場合 - みる会図書館


検索対象: ロシアについて : 北方の原形
55件見つかりました。

1. ロシアについて : 北方の原形

202 うけとられることをおそれたのである。が、ありのまま答えた。 「私は、大阪という町の東のはすれの場末に住んでいる。私鉄が通 っているが、私の町には急行は止まらない。その程度の町でも、駅 前の本屋に、露和辞典や和露辞典はたえず二、三冊は置いてある」 あら といった。彼女はいっさいの好奇心を露わにせず、ただ沈黙した。 帰国して二そろえ送ったが、着いたという返事はなかった。そうい う場合の返事は、礼儀以前にビジネスに属することで、そういうビ ジネスの慣習は、私が接した範囲では、ソ連ではあまりなさそうで あった。だから、おそらく着いたのだろうと思っている。 ソ連旅行は、この国の機関から招待される場合ならべつかもしれ ないが、ふつうの旅客はさまざまな困難を覚悟せねばならない。私 も、ふつうの旅客だった。空港における八時間もの延着待機、それ も一度のアナウンスも受けずに、床の上にうなだれてすわりつづけ ることなど、ソ連を旅する者にとって決してめずらしいことではな しソ連側の手落ちによるこれらの困難のなかで、訴える相手がい ないまま、この。フリャート娘に苦清をいうと、彼女は最後に小さな 声で、 「ソ ~ 連。はい、 し国です」

2. ロシアについて : 北方の原形

140 ただこの十八世紀における日露のあいだで、とくに商業をめぐって基本的に異るとこ ろを考えねばならない。 - ) ろう 日本の場合、幕府は商業に対して固陋だった。幕府は前時代的な農本主義を基盤とす る体制をとっていたために、商業をうとましくおもっていた。やがて商業が幕藩体制を つきくすすような勢いで沸騰し、幕府はこれをおそれ ( 田沼意次は例外的な政治家だが ) 、 危険視し、おさえようとする姿勢をとった。 ロシアの場合はちがっていた。ロス卿のいうとおり、国家指導型で、国家によって商 業が奨励され、育成された。ちなみに、この場合の商業とは、い うまでもなく、商品生 産と流通をふくむ。さらにロス卿のいうロシアの商業とは、国家指導の貿易 ( とくに毛 皮貿易 ) という意味に力点がおかれているといっていし 当時、露米会社の活躍は、どすの利いたおそれを感じさせるはどに華やかだった。こ の国策商社は、露領アメリカ北西岸、アレウト ( アリューシャン ) 諸島、千島列島におい て大いに海獣を捕獲しつつあり、肉をすて、毛皮をとり、倉庫に積みあげつづけた。た だ、これらを売るについては航洋船に頼らざるをえなかった。その前に、航路を発見、 る。

3. ロシアについて : 北方の原形

ロシアにおいては、この時期、ロシアが大口シアになる寸前だった。キプチャク汗国 の自壊以後、いくつかのロシア公国のなかでモスクワ公国の勢威が伸びつつあり、一五 汗三三年、有名なイヴァン四世 ( 雷帝 ) が即位し、強烈な独裁的指導を発揮するにおよん で、のちのロシア国家の基礎ができあがるのである。 イヴァン雷帝は士族 ( 下層貴族 ) 団を掌握して、タタールのくびき以来ロシア農奴を 帝国の破片、残党ともいうべき小国家ができた。そのなかで、 「シビル汗国」 という国もあった。 遊牧国家の生態というのは、離合することである。合うについては、強力な首長があ らわれた場合が多い。シビル汗国の場合、西トルキスタンから移動してきた者が旗をた て、そのあたりの遊牧民をあつめた。中心は、西シベリアのイルティシュ川の中流であ る。出現は十六世紀なかばで、わずかなあいだに汗国内の覇権が三度かわった。 この時期の日本においては、戦国を統一へむかわせる契機になった鉄砲が国内で普及 しており、またザビエルによって日本に入ったキリスト教も、多くの信者をつくりつつ あった。

4. ロシアについて : 北方の原形

しているといえないでしようか 九世紀になってやっとウクライナのキエフの地に、ロシア人の国家 ( キエフ国家 ) が できたということは、ごく小さな規模とはいえ、ロシア史を見る上で、重要なことだと 思います。 一般に、後発の社会にとって、国家というものをつくるとき、その作りかたを、近隣 の文明ーーー国家の型ー、ーから借用するということが多いのです。たとえば、日本の場合、 ばんきょ 古代は稲作を支配する豪族がほうばうに蟠踞していましたが、六、 七世紀に中国式の体 りつりようせい 制を導入することによって国家の体をなしました。とくに七世紀の律令制の確立がそ うです ( この借りものの体制から、日本が自前の体制になるのは、鎌倉幕府の創設からだと私は 思っています ) 。 て 6 九世紀に樹てられるキエフ国家の場合も、ロシア人が自前でつくったのではなく、他 性から国家をつくる能力のある者たちがやってきたのです。やってきたのは、海賊を稼業 のとしていたスウェーデン人たちでした。かれらは海から川をさかのばって内陸に入り、 シ 先住していたスラヴ農民を支配して国をつくったといわれています。 ロ かれらよ、、、 ヒザンティンの文化を導入し、やがて農民たちを帰依させることで、統御 てい き - え

