日本史 - みる会図書館


検索対象: ロシアについて : 北方の原形
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1. ロシアについて : 北方の原形

と、命じた。一七三八年五月、シバンベルグは四隻の船をひきいてカムチャッカ半島 の一港を出、翌年六月十六日、仙台領の沖に達し、漁民と接し、次いで藩から派遣され ばっぴょう た藩吏たちと船上で会い、抜錨して去った。シ。ハンベルグは、日本の国土を見た最初 の皇帝の役人だったといっていし しかしながら以上は、オホーック港から日本への、いわば近距離的な航海にすぎない。 シバンベルグがのそいた日本も、北日本にすぎず、航海としてもさほどのことはなかっ ピヨートル以後、ロシアの技術文化が熟成してゆくにつれて、シベリアの食糧補給の 問題はいよいよ大きくなり、それにつれ日本という存在がますます重要になってきた。 「なんとか日本の扉をあけて食糧を売らせなければならない」 という必要がやかましく論ぜられるようになった。この要求は、。 ヒョ 1 ートル・時代には アまだそれほど大きな声にはなっていなかった。その後大きくなった毛皮業者が合唱し、 ハ案として政府に持ちこまれ、かれらに動かされるまでになった。もっとも食糧を売らせ こく漠然と、米など 海るといっても、その決済方法までが研究されたわけではなかった。。 食糧の代価として毛皮を置いてゆくというぐらいのものであったろう。この点、現在の

2. ロシアについて : 北方の原形

日本をやつつけたあと、南樺太と千島列島はソ連にひきわたす、ということを、スタ ーリンはこの協定のときに重要な項目として米英両首脳に約束させました。日本帝国の 滅亡は、ソ連の参戦段階によって滅亡の速度が数カ月早まったかもしれません。しかし 当時、日本はすでに海軍がないにひとしく、陸軍の武装も、質量ともに軍事力とはいえ よいほどのものになりはてていたのです。 日本帝国の潰えについてふれたのは余談です。クリミア半島の草原に興亡したスキタ イ以来三千年ちかい遊牧民族史のことに思いをはせてもらいたいということを思ったか らです。その半島のヤルタで、日本帝国の処分についての協定がおこなわれたことを思 いあわせることによって、想念を多色刷にしてもらいたかったのです。

3. ロシアについて : 北方の原形

122 の投げ方によっては、そのまま対日問題になる。 日本にとってのシベリアは、冬季の寒気団の発生地というだけで、なんのかかわりも オい。いわば、シベリア問題の中での「日本」は、ロシアの一方的な思い入れで、日本 としては呆然とするほどのよそごととして在りつづけてきたのである。 シベリアをめぐってのこの両国の不幸な関係史を、両国の学者がなお共同の場でおこ なっていないというのは、ふしぎというほかない

4. ロシアについて : 北方の原形

246 私は、日本が大した国であってほしい。北方四島の返還については、日本の外務省が 外交レベルでもって、相手国 ( ソ連 ) に対し、たとえ沈黙で応酬されつづけても、それ を放棄したわけではないという意思表示を直常的にくりかえすべきだと思っている。 しかし、それを国内的な国民運動にしたててゆくことは有害無益だと思っている。有 害というのは、隣国についての無用の反感をあおるだけだということである。 ロシア史においては、他民族の領土をとった場合、病的なほどの執拗さでこれを保持 してきたことを見ることができる。 かれらは、感情の上では、千島列島は対日参戦という血であがなったものだと信じて しる ( むろん、そういうばかなことはない ) 。 日本が、政府主導による国民運動などをしているぶんには、彼の国は、日本はそれを 流血でもってとりかえすつもりかなどということを、ある種の政治的感情でもって考え かねない体質をもっている。 やる気なら喧嘩は買ってもいし という考え方を伝統的にとってきたロシアが、日本と北方四島返還さわぎにのみ例外 を設ける保証などどこにもない。

