っている。それを探険する目的の一つは、千島列島をつたうことによって日本の辺境 えぞほんとう ( 蝦夷本島 ) に到達できると見たためであった。たまたまこの列島のなかの一部にラッコ がむらがっていた。かれらがあらたな毛皮資源として原住民に捕獲させるべく手を打っ にいたるのは、行きがけの駄賃のようなものだった。主目的は日本への道すじ ( 航路 ) をさぐることにあった。 ただ、コザックは陸の人で、海の人ではない。かれらは海洋に馴れなかった。このた め千島探険は遅々として進まず、シベリアとは勝手がちがう世界だった。コズィリョフ マツマエ スキーも二十一島 ( 二十二島目が蝦夷本島である北海道 ) のうち、第三島まで行ったにすぎ 日本の江戸期の国内経済が最高潮に達した時期である一七 , ハ七年 ( 明和四年 ) 、ついに コザックの百人長チェルヌイという人物が、逃げだした千島原住民を追って第十九島で ある択捉島までやってきた。コズィリョフスキーの千島への船出以来、半世紀たってい る。この間、カムチャッカのコザックは、千島にわたっては原住民をおどしてラッコを 獲らせた。原住民がいやがって、列島を南へ南へと逃げたが、チェルヌイはそれを追っ てついに択捉島にまで足跡を印したのである。 その北の第十八島ウルップ ( 得撫 ) 島には、その後三年経った一七七〇年、ヤクーツ エトロフ
244 外蒙古 ( 蒙古人民共和国 ) の現状が維持されること。 「現状」 き、んか つまりは、ソ連傘下でありつづけること。そういう意味である。言い添えると、むか とい , っことになる。スターリンが、 しのように、中国の影響力はそこにはおよばない、 対日参戦を承諾するにあたって、この第一項を、他の二つのパワーに再確認させたので ある。 さて、第三項である。 千島列島が、ソヴィエト連邦に引き渡されること。 これによって、いわゆる日本の「北方領土」はうしなわれた。 もっとも協定でいう「千島列島」とはどの島からどの島までをさすのかという地理的 規定は話しあわれていない。だからソ連が解釈しているままに島という島がごっそり対 象にされたかのようであり、事実、ソ連はすべての島々をとりあげ、日本側が、そこは いわゆる千島でなく固有領土だとする四つの島までとりあげた。
アレウト諸島、千島列島の海獣 ( とくにラッコ ) に目をむけていた。私は、以前、商人 シェリコフの人柄を想像するよすがに肖像画の写真でものこっていないかと思ってさが したことがあるが、どうにも見あたらない。かれほどの大商人なれば、貴族なみに肖像 画家を傭って肖像を描かせたかと思えるのだが、その後、失われたのであろう。 ともかくも、シェリコフは単なる利益追求者にすぎず、さらには日本にこそ来なかっ たが、日本史に対する強烈な刺激者のひとりであった。かれは、 千島列島はラッコの宝庫だ。 ということに注目した。それを獲るために、農地から逃亡してきた農奴やコザックな どのあぶれ者を募集し、一七九五年 ( 寛政七年 ) 千島列島のウルップ ( 得撫 ) 島にまで進 出してくるのである。 砲 大 の 村もっとも、ウルツ。フ島については、シェリコフよりも二十数年前から毛皮業者が入り カこみ、一七七五年にもヤクーックの商人レベデフ・ラストチキンという人物がラッコ捕 もっとも四年後、この島に大地震 獲団をこの島に送っているから″処女島〃ではない。 チ 力と津波とがあり、乗船が島にのつかってしまったりして去り、その後、島は空つばにな っていた ( むろん、この島が土着アイヌにとっては居住地であることにかわりがなく、かつ日本
212 雑談として④ この稿で、モンゴルについて紙数を多くとりすぎているように思 われるかもしれない。 やがて最後まで読んでいただければ真意がわかってもらえると思 うが、千島列島とモンゴルは、外交的課題としては、カテゴリーと しておなじワクのなかに入るものだということを言いたいためであ る。 モンゴルもロシア問題であり、千島列島もロシア問題である。こ のことは周知のことであるにしても、つよく焦点をしばってゆけば、 おなじ主題の中に入ってしまうということに、私どもは気づかねば ならない。 それにしても、モンゴルのことを、多く書いた。 それは、モンゴルという国が、ともすれば、世界のひとびとの感 覚ではひどく口マンティックな存在で、現実感のうすい国であるか