5. ロシアについて : 北方の原形

220 清国側の資料には、一七三〇 ~ 三二年にかけて、モンゴル人の壮丁三千九百七人がロ シア側に逃亡した、とある。清国政府はこれについて、くりかえしロシア側に引渡し要 求をしている。 冗談じゃないよ、と当時の清国政府に対して、後世の私は叫びたいほどである。後世 の私どもにとって、そういう清国の要求よりも、四千人ちかい異民族の若者が、清国の くびきから脱すべく国境を越えて奔ったというほうを見ねばならない。たれがよろこん で故郷をすてるであろう。といって、モンゴル人たちが、ロシアを慕ったのではなかっ たことも同時に思うべきである。かれらはロシアもきらいだった。比較して、ロシアの ほうがまし、というだけのことだった。ひとつには、ロシア人にはモンゴル人への蔑視 感がすくない。中国人の場合は強烈だった。伝統的にモンゴル人を蛮夷視してばかにし、 その生活と生産を理解しようともしなかった ( ロシア人は、自国に遊牧の要素があったため に、これを異様な生産、生活形態とはしなかった ) 。ともかくもモンゴル人たちのヒタット ( 中国人 ) 嫌いは極端なものだった。 さらには、漢族商人の苛酷さが、生存そのものの基礎をおびやかした以上、かれらの ロシアへの脱走は緊急避難だったといっていし ロシアは清国が脱走モンゴル人を返せ と要求したのに対し、終始、沈黙をもってむくいた。公平にみて、この場合、ロシアに

6. ロシアについて : 北方の原形

越しすることができないかぎり、この隣人とうまくつきあってゆくしかない。なにごと かがあってたがいに接触する場合、日本側もソ連側も、以上のような程度の原形論ぐら いはあたまに入れておく必要がある。そのあとは、おたがいに透明な利害をさぐりあう ことである。

7. ロシアについて : 北方の原形

で、移動や移籍の自由もなかった。 コザックは、そこから ( ときに都市からも ) 逃亡して辺境に住んだ人達で、定義は、前 掲の原義どおり、自由な人という意味をもっている。領主のむちと搾取から自由になっ た、という意味の自由だが、。 へつに、ロシア体制からのがれ出た冒険的な生活者という 定義も考えられるだろう。 かれらは、例外をのぞいて農耕せず、辺境の農村に寄生したという点で、遊牧民族に 似ていた。ただ、遊牧民族の襲撃と掠奪にたえずおびやかされている辺境の農村を私的 武力で守ってやるという点ではちがっていた。守るかわりにかれらは農村に寄生する。 しかし寄生だけでは食えないために、草原や森林を遊牧する者を襲ったりした。 かれらとアジア系遊牧民族ーーとくにモンゴル人ーーーとのちがいははっきりしている。 まずかれらはさほどに牧畜的資産をもたないこと、本能のように城寨をつくること、そ れに魚が大好きだということである。モンゴル人の場合、魚をいっさい食べない ( 近頃、 すこし変わってきて、私の目の前で小魚のフライを食べた人民共和国のモンゴル人官吏がいて、 政府が魚も食べよと奨励しているのだ、と教えてくれた ) 。これに対しコザックの場合、魚は 常食のたべものであり、それを塩漬けや干物にして保存するだけでなく、その主たる労

8. ロシアについて : 北方の原形

226 儒教は、政治学でもある。たとえ憐憫がなくとも、政治としてこ れを救済するか、そのまねごとでもすればよかったのだが、それも しなかった。 この点、ロシア帝国と表裏をなすキリスト教 ( ロシア正教・ギリ シア正教 ) のほうが、民族の差異を越えてゆく普遍性をもっていた。 モンゴルをめぐる露清の対応の巧拙は、両国の国民性というよりも、 それぞれの背景をなす思想のちがいだったと思える場合がある。

9. ロシアについて : 北方の原形

欧露のある時期までは、その東限がウラル山脈までだったことは、すでにのべた。 十 , ハ世紀末から、ロシアの国土は東方に大きくふくれあがった。ウラル東方にはるか にひろがるシベリアという大地を獲てしまったことがそうだが、このことがロシアにと って幸福だったかどうかは、わかりにくい。ただ、東方に広大すぎる未開の領土を得た ことは、国家存立にまで影響するほどになった。それまでのロシアとは、シベリアの獲 ア得によって力学構造が変わったということがいえる。 ペ この巨人は左腕が巨大になった。 このことは、巨人の体にたとえるべきかもしれない の シベリアは巨大な左腕にあたり、ウラル山脈がその左腕のつけ根をなす左肩にあたる。 欧露というみじかい右腕をまわして長大な左腕のシベリアの痒みを掻こうとする場合、 海のシベリア ききうで かゆ

10. ロシアについて : 北方の原形

げばうとけ 「外法仏」 という、呪術の神体 ( ? ) を背負って歩く者が多かった。外法仏 をおさめた箱を「外法箱」という。外法仏とは、多くの場合、人間 とんな頭蓋骨でも外法仏になるわけではない の頭蓋骨であった。。 げばうあたま 「外法頭」でなければならない。 ふくろくじゅ こま、二種類ある。七福神の福禄寿のように長い頭もなか 外法頭。。 さいづちあたま また才槌頭のように、上が大きく、頭の下 なか験があるらしい のほうが小さい頭もいいとされる。両眼は、顔の中ほどより下のほ うについていなければならない。そういうひとは、 「けっこうな外法頭であられる」 などと、かげ口をたたかれる。 くぎよう おおきおとどきんすけ 前記の『増鏡』に登場する太政大臣の公相という公卿は、平凡な 人物だったが、みごとな外法頭だといわれた。それがわざわいし、 葬る前後、何者かに首を切り盗まれたといわれる。 これらをみると、モンゴルのシャーマンにおける頭蓋骨の小鼓と まったくの無縁とは言えない。 げまうば - 一