204 のものだった。もう一つは、イギリスからアメリカへの、 ハリファクス基地 ( カナダ、ノバ スコシア州 ) を除く西半球の全海軍基地の貸し出しである。これにより、事実上、イギリス はカリブ海の帝国をアメリカに渡すことになる。公式の支配権はまだイギリスにあったが、 カリブ海の島々がアメリカの支配下に入った。アメリカは確かにイギリスを支援してはいた が、同時にその支援を利用して、帝国の一部を削り取って自分のものにしたわけだ。 一九四五年以降、ヨーロッパの支配下にあった地域では次々に動乱が起きる。インドでは 長年続いていた独立運動がさらに激しさを増した。一時、日本の占領下にあったインドシナ では、フランスへの支配権の返還に抵抗する動きが起きた。オランダ領東インドでも、オラ ンダからの独立運動が起きている。特にアジアでは、東南アジア諸国の支配権を日本がヨー ロッパから一時奪い取っていたため、ヨーロッパへの返還に抵抗する動きが盛んになった。 ベトナム人やマレーシア人が、ヨ 1 ロッパの支配下に戻るのを嫌い、扎抗したのだ。インド 人や中国人も、ヨーロッパ人の排除を望んだ。混乱はアジアだけにとどまらなかった。アラ ブ世界でもサハラ以南のアフリカでも同様だ。 ヨーロッパは冷戦により凍結されたように動かなくなったが、「第三世界」と呼ばれるよ うになった地域は数々の紛争によって激しく動くようになった。いすれも先進工業国ではな く、ソ連の支配地域の国でもない。多くは、ヨーロッパの支配から解放されたばかりのかっ ての植民地だが、一世紀以上前にヨーロッパから独立していたラテンアメリカの国もあった。 一九五〇年代から一九八〇年代までの間、第三世界では絶えずアメリカとソ連の間の争いが
アメリカは西側の諸国を支えるしかない。幸い、アメリカの支配下に入った西側の諸国は、 東側に比べて、概ねアメリカとの相性が良かった。個々の国の意向が比較的アメリカに近か ったからだ。西側の国々はソ連による支配を望んでいなかったし、強制的に共産主義政府を 持たされることも望んでいなかった。だが、 ともかくソ連が以前よりはるかに西へと進出し てきたことは受け入れざるを得なかった。 もし、ソ連がヨーロッパ全土を制圧するようなことがあれば、もはやアメリカを含め世界 中のどの国も、再びヨーロッパに侵攻することはあり得なかった。それには莫大な資源を要 するし、そこまでのことをする理由がないからだ。アメリカは西ヨーロッパを政治的に支配 しようとしたわけではなく、経済的な復興の支援を主な目的としてそこにとどまった。もち ろん、それによって自らの戦略的な立場を強めるという目的はあった。西側では、東側に比 べて、支配者が被支配者に対してはるかに協力的だったということだ。こうして、ヨーロッ パにおいては、アメリカとソ連のカの境界線が新たな紛争の火種となった。核戦争を引き起 こす恐れがある火種である。 弊 冷戦は相互の脅威を基礎とした戦争だ。アメリカは、多数の国と同盟関係を結ぶことでそ 疲 の脅威に対応した。主にアメリカの力を背景にソ連の拡大を阻止するための同盟だ。一方、 5 ソ連は他国には頼らずほほ自分の力だけで脅威に対応しようとした。一九一四年、一九三九 年と同様、ドイツを標的とした巨大な陸軍部隊を組織したのである。アメリカにとって恐ろ しいのは、ソ連軍がドイツを越えて進み、英仏海峡にまで到達することだった。そうなれば、
レオンの海軍を破って以後は、真に地球規模で部隊を展開できる世界で唯一の海軍にまでな った。大英帝国の礎はこの海軍である。一九世紀末、大英帝国はヨーロッパ帝国主義体制の 最も大きな部分を占めていた。英国海軍の仕事は、帝国内の治安を維持すること、そして最 も重要なのは海上交通路の安全を保つことである。帝国内での交易、あるいは帝国と外の世 界の交易に滞りが生じないよ、つにしなくてはならない イギリス ( イングランド、スコットランド、アイルランドの連合体だったが、アイルラン ドが北部を残して独立してからは、ほほイングランドとスコットランドの連合体となった ) の安全は、海の支配を維持できるかどうかにかかっていた。海の支配権を失えば、大英帝国 は崩壊することになる。