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検索対象: ロシアについて : 北方の原形
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1. ロシアについて : 北方の原形

1 ロシアについて 司馬遼太郎 原 方 Ⅷ IIIIIIIIIIIIIIIII 川 9 7 8 4 1 6 7 1 0 5 5 8 7 文春文庫司馬遼太郎作品リスト 翔ぶか如く 最後の将軍ー徳川慶喜ー 十一番目の志士 ( 上 ) ( 下 ) 木曜島の夜会 世に棲む日日 ( 一 ) ー ( 四 ) 歴史を考える対談集 酔って候 対談中国を考える 竜馬がゆく ( 一 ) 菜の花の沖 ( 一 ) ー ロシアについて北方の原形 功名が辻 ( 一 ) ー ( 四 ) 故郷忘じがたく候 手掘り日本史 この国のかたち ( 一 ) ー 歴史を紀行する 幕末 八人との対話対談集 夏草の賦 ( 上 ) ( 下 ) 対談西域をゆく 義経 ( 上 ) ( 下 ) 歴史と風土 坂の上の雲 ( 一 7 ベルシャの幻術師 日本人を考える対談集 大盜褝師 殉死 以下、無用のことながら 余話として 司馬遼太郎対話選集 ( 一 ) ー ( + ) この巨大な隣国をどう理解するか 「日本とこの隣国は、交渉がはじ まってわずか二百年ばかりのあい だに、作用と反作用がかさなりあ い、累積しすぎた」。長年にわたり ロシアに対して、深い関心を持ち つづけてきた著者が、おもに日露 関係史の中から鮮かなロシア像を 抽出し、将来への道を模索した、 読売文学賞受賞の示唆に富む好著。 著者紹介 司馬遼太郎 ( しば・りようたろう ) 大正 12 ( 1923 ) 年、大阪市に生れる。 大阪外国語学校蒙古語科卒業。昭 和 35 年、「梟の城」て、第 42 回直木賞 受賞。 41 年、「竜馬がゆく」「国盗 り物語」て菊池寛賞受賞。 47 年、 「世に棲む日日」を中心にした作家 活動て、吉川英治文学賞受賞。 51 年、 日本芸術院恩賜賞受賞。 56 年、日 本芸術院会員。 57 年、「ひとびとの 足音」て。読冗文学賞受賞。 58 年、 「歴史小説の革新」についての功績 て瀚日賞受賞。 59 年、「街道をゆく 、、南蛮のみち I 、、」て、日本文学大賞受 賞。 62 年、「ロシアについて」て、読 売文学賞受賞。 63 年、「韃靼疾風録」 て、大佛 : 知に賞受賞。平成 3 年、文 化功労者。平成 5 年、文化勲章受 義著書に「司馬遼太郎全集」「司 馬遼太郎対話選集」 ( 文藝春秋 ) ほ か多数がある。平成 8 ( 1996 ) 年没。 1 9 2 0 1 9 5 0 0 4 7 6 0 I S B N 4 ー 1 6 ー 7 1 0 5 5 8 ー 6 C 0 1 9 5 \ 4 7 6 E 定価 ( 本体 476 円十税 ) 文春文庫 し 1 文春文庫 ・安彦勝博 カバ 476 文春文庫 十税

2. ロシアについて : 北方の原形

知ることを重要としていなかった。 毛皮。 日本における毛皮および毛織物の需要のなさについては、それまでの日本史は二度経 験している。 最初の経験は、七世紀末の世界にささやかに成立して文化を成熟させつつ二百数十年 つづいて消滅した渤海国 ( 六九八 ~ 九二六 ) からの働きかけによる。 渤海国は、南満州を中心とし、朝鮮北部から、現在のソ連領沿海州のハバロフスク付 近を東北限とする領域に成立していた国である。日本の奈良朝の聖武天皇の神亀四年 ( 七二七年 ) 使者をよこして国交をひらき、以後、百九十年ほどのあいだに三十五回も遣 日使をよこした。 渤海のねらいは貿易で、日本から絹布や麻布、漆などをもとめ、渤海からは主として くろてんひぐま 黒貂や羆の毛皮などをもってきた。これらの毛皮は、はじめのあいだこそ貴族たちの子 ひ 、 ' 、やがて需要の気分が衰弱した。第一、当時の日本人に毛皮 ア供つばい好奇心を惹したが、 えんぎ 2 の用い方がわからなかった。たとえば平安朝盛期の延喜十九年 ( 九一九年 ) 、渤海使に対 の する招宴がひらかれたのは陰暦真夏の五月十一日であったのに、ある親王はいきがって かわごろも 八枚つづりの黒貂の裘衣を着こんで出席し、大汗をかいていた。黒貂の裘衣はぜいた ばっかい

