236 言たがーー中国の辺疆のわすらいの大部分が解消すると考えていることはたしかである。 最後に、ヤルタ会談について触れねばならない ャルタは、黒海に対して北からぶらさがっているクリミア半島の沿岸にある。この地 はかってモンゴル帝国の一部分であったクリム汗の遊牧国家の領域であったことを思い だす必要がある。日本でいえば、江戸時代のある時期までである。 ロシアの自立は、その領域いつばいに居た遊牧民族を気ながに征服してゆくことで確 かなものになって行ったが、一七八三年、やっとクリム汗国をほろばし、クリミア半島 をふくめた黒海北岸の草原 ( 紀元前八世紀、遊牧文明を最初に興したスキタイ人の故地 ) を口 遠いシベリアのプリャート・モンゴルの 信じがたいことだが、 シア領にしてしまった。 ロシア領であることが確定するのが一 , ハ八九年のネルチンスク条約によるものであると すれば、ロシアの足もとであるウクライナ圏内のごく手近かなクリミアの地の征服が、 それよりすっとーー百年もーー遅れたことになる。 かってクリム汗の遊牧地だったヤルタは半島南岸の港市で、気候が温暖なだけでなく、 背後に山をめぐらし、前面に黒海の水を見、近くに帝政以来、国家のカの象徴ともいう べきセヴァストーポリの要塞がある。ふるくから保養地として栄え、ソ連になってから
中国を独占的植民地にしようとするものであった。これによって日本の印象は決定的に 悪化した。このことは中国に民族運動をおこさせるもとになったが、日本国内に対して は見えざる毒素がひろがった。他国とその国のひとびとについての無神経な感覚という べきもので、かってわずかな量ながらもその中に含有していた日本の心のよりましな部 分をはなはだしく腐蝕させた。この種の腐蝕こそ国家の滅亡につながることを、当時の 〃愛国者〃たちは気づかなかった。 ついで、大正七年 ( 一九一八年 ) から数年も執拗につづけられた「シ・ヘリア出兵」で ある。「出兵」の前年に勃発したロシア革命によって、シベリアが無政府状態になった。 列強は、革命に干渉し、できれば圧殺しようとし、シベリアに兵を送った。ロシア人 はパルチザンでこれに抵抗した。シベリアは空家ではなかった。ロシア人にとって、か って獲得した地ではなく、すでに父祖の地になっており、かれら個々が命を捨ててもこ れを守るに価いする情念の地になっていた。 当初、連合軍 ( 日、米、英、仏 ) が組織された。二万四千八百の兵力のうち、半分ちか し一万二千が日本軍だった。その後、日本軍だけは七万三千に増強された。二年後には 他の国は撤兵し、日本軍だけがのこった。ただ一国だけ四年も駐兵しつづけた。この間 日本軍の損害は大きく、死傷は三分の一に達した。兵士の士気も低下した。
238 雑談として⑥ 私事をはさむと、クリミア半島のヤルタで、いわゆるヤルタ会談 がひらかれていた一九四五年一一月、私は二十二、三歳だった。 時代が、私のような無能な者まで兵士にさせ、関東軍の一部隊に スンガリー せきと・つが 配属させていた。その部隊は、満州東部の松花江のほとりの石頭河 子という小集落のそばにあった。石ころの多い痩地で、ところどこ かこうがん ろに、孤立した花崗岩らしい小山があるという荒凉とした地だった。 その東方にソ連国境がながながとのびている。もしソ連との開戦 があれば、即日にここが第一戦になる場所だった。私どもの小さな 戦車たちが、圧倒的多数のソ連の大きな戦車団の波に入って行って 砕けてゆくありさまが、つねに私のあたまのなかにあった。 が、ソ連とのあいだに中立条約がむすばれていて、そういう事態 はないだろうという気持も脳裏の一部を占めていた。まさか、この 時期、クリミア半島のヤルタの保養地で、アメリカのローズヴェル
240 石頭河子を出てゆくとき、この地を空にしてどうするのだろうと 思った。数カ月後に、ソ連軍が入ってきた。満州におけるあらゆる 地で、悲惨な事態がおこった。 明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州におけ る権益を相続したのである。がらにもなく " 植民地〃をもっことに よって、それに見合う規模の陸海軍をもたざるをえなくなった。 ぶん おおがら " 領土。と分不相応の大柄な軍隊をもったために、政治までが変質 して行った。その総決算の一つが " 満州。の大瓦解だった。この悲 劇は、教訓として永久にわすれるべきではない。 君子ハ為サザルアリ、ということばがあるが、国家がなすべきで ないことは、他人の領地を合併していたずらに勢力の大を誇ろうと することだろう。その巨大な領域に見合うだけの大規模な軍隊をも たねばならず、持てば兵員をたえす訓練し、おびただしい兵器を間 断なくモデル・チェンジしてゆかねばならない。やがては過剰な軍 備と軍人、あるいは軍事意識のために自家中毒をおこして、自国そ のものが変質してしまうのである。たとえば、歴史の中の日本人と いうのは、貧しいながらもおだやかで、どこか貧乏に対してとばけ たところのある民族だと私は思っているのだが、重軍備をもったあ