敵海軍に勝っ最良の方法は、そもそも敵に海軍を作らせないことだ。 海軍を作らせないためには、持っている資源をすべて地上での戦争に向けさせることだ。そ のためには、最大限の努力をして、ヨーロッパ大陸内の大国がお互いに不信感を抱くよう仕 向けるのが最良の方法である。だが、大陸内の大国は元来、お互いを信用していなかったの ス で、その不信が持続するようイギリスは最低限の努力をするだけでよかった。一方を支援し イたかと思うと、他方を支援するというように、絶妙のバランスを取って支援する相手を変え 章ていくのだ。他国が大陸内のことに気を取られている限り、イギリスの安全は保たれる。 この戦略にも問題はある。常に成功するとは限らない。時折、イギリスの封じ込め策をも 第 のともせずに急成長を遂げ、大陸全体をほば手中に収めるほどになる国があるからだ。そう なると、すぐイギリスにとって脅威になってしま、つ。たとえば、スペイン、フランス、ドイ
たのである。マヤ以外にも、すでにアステカの君主モクテスマに服従していたはずの部族も 含め、多数の部族がスペイン人に味方をし、その数が何千人という単位になったのだ。支配 、犬兄であり、モクテスマはスペイン人 下の部隊ですら本当に自分に忠実かどうかわからなし月 ~ との戦争を望まなかった。彼は外交交渉を試みた。スペイン人の存在に怯えていたわけでは なく、自らの権力基盤が脆弱であり、味方がいっ敵に変わるかわからないと知っていたから だ。アステカにとっての紛争の火種は元々、帝国の南にあったのだが、コルテスの到来によ って火がっき、結局、その紛争がアステカを滅ばすことになった。 コルテスが勝てたのは軍事的に優勢だったからでも、人心の掌握に長けていたからでもな かった。勝利をもたらしたのは彼の外交能力である。彼はモクテスマの政権の弱点を巧みに 突くことができた。支持基盤が弱いと見るや、それをうまく利用したのだ。ベル 1 のインカ を征服する途上だったピサロが置かれていた状況もまったく同じだった。インカ帝国も、複 数の部族が合同で政権を支えていたが、その部族の多くは、インカ帝国から恩恵を被ってい ヒサロは、帝国支配者の たわけではなく、むしろ自分たちを帝国の犠牲者だと考えていた。。 圧政を利用し、帝国に不満を持つ者を自らの味方につけた。 ヨーロッパ人がなぜ世界を征服できたのかを理解する上で、これは非常に重要な事実であ る。征服は確かに不正義ではあるが、現地に不正義はすでに存在していた。支配者のするこ とはヨーロッパでも、世界の他の地域でもさほど変わらない彳 。皮らは基本的に力で、つまり 恐怖で周囲の人間を抑えつけている。ヨーロッパ人は、新しい土地に行くと、まず抑えつけ
イギリスはまだ統合には加わっていなかった。彼らは自由貿易圏を必要としてはいたが、 一方でヨーロッパの貿易の主導権も握りたかった。大陸ヨーロッパ全体が一つの自由貿易圏 になると、イギリスの輸出が減るのではないかという危惧もあった。イギリスはに加盟 する代わりに、一九六〇年に欧州自由貿易連合 (c-av-æe-*<) を設立した。公式の発足は一九 六〇年だが、 実質上は五〇年代半ばには成立していた連合体で、当初の加盟国はイギリス、 オーストリア、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ポルトガル、スイスの七ヶ国であ 合 統る。両者の違いは明確だった。ますには、大国と呼べる国はイギリス一国しか加盟 の していなかった。第二には、ほとんどヨーロッパ周縁部の国ばかりで構成されてい た。通常、大陸ヨーロッパとされる地域からは外れている国が多かった。これで、イギリス かいかに大陸ヨーロッパに取り込まれるのを恐れていたかがわかる。歴史的経緯からすれば たこれは理解できる。また、加盟国の上に立って貿易圏を思いどおりに支配したいと考えてい 始たこともよくわかる。 カ結論から一一一一口えばは失敗に終わった。理由はいくつもあるがその一つはアメリカの 支持が得られなかったことである。アメリカは r-120 の方を支持した。アメリカはヨーロッパ ア の分裂を望んでいなかった。フランス、ドイツという二つの大国が含まれたの構造は、 6 イギリス一極のより好ましかったし、通商政策もの方がアメリカには支持でき るものだった。そして大切だったのは加盟国の地理的な位置である。には、アメリカの 戦略にとって重要な位置にある国が含まれていた。は、ヨーロッパですでに進んで