3. ロシアについて : 北方の原形

116 から三十年経った一八三五年のことである。アメリカの青年だった。かれはポストンの 北西郊外で、詩人を父として育ち、一時期、自分を鍛えるために船乗りになっていた。 この青年の名は、リチャード・ヘンリー・デーナー ( 一八一五 ~ 八一 I) という。かれは ード大学で法律を学んでいたとき、目が弱って学業を継続できなくなった。幼時、 神経質で興奮しやすい性格だったという。かれは自分自身を鍛えなおすために、思いき った二年間を選んだ。学業を休み、プリッ、グ型 ( 二本マストの帆船の一種 ) の最下級の水 夫になったのである。 、か . れ - ・はハ ーバードの礼服と絹の帽子とキッドの手袋から、だぶだぶの水夫ズボンと縞 のシャツ、それに雨よけ帽という水夫姿に変わって、乗船した。海上における労働はか れが考えたとおりの自分に変えてゆき、さらには操帆や索具のつかい方もうまくなり、 航海そのものにも熟達した。二年後、かれは下船して大学にもどり、卒業して弁護士事 務所に勤めるかたわら、その航海体験記を書き、一八四〇年 "Two Yea 「 s before the Mast, A personal Narrative Life at Sea" という題で刊行し、好評を博した。日本 訳は、千葉宗雄氏の監訳『帆船航海記』 ( 海文堂 ) がある。 ところで、このデーナー青年の船が、一八三五年 ( 日本の天保六年。十一代将軍の家斉の

4. ロシアについて : 北方の原形

分があるであろう。比較だけの問題だが、 : その領域内における異民族統冶については、 ロシアのほうが、清国よりすぐれていたことはたしかである。あるいは統治力というほ どの社会科学的なものではなく、異民族に対する気分といったほうがいい。 ロシア人の ほうが、比較してみて ( ロシア正教のせいだろうか ) 本然的ないたわりがあった。さらに は、ロシアはシベリア開発における労働力を欲していて、人間がやってくることには歓 迎であったし、その人間が居つくことについて、職を提供してやる政治的配慮もした。 清国の場合、その内地においてはつねに労働力が過剰で、自然、人間には飽きあきして へんきよう おり、辺疆の異民族に対して職を提供する感覚などはあたまから欠けていた。 以後、清国の外蒙統治のやりカオ。 ゝこま、この状態のままーー年を経るにつれモンゴルの 要く攣、・つ 貧窮化はいよいよひどくなりーーー百年以上経った。一八七〇年 ( 清・宗九年。日本・明 治三年 ) 清国治下のウルガ ( 庫倫 ) の町に入った探険家がある。帝政ロシア時代の有数 の探険家のひとりである Z ・プルジェヴァリスキー中佐である。かれはその名著『蒙古 の 原 およびタングート人の国』 ( 日本訳は『蒙古と青海』田村秀文・谷耕平・高橋勝之共訳。昭和 高 湖十四年、生活社刊 ) のなかで、庫倫の人口は三万である、と書いている。草原の都市とし ては、大人口といってよく、その大部分は、漢族であったろう。プ氏のいうところでは、

5. ロシアについて : 北方の原形

アレウト諸島、千島列島の海獣 ( とくにラッコ ) に目をむけていた。私は、以前、商人 シェリコフの人柄を想像するよすがに肖像画の写真でものこっていないかと思ってさが したことがあるが、どうにも見あたらない。かれほどの大商人なれば、貴族なみに肖像 画家を傭って肖像を描かせたかと思えるのだが、その後、失われたのであろう。 ともかくも、シェリコフは単なる利益追求者にすぎず、さらには日本にこそ来なかっ たが、日本史に対する強烈な刺激者のひとりであった。かれは、 千島列島はラッコの宝庫だ。 ということに注目した。それを獲るために、農地から逃亡してきた農奴やコザックな どのあぶれ者を募集し、一七九五年 ( 寛政七年 ) 千島列島のウルップ ( 得撫 ) 島にまで進 出してくるのである。 砲 大 の 村もっとも、ウルツ。フ島については、シェリコフよりも二十数年前から毛皮業者が入り カこみ、一七七五年にもヤクーックの商人レベデフ・ラストチキンという人物がラッコ捕 もっとも四年後、この島に大地震 獲団をこの島に送っているから″処女島〃ではない。 チ 力と津波とがあり、乗船が島にのつかってしまったりして去り、その後、島は空つばにな っていた ( むろん、この島が土着アイヌにとっては居住地であることにかわりがなく、かつ日本

6. ロシアについて : 北方の原形

る。その脚を最初に揚げたのが、ピヨートル大帝であった。。 ヒョートル自身が造船見習 工になってオランダで修業したのが一六九七年で、それ以前のロシアに航洋の歴史はな 、。ピヨートルの海洋への号砲は、大航海時代の開幕が、ポルトガルの航海王子工ンリ ケが航海学校をひらいた年とすれば、二百八十年ほど遅れていた。 ピヨートルの航海はじめから百六年経って、一八〇三年、ロシアは最初の国家事業と しての世界周航に乗り出すのである。クルーゼンシュテルン航海がそれであった。この 航海は、ロシアにとって誇るべきものだった。風帆船の時代、 「世界周航」 というのは、容易になしうるものではない。国家にとってもっともかがやかしいもの のひとつで、その国の民度、統治力、科学技術がある水準に達したことの証拠になるこ 大とでもあった。 の 村ロシアはこのあたりから、雄大な行動力をもつようになる。この十九世紀の初頭のク の ルーゼンシュテルン航海をふくめて、三度も、日本の江一尸期に、はちきれるような国家 の期待のもとに、艦船を世界周航の途にのばらせ、三度とも航海に成功しているのであ チ ことだが、 カる。しかも日本にとってただならぬーーっまりは当惑すべき その目標の 1 地は三度とも日本であったことである ( ここまで書いてきて、想いだしたことがある。四度