ということを通じて、日本人の存在を認識していた。かれらが手に入れる針は、日本 製だった。それらは、千島列島のアイヌから手に入れていた。千島列島のアイヌたちは 日本の漆器の椀もカムチャッカ半島に運んでいたといわれる。 ほかに、極東古アジアに共通した ( この場合、イヌイットをもふくむ ) 食品として魚を はっこう 穴の中で腐らせて食べるという醗酵食品を好んでいた。 醗酵食品は極東古文化の一特徴 なれずし で、日本でいえば古代からの食品である熟鮓 ( 腐れずし ) などが、そういう古文化に属 するものと考えていし カムチャッカ征服にむかったアトウラソフの行動は、大胆だった。その配下はわずか 六十人のコザックにすぎず、それと同数のユカギール人 ( 古シベリア人の一派で、主とし てトナカイを飼育していた ) も同行させた。コザックたちは、銃をもっていた。銃こそロ シア人を象徴するもので、エリ ・エス・ベルグの『カムチャッカ発見とべ ーリング探 壁検』 ( 小場有米訳・昭和十七年刊 ) によれば、カムチャダールたちはロシア人のことを、 汗「火の人 ( 。フルイフタートウイン ) 」 とよんでいたという。鉄砲を放っためであった。 またコザック六十人は四門も大砲をもっていた。私どもは、兵数のわりに大砲が多い わん
「そのうちの四つの島は昔から私のものだ」 と事実をのべるべき日本は、この座にいない。当時、日本はなお交戦をつづけている。 やがて敗者になる。それを見越しての三人の勝利者の分け前談義なのである。情け容赦 があろうはずがない しかし、いずれにしても、広大なモンゴル高原と、小さな千島列島とが、それそれ一 条項を立て、等価値であるかのように相並んで記され、アジアにおける戦後領域がきめ られたのである。このことは、もし千島列島 ( たとえそのうちの一部であっても ) をソ連 が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定が崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求 されればその「現状が維持される」ことを、法理的には、やめざるをえなくなる。 私は、一時期、中国がさまざまな代表団を日本に送るたびに、その代表団が、わざわ ざ北海道の東端の海岸に立ち、沖にむかって北方の島をながめ、その返還についてのコ メントを繰りかえしていることに関心があった。むろん、あのひとびとは、決してその 場合でも口に出すことはなかったが、北方四島をながめつつ、じつは、 の 原 外蒙を中国に返せ。 高 湖と、暗にソ連にむかって叫んでいたにちがいない。私はそういうことだと当時思って あんゅ いまもそう思っている。まことに、中国人とは大がかりな暗喩をやるものでは
エトロフクナシリ 的には、狭義の北方領土 ( 歯舞・色丹と択捉・国後 ) は古くから日本に属し、いまも属し ています。固有の領土であるということは、江戸期以来のながい日露交渉史からみても 自明のことです。 カラフト 一九五一年 ( 昭和二十六年 ) の対日講和条約で、千島列島と南樺太についてのすべて の権利を放棄しました。しかし放棄された千島列島のなかで、右の四島については日本 の固有領土であるため、これは含まれていないという解釈は動かしがたいものだと思い ますが、現実にはソ連領になっていますし、これについてソ連は別の解釈をもち、問題 としてはすでに解決済みだとしています。 日本国政府がこれを非とするーー私も非としますーー以上、政府はこれについての解釈 と要請を何年かに一度、事務レベルでもってソ連の政府機関に通知しつづけるーー放棄 したのではないということを明らかにしつづけるーーーことでいいわけで、あくまでも事は外 ひか 交上の法的課題に属します。これをもって国内世論という炉の中をかきまわす火掻き棒 に仕立てる必要はなく、そういうことは、無用のことというより、ひょっとすると有害 なことになるかもしれません。 、うまでもなく、 ソ連は、し 領土的には、帝政ロシア以来、膨脹によってできあがった シコタン
