヨーロッパへと侵入した。イベリア半島からと、南東ヨーロ ノバからだ。キリスト教徒の側も、シチリアを少しずつ奪い取ったのをはじめ、イスラム教 徒の領域に何度も侵入した。たとえば十字軍を派遣した時がそうだし、イベリア半島からイ スラム教徒を排除するために戦った時もそうだ。中央ヨーロッパにまで版図を拡大していた トルコ人を追い返したこともある。一九世紀にキリスト教徒は地中海の南側へと進出し、北 アフリカの大部分を支配下に置くことになった。キリスト教徒もイスラム教徒もお互いを完 全に支配したいと望んでおり、どちらもその目的を達成しかけた。だが、結局はどちらも失 敗に終わっている。はじめの出会いから、両者が相手を強く意識していたことは間違いなく、 それは今も同じだ。ローマとエジプトがそうだったように、交易をしながら戦争もするとい 、つ関係が長く続いた。 ヨーロッパはその世界支配の動きの中で、一八世紀の末からは北アフリカも支配するよう になった。その最初と思われるのは、ナポレオンの指揮によるフランス軍のエジプト進出だ。 世界的に有名だが謎も多い建造物、スフィンクスには今、鼻がない。それは、フランス軍の はんと