ても理解できるはず、と考えられた。現時点ではまだわかっていないことはあるが、基本的 には、あらゆることは理生によってわかるよ、つになると考えられたのである。理生が何もか もを切り刻むカミソリの刃だとすれば、最も優れた人間とは最も良い推論のできる人間とい うことになる。伝統的な社会は貴族制が基礎になっており、ヨーロッパの貴族制においては 出自が重要な意味を持つ。従来からの貴族制を支持する人は、人間の持っ美徳は生まれで決 まると考えていた。だから、貴族の子が必ず貴族になり、その貴族が社会を支配するのが正 しいというわけである。だが、啓蒙主義者はそう考えない。啓蒙主義者は、誰が親になるか は単なる偶然であり、そんな偶然で人間の運命が決まってしまうのは大変な不正義であると 考える。啓蒙主義者にとって、正しい貴族社会とは、能力の高い者が貴族になる社会だ。そ の能力とは主として理性のカ、推論の能力を指す。理性の力も出自によって影響を受けてい 裂る可能性はあるが、これなら少なくとも生まれる前に人生が決まってしまう人はいなくなる。 9 啓蒙主義は、理性を重んじたことで、ヨーロッパの体制に革命を起こしてしまったというこ ッ A 」お」。 ヨーロッパでは、個人をその人の持っ理性で評価する考え方が生まれた。もし、評価の基 準が理性だけなのだとしたら、最も優れた理性の持ち主が社会を支配するのが正しいという 3 ことになる。理性による統治の第一段階は、啓蒙専制君主の統治である。高貴な生まれでな おかっ素晴らしい知性を持った君主が国を治めるわけだ。第二段階は共和制だ。何らかの資 格を持っ有権者の選挙によって最良であるとされ、選ばれた人たちが国を統治する。彼らは
190 ソ連は時折、極めて残忍な支配者になった。一九四五年の悲惨な状況で、ソ連は支配地域 の工場を取り壊し、そこで作られた工業製品を本国に送り始めた。ソ連兵たちは工場から時 計を盗み、故郷へと送った。彼らは時計に魅せられたのである。時間の概念もよくわかって いなかったが、 多くが元来、小作農だった彼らにとって、時計は富と文明の象徴だったのだ。 ソ連兵たちは、自分たちが支配した地域の富に魅せられた。本国では水道設備のある住宅す ら見たことがなかった彼らには、ごく普通の家でも富豪の家に見え、見るものすべてが羨望 の対象となった。つまり、支配者でありながら被支配者を羨んでいたことになる。被支配者 は支配されながらも優越感を持った。この羨望は本物であり、その惨めさは長らく深い傷を 残した。 アメリカに支配された地域では状况は大きく違った。彼らはドイツ人の科学者をアメリカ に連れて行き、多くの武器もアメリカに送った。だが、それ以外の工業製品は特に欲しくは なかった。アメリカ兵も他国の兵士同様、略奪はしたが、持ち帰ったのはいわば「お土産」 であり、後の日々の糧になるようなものではなかった。アメリカ人は支配者だったが、その 土地から盗んだものより、与えたものが多かったと言って間違いないだろう。アメリカ人に は与えられるものが多かったのに対し、ヨーロッパ人はアメリカ人の欲しがるものをほとん ど持っていなかったからだ。 ソ連兵は、富が極端に少なくなっている時だったにもかかわらず、ヨーロッパ人の富に畏 敬の念を抱いた。一方、アメリカ兵はヨーロッパの文化に畏敬の念を抱いた。当のヨーロッ
195 第 5 章疲弊 いてしたか、 ) : アメリカ人の側は多少、見下す気持ちがあるくらいで、あとは概ね無関心だっ ロシア人は強靭で、危険で、そして飢えていた。ヨーロッパの左翼の人間は、その多くが スタ丿ンやソ連を美化して理解していた。スターリンが大量殺戮をしたことを知らないか、 知っていても許していた。しかし、ソ連の支配下に置かれた人々は、幻想など抱きようがな い。何しろ目の前にいてよく見えるからだ。よく見ていれば、ドイツ人とロシア人の間に違 いはあっても、それは程度の問題にすぎないことがわかる。東ヨーロッパでは西に比べてと もかく生活が厳しかった。。