びすとよぶ ) は当時、松前藩領だと日本側はおもっていた。むろんこれは多分に「版図」 的な見解で、ヨーロツ。ハふうに、領土としての必要な行政上の条件が具備されていたも のではない。だからー・・ - ーー平助は予言する。ーーロシアはやがて南下して千島列島にやって くるのだ、と。 以下、原文のまま。 うちすておき えぞち ・ : 此まま打捨置て、「カムサスカ」の者共、蝦夷地 ( 註・北海道 ) と一所になれば、 げちつき もはや 蝦夷も「ヲロシャ」の下知に附したがふ故、最早我国の支配は受けまじ。然る上は、 げせつ きく 悔て帰らぬ事也。下説に様々の風説を聞に、東北蝦夷 ( 千島列島のアイヌ ) の方は うけたまは かくの ) ) とき 段々ヲロシャになづき従ふと承る。如レ此事実説にて、一旦、ヲロシャに従ひて はカ及ばぬ事なれば、これ迄の様にしては、さし置き難き事と思はるる也。 さて、一九一一年以後のモンゴルについてである。 原モンゴルの近代史については、ワルター ハイシッヒの『モンゴルの歴史と文化』 と 湖 ( 田中克彦訳・岩波書店 ) と、田中克彦著『草原と革命』 ( 晶文社 ) という好個の著作があ る。いずれも簡単に手に入れることができるため、これらに譲り、ここでは多くは触れ この
、黒貂をとりつくしたあとにできた露米会社も、主要営業品目をラッコなどの海獣に むけた。 そのためには、航洋力のある帆船が必要だった。 き、らには、 ~ 豌がズっこ。 オかってのコザックも銃砲の威力を大いに利用したが、それは タイガ 森林の民を隷属させるためのもので、じかに黒貂を射っためのものではなかった ( コザ ックのもとで、じかに黒貂を捕獲させられていたのは、シベリア原住民だった ) 。 とうしょ ラッコも、はじめは北太平洋の島嶼の原住民に原始的な方法で獲らせていた。しかし 会社ともなると、それらのひとびとを使役しているだけでは商売にならなかった。むろ ん使役もした。この会社の社員が千島あたりにきて、かってのコザックと同様、原住民 にロシア正教の洗礼名をあたえ ( 洗礼名をあたえればロシア国籍を得たとみなされた ) 、キプ ャサク チャク汗国のモンゴル人のように毛皮税を課したが、島嶼のひとびとの捕獲法では能率 があがらず、結局は銃を使うロシア人を使用せねばならなかった。自然、かれらのため アに食糧を補給せねばならず、そのためには帆船と海員と航海技術が必要だったのである。 海たとえば、かれらの主な働き場所のひとつは露米会社の所有であるアレウト列島 ( 英 8 語よみではアリューシャン列島 ) であった。ここでラッコのほか、アザラシ、アオギッネ、
だんな という国名だった。漂流民は、伝兵衛といった。大坂の谷町の質屋「万九」の若旦那 で、商売の修業のために他家に奉公し、江戸から荷を輸送中、暴風に遭ったのである。 船とともにカムチャッカまで流され、仲間は原住民のために殺されたり逃げたりした。 伝兵衛は彫りのふかい顔をしていたのか、アトウラソフは「エンド人はギリシア人そっ くりである」としし 、、、「礼儀正しく理知的」であったという。伝兵衛は日本国の皇帝 ( 将車 ) の宮殿や、富などについて語った。 この大坂の若旦那はロシアの官吏によって優遇された。モスクワへつれてゆかれ、ピ ヨートル大帝にも拝謁し、さらにピヨートルの命令でイルクーックに最初の官立日本語 学校をひらいた。開設は一七〇五年で、コズィリョフスキーが千島探険に乗りだす八年 前のことである。 伝兵衛に日本語学校をひらかせたのも、コズィリョフスキーという乱暴者に千島列島 の探険をさせたのも、ロシアの中軸部が日本というにわかに知った一文明圏への関心の ためであった。 当時のロシアの日本への関心の中心は、清国に対すると同様、領土にはなく、シベリ アの産物を日本に売り、日本から食糧を買い、シベリア開発を容易なものにしたいとい