7. ロシアについて : 北方の原形

176 わが嘉兵衛がこの情景を実見したのは、一 八一二年 ( 文化九年 ) のことである。

8. ロシアについて : 北方の原形

中国を独占的植民地にしようとするものであった。これによって日本の印象は決定的に 悪化した。このことは中国に民族運動をおこさせるもとになったが、日本国内に対して は見えざる毒素がひろがった。他国とその国のひとびとについての無神経な感覚という べきもので、かってわずかな量ながらもその中に含有していた日本の心のよりましな部 分をはなはだしく腐蝕させた。この種の腐蝕こそ国家の滅亡につながることを、当時の 〃愛国者〃たちは気づかなかった。 ついで、大正七年 ( 一九一八年 ) から数年も執拗につづけられた「シ・ヘリア出兵」で ある。「出兵」の前年に勃発したロシア革命によって、シベリアが無政府状態になった。 列強は、革命に干渉し、できれば圧殺しようとし、シベリアに兵を送った。ロシア人 はパルチザンでこれに抵抗した。シベリアは空家ではなかった。ロシア人にとって、か って獲得した地ではなく、すでに父祖の地になっており、かれら個々が命を捨ててもこ れを守るに価いする情念の地になっていた。 当初、連合軍 ( 日、米、英、仏 ) が組織された。二万四千八百の兵力のうち、半分ちか し一万二千が日本軍だった。その後、日本軍だけは七万三千に増強された。二年後には 他の国は撤兵し、日本軍だけがのこった。ただ一国だけ四年も駐兵しつづけた。この間 日本軍の損害は大きく、死傷は三分の一に達した。兵士の士気も低下した。

9. ロシアについて : 北方の原形

んできた多様な原住民は、あるものは森林に依存して走獣をとり、またあるものは河川 に依存して魚をとり、あるものは夏季、小規模な農業を営んでいた。 こんにちとなると信じがたいほどのことだが、紀元前三千年から同二千年といった古 代には、シベリアは日本よりはるかに文明の度合が高かった。日本が縄文時代の闇のな かにあるとき、すでにシベリアでは青銅器文化が興っていた。青銅器文化は紀元前四千 年ごろにオリエントで興る。千年ほどを経てシベリアに入り、紀元前千五百年から同千 やきん 二百年ごろには青銅の冶金術がよほど普及していたから、金属冶金についていえば、中 国の殷・周より早かったかもしれない。すくなくとも中国に影響をあたえうる地理的な、 あるいは時間的位置にあったといえる。 オリエントからはるかにったわった古代シベリアの冶金技術は、この地なりに生産力 の高い諸民族を生んだ。ただしその力が広域を支配して一大国家を形成するにいたらな かった。多くの民族は、冶金術で生産を高め、広域社会をつくるよりも、むしろ原始的 壁な採集生活にとどまって暮らしてゆくほうが生きやすかったのかと思われる。かれらの 汗多くは、氏族単位でかたまって小規模な生産共同体に満足していた。 シ ていれい 中国史の側からみると、紀元前三世紀から紀元後五世紀にかけて、シベリアに丁零と

10. ロシアについて : 北方の原形

Ⅷ校の教師にさせる方針をとった。 この方針のもとに最初に右の処遇をうけたのは、一六九七年カムチャッカに漂着した 伝兵衛 ( 大坂出身 ) で、かれは首都。へテルプルグにつれてゆかれ、大帝ピヨートル一世 ( 一六七二 ~ 一七二五 ) に拝謁するという栄に浴した。日本の慣習では信じがたいほどの 事態である。将軍にも大名にも拝謁できる身分でない町人伝兵衛が、大帝国の皇帝に拝 謁したのである。 ピヨートルは好奇心のかたまりのような人物だったし、自分の配下のたれよりも有能 であった。かれがみずから長時間にわたって伝兵衛から日本事清を聴取したということ が、大きい。そのあと日本語学校を創設し、伝兵衛を教師とした。伝兵衛がピヨートル あこうろうし に拝謁したのは一七〇二年で、日本の元禄十五年、赤穂浪士が討入りをした年である。 赤穂を鍵にして当時の日本の経済と交通、あるいは社会を考えたい。江戸期の赤穂の 塩は日本一の品質をもっていた。 しし、ものがほし、 という、商品経済の熟成期の傾向がすでに社会をおおっていた。塩であれば何でもい いという社会ではなくなっていたのである。