5. ロシアについて : 北方の原形

日露交渉史はじつに若く、せいぜい二百年余でしかない。 日本史でいえば、織田信長も豊臣秀吉もまた徳川家康も、ロシアという国名も民族名 も知らすに死んだ。 わ 江戸中期、当時の日本人の実感でいえば雲でも大湧きに湧くようにして北方で興るの である。しかも、日本の無防備な裏木一尸に足音がするという出現の仕方だった。敷石づ たいに迫ってくるという実感もあって、出現の最初から好もしい印象はうけなかった。 十八世紀、十九世紀のロシアの動きや、そのことからうけるイメージによって、関係 としてのロシアの原形は十分かたちをなしたといっていし ばっかい 十九世紀末期にはロシアは満州に南下し、関東州を設けて渤海湾に臨み、朝にあっ おうりよっこう ては鵯緑江で森林伐採権を得たり、この国内において土地を買ったりしはじめた。さ らに日本に近づくという恐怖が、日本に海軍軍備を増大させた。その上、この恐怖が、 多分に心理的な作用・反作用をかさねつつ、結局は日露戦争というかたちをとって爆発 してしまった。 それらは、原形を考えるという上では結果の一つにすぎないためにこの稿ではふれな と あ、カ」 -0

6. ロシアについて : 北方の原形

( ) 内は解説者。品切の節はご容赦下さい。 稲垣武・加地伸行 日本にとって「やっかいな隣人」中国は「壮大な田舎者」国家 日本と中国永遠の誤解と喝破し、謝罪問題や企業進出のトラブルが、お互いの一『〕語感 異母文化の衝突 覚・文化の違いに起因することを実証した画期的な対論集。 石井英夫 産経新聞一面のオアシス「産経抄」から著者自身が選り抜いた 一一六〇本 ( 一九九六、一一〇〇〇年 ) と雑誌「正論」のコラムを引 産経抄この五年 収録。過激だが心優しい、日本咼のコラム集 ! ( 徳岡孝夫 ) 池田晶子 昨今の哲学プームに異議を唱える著者が、ソクラテス、輻田恆 ンチ存、医者といった多種多様な人々に形而上学から愛の一撃をお メタフィジカル・。、 形而上より愛をこめて 見舞い ! ずばり核心をついた哲学的辛口人物批評。 ( 木田元 ) 文 桶谷秀昭 春・論 大東亜戦争は本当に一部指導者の狂気の産物だったのか ? 戦 争をただ一つの史観から断罪して片づけてよいものか ? 昭和 文評昭和精神史 改元から敗戦までを丹念に綴る昭和前史。毎日出版文化賞受賞。お 桶谷秀昭 昭和という時代はいっ終ったのか。異国車隊の進駐と占領で始 まった敗戦国日本と戦後を生きた日本人の心の歴史を東京裁 昭和精神史戦後篇 判、一一一島由紀夫事件、天皇崩御を通して克明に描いた渾身の書。お 呉善花 ( オソンファ ) 韓国歴史学界では「日本人は韓民族の子孫」という言説が半ば 攘夷の韓国開国の日本流通している。だが、それは本当か。日韓の古代史をたどって その真相を明らかにする山本七平賞受賞の問題作。 ( 渡部昇一 ) お

7. ロシアについて : 北方の原形

こんにちのソ連政府としては、千島列島とモンゴル高原とが、ヤルタ協定においてセ ットになっているぐらいのことは知っている。また、中国人が日本の北方領土返還運動 に同調することがソ連に対してどういう意味をもっかについても、むろん中国人以上に 知りぬいている。中国人が、中蒙国境に出かけて行ってそれを叫ばず、北海道の東端で モンゴルを返せと暗喩をこめて叫んでいることも、知っている。北方四島を日本にかえ すことは、モンゴル高原を中国にかえすことと同じ論理であると思っているのにちがい 日本人がもし、北海道東端の沖にうかぶ島をみて、同時に北アジアに隆起する大高原 を思いあわせるようになれば これは一例にすぎないがーー、、やっと一人前のアジア人に なれるのではないか。 以上、私がみた とくにシベリアを中心としたーー日露交渉史の原形というべきもの の 原をのべてきた。ロシアが、二十世紀のある時期からソ連とよばれるようになり、国の体 湖制もかわったが、 外政上の原形にはかわりがない ソ連には、シベリアがある。そのそばに、日本の島々が弧をえがいている。日本が引