239 湖と高原の連命 トが、ソ連を対日戦にひきこむべくスターリンに説いていたなどは、 知るよしもない。すでに日本軍が戦力といえるほどの実質を持って いなかったことは、ローズヴェルトとしてはよく知っていたはすだ った。それでもなおかれは、アメリカの青年の流血をよりすくなく するという動機から、ソ連に、日本の武力圏の北方から攻めさせよ うとしたのである。 二月のその地は、土までが凍って、ツルハシがはねかえされるほ どに寒かった。やがて三月になって春の野の花々ーー・・・じつに美しい を見るのをたのしみにしていたころ、にわかに四十八時間以内 から に兵舎を空にして出よ、という動員令がくだった。私どもはその地を あとにした。野の花を見ぬうちに去ることに未練があったし、同時 おっくう に末知の地へゆくことが億劫でもあった。人間の想像力は、自分の 死をあいまいながら絶えずとらえている。しかし自分の死体がなじ みのない景色のなかでころがっているという景色は想像したくない このときの動員の規模は大きかった。私は日本の数すくない機甲 部隊のなかでも大きなグループである戦車第一師団に属していたの だが、その師団ぐるみ、本土決戦のために転用させた。意外にも日 本の関東地方に帰った。
さて、シベリアのことである。 アタマン コザックの首長イエルマークが、南北につらなるウラル山脈に遊牧するシビル汗の壁 を倒した ( 一五八三年 ) ことによって、ロシア帝国に東方ーー、シベリア大陸ーー・ヘの進 出の勇気をあたえたということは、すでにふれた。 タイガ シベリアには、森林や河川で原始的な狩猟採集の生活をしているひとびとだけではな 、大小の遊牧集団も住んでいた。その最大のものが、バイカル湖畔に遊牧するプリヤ ート・モンゴル人だった。低地モンゴル人といってもいし だからモンゴル高原のモンゴル人とは、別に考える必要がある。 シベリアの低地に住むプリャート・モンゴル人にふれる前に、通称外蒙古といわれて 遊牧民族にとって、地をたたいて天に感謝 きたモンゴル高原についてのべておきたい。 したくなるほど、、 しところである。古来、この地を感謝しなかったモンゴル人は一人も いないだろう。 ステップ この高原はシベリアの低地に北部を突き出して大きく隆起する高燥地で、草原もあれ の ハンガイ 原ば、緑のゆたかな山地もあり、半沙漠もあるといったふうに、動物が自然に依存して繁 湖殖するために神が与えたような遊牧の適地である。高原の平均標高は一五八〇メートル で、広さは、ヨーロッパの半ば ( フランス、スペイン、ポルトガル、イギリス本国をあわせた
216 ゴル語のボクト・クレーン ( 神聖な囲い ) のクレーンからきているらしく、その名のと おり、早くからラマ教の施設があったことを示している。ラマ教の施設の囲いは一見殿 ウルガ 舎にみえるために、土地の者は殿舎ともよんでいた。ロシア人はこの地名のほうを世界 に報告したため、この町はヨーロッパの地理書ではウルガとよばれるようになった。い ずれにしてもこのトラ川に面した美しい草原の地にもともとラマ教の施設があったため に四方のモンゴル人たちが遠近を問わずにあつまってきていた。 清朝支配がはじまると、漢族は個々の農民レベルで内蒙の草原への侵食をはじめた。 くわ かれらは、草原を鍬でかち割って土を砕き、物を植えた。半乾燥地である草原は鍬を入 れれば二度と牧草は生えす、かえって沙漠化する確率のほうが高かった。いずれにして も、遊牧者のための草原が減り、そのぶんだけ羊などが減った。羊などが減ることは、 遊牧者が落魄することでもある。チンギス汗の兵士の末裔たちは、やがて草原をさまよ う乞食のようになってゆくのである。 世界史における草原の時代は去った。 ロシア側においても去り、中国側においても去った。ロシア側においては、シベリア ツアー の遊牧民 ( 主として・フリャート・モンゴル ) を征服し、その地を皇帝の領地にすることと、 ャサグ 毛皮税をとりあげることで事を済ませたから、遊牧生活の窮迫化にまではならなかった。
237 湖と高原の運命 も、この町のそういう性格はかわらない 第二次大戦中の一九四五年 ( 昭和二十年 ) の初頭といえば、その前々年にイタリアが 降伏し、蔔年 , 目にハリが連合軍の手で回復され、ドイツ軍は各地で撤退していて、戦いの 峠は越えきっていたころである。この一月、ソ連軍は、弱勢化したドイツ軍に対し、大 規模な冬期攻勢を開始した。 二月、連合軍主要国家の首脳が、ソ連要人の保養地であるヤルタにあつまった。ャル タ付近のリヴァディヤの保養地を会場として、四日から十一日まで、戦争遂行の最後的 段階の方針と、戦後処理についての会談がひらかれた。
ス ( 前五世紀 ) の記述によってあきらかである。 遊牧文明は、クリミア半島から発生したといっていし 十三世紀のモンゴルの西方侵略によってここがふたたび遊牧の地になり、十八世紀末、 にいた。その半島 遊牧国家クリム汗国がロシアによって滅ばされるまで、遊牧民がここ のヤルタの地で、二十世紀後半の " 分け前〃が話しあわれた。なにやら近代史というよ りも、古代の詩劇のようである。 「ヤルタ協定」 は、全三項から成っている。すべて日本および中国に関係する内容である。 日本国外務省条約局『主要条約集』の「ヤルタ協定」の項の翻訳 ( 仮訳とされている ) によって見ると、協定の参加国の集団呼称として、 「三大国 ( ザスリ グレートパワーズ ) 」 連ということばがっかわれている。こういう表現も、詩劇的である。協定は三つの条項 の 髜から成っている。 湖その第一項こそ、最重要の内容である。
211 湖と高原の運命 そのほとんどが農業の不適地であるためだ 0 た。しかしたとえ不適地であろうとも、モ ンゴルの地をあわせ得ていることは清朝の版図を巨大なものにした。