こが、 オ支配者と被支配者との間にそう複雑な感情が生まれたわけ ではない。被支配者はソ連を恐れながらも見下していた。一方のソ連の側は、被支配者とは 常に一定の距離を保ち、特別に何か感情を抱くことはなかった。アメリカ人とヨーロッパ人 の関係が複雑で相反する感情を同時に含むものだったのに対し、ロシア人とヨーロッパ人の 間の関係は非常に単純なものだった。 戦略と支配 ドイツとは一遅い、ソ連もアメリカも、他国を直接的に征服しよ、つとはしなかった。彼らは、 公式には個々の国に主権を保つことを許した上で支配したのである。ソ連の場合、被支配国 に主権を持たせているというのは多分に見せかけであり、外から見ても見せかけであること
ハンガリーからの脱出は簡単ではなかった。人民共和国建国が宣言されて以降、ソ連は国 リーとオーストリアの国境は封 民を中にとどめることに力を注ぐよ、つになっていた。ハンカ 鎖されていた。地雷原が設置され、大を連れた衛兵がサーチライトとマシンガンを持って巡 回していた。北にはチェコスロパキアがあった。チェコスロパキアはハンガリーと同じく実 質的にソ連に支配されていたことから、国境の警備は、オーストリアとハンガリーの国境に 比べれば緩くなっていた。チェコスロパキアもオーストリアと国境を接していた。オースト リアにたどり着くことが、両親にとっての唯一の希望だったが、ハ、 ノガリーから直接、オー ストリアに入ることは不可能だった。チェコスロパキアを経由するしか方法がなかった。 チェコスロパキアとオーストリアの国境が比較的、通りやすくなっていたのには理由があ った。それは、一九四八年にイスラエルが建国されたことと関係がある。イスラエルは元々、 生大英帝国の委任統治領だった場所に作られた国である。当時、イギリスが弱くなることであ 人れば、スターリンは何でも喜んだ。イギリスは、その後も引き続き、イスラエルにとっての 敵であり続けるだろうと考え、イスラエルと同盟関係を結ぶことを検討した。地中海への交 一通路を手に入れることは、ロシア人にとって長年の悲願だった。ギリシャやトルコの反政府 運動の支援をしたのも、その狙いがあったからだ。しかし、一方でアメリカも、いわゆる 嶂「トルーマン・ドクトリン , で、ギリシャ、トルコの反共産主義勢力を支援し始めたため、 第ソ連の試みが成功する可能性は大きく下がった。イスラエルとの同盟は、スターリンにとっ ては賭けだったが、リスクは小さかった。一九四九年の時点でイスラエルが必要としていた
生を送ったかは、その人がどこに住んでいたかによっても大きく違った。その土地を誰が支 配したかによっても、またその人が元々どういう人だったかによっても人生は違ったものに なった。ヨーロッパの中にもわずかながら、三一年間の動乱の影響を免れた国はあった。ス ウェーデン、ポルトガル、アイルランドなどがそ、つだ。影響が比較的少なかった国もあった。 かと思えば、まさに大量殺戮の現場となった国もあった。ただ、ヨーロッパ全体が貧しくな ったのは確かだし、多くの人民の運命が、誰が新たな支配者になったかに左右されたのも確 かだ。支配者とは基本的にはアメリカかソ連である。この二国が三一年間に経験したことは 互いに大きく異なっていた。アメリカはどちらの大戦でも戦争への参加が遅かった上、本土 はまったく被害を受けなかった。ソ連は第一次世界大戦を体験した上に、国内では内戦や粛 清、飢饉などがあり、第二次世界大戦でも、自国が戦場となった。アメリカは戦争によって さらに強い国になったが、ソ連は特に戦争の被害のひどかった国である。どちらに支配され るかが重要な意味を持っことは明らかだろう。 アメリカはヨーロッパの中でも裕福な部類に属する国々の支配者となった。ただ、その分、 弊 責任は重く、様々な苦難に直面することになった。 疲 当初、アメリカは、第一次世界大戦後と同じ行動をとろうとした。戦争が終われば即、軍 5 隊を帰国させようとしたのだ。ソ連が支配したのは、ヨーロッパの中でも貧しい国々だが、 それでも意味はあった。彼らは自分たちが何を勝ち得たか十分に知っていたはずだ。大変な 代償を支払ってようやく戦争に勝ち、歴史上最も西へと進出することができたのである。