8. ロシアについて : 北方の原形

136 さて、日本史の年表とひきくらべてみる。 クルーゼンシュテルンが生まれた一七七〇年は、日本でいえば十代将軍家治の明和七 年で、高田屋嘉兵衛 ( 後述する ) より一歳若い。江戸期の特徴をひとつだけあげよとい おきつぐ われれば、明治以前の商品経済の全盛期であったといいたい。田沼意次の全盛期でもあ った。意次は、江戸期的な封建制のわくのなかで、貨幣経済という異色なものの火をさ かんに煽った政治家である。 クルーゼンシュテルンが一歳ぐらいのころから、日本にとって、ロシアというかって きいたこともなかった国名を冠する勢力が、北辺の黒い雲になって立ちあらわれたので ある。 つまり、クルーゼンシュテルンが一歳のとき、ロシア船が日本の阿波に漂着し、八歳 のときにロシア人がカムチャッカ半島から千島をつたってエトロフ島などに出現した。 またかれが十一歳のとき、江戸では工藤平助が『赤蝦夷風説考』を書いている。 工藤平助の『赤蝦夷風説考』は、ほとんどの日本人が、地上にそういう国があるとも 知らなかったときに、無用の主観をまじえずにロシア国のなりたちから一一 = ロ語までを紹介 した本である。しかもその国家的活動の本質までひき出した。この場合の「赤蝦夷」は あお

9. ロシアについて : 北方の原形

りである。またよくいわれるように、ロシア人は役人になるとーーーとくにソ連時代に入っ てからは 別人になるという。そのことも、よくわかっている。 それらのことどもは、この稿を書いてきた私の心の姿勢とはなんの関係もない。また、 一人のロシア人は大変、、人 1 , ししだが、ソ連人はいやだ、ともいわれる。そういう言いま わしも、この稿を書くにあたっての私とは、無縁のことである。 私はただ、歴史という大きなワクのなかで、日本とのかかわりにおけるロシアを見た かっただけである。その関係史を煮つめることによって、ロシア像をとりだしてみたか ったのである。 ロシアは、その異様に大きな翼を東にひろげている。シベリア大陸である。ロシアが やりつづけているシベリア活動 ( もしくは極東活動 ) にかかわらざるをえなかった しくは圧迫をうけざるをえなかったーー日本を通すことで、ロシア像をとりだしたかったの である。 むろん、極東活動だから、その大きな羽ばたきにまきこまれるのは、日本だけではあ ありえない。当然、中国もそうであり、またモンゴルもその仲間だった。むろん、シベリ アの原住民であるトウングースや、カムチャッカ半島のカムチャダールも、これに入っ

10. ロシアについて : 北方の原形

知ることを重要としていなかった。 毛皮。 日本における毛皮および毛織物の需要のなさについては、それまでの日本史は二度経 験している。 最初の経験は、七世紀末の世界にささやかに成立して文化を成熟させつつ二百数十年 つづいて消滅した渤海国 ( 六九八 ~ 九二六 ) からの働きかけによる。 渤海国は、南満州を中心とし、朝鮮北部から、現在のソ連領沿海州のハバロフスク付 近を東北限とする領域に成立していた国である。日本の奈良朝の聖武天皇の神亀四年 ( 七二七年 ) 使者をよこして国交をひらき、以後、百九十年ほどのあいだに三十五回も遣 日使をよこした。 渤海のねらいは貿易で、日本から絹布や麻布、漆などをもとめ、渤海からは主として くろてんひぐま 黒貂や羆の毛皮などをもってきた。これらの毛皮は、はじめのあいだこそ貴族たちの子 ひ 、 ' 、やがて需要の気分が衰弱した。第一、当時の日本人に毛皮 ア供つばい好奇心を惹したが、 えんぎ 2 の用い方がわからなかった。たとえば平安朝盛期の延喜十九年 ( 九一九年 ) 、渤海使に対 の する招宴がひらかれたのは陰暦真夏の五月十一日であったのに、ある親王はいきがって かわごろも 八枚つづりの黒貂の裘衣を着こんで出席し、大汗をかいていた。黒貂の裘衣はぜいた ばっかい