工南や華南の海岸にはたえず倭寇がやって つづけた。明は、外患の多い王朝であった。、冫 きて、それを防ごうとする明王朝の財政をおびやかした。当時、 「北虜南倭」 とい , っことばができた。 清になると「北虜」であるモンゴル人は弱くなってしまった。 明という漢民族王朝をほろばした清自身が、異民族王朝だった。かっては長城の外で ある満州に住み、ウラル・アルタイ語族に属することばをつかっていた。 ペんばっ じトしん 女真 ( ジュルチン ) 族などとよばれたこともあったが、頭は辮髪にし、多少の牧畜と 狩猟、それに多少の農業を営んでいた。ほば定住の半牧であるため遊牧のモンゴル族よ り戦闘力は劣るものの、農業を持っているということで、その面で漢民族とかさなって いた。つまり漢民族の文化と政治、民心をその部分で理解できた。また別の面において 狩猟・騎馬が入っているために漢民族よりはるかに戦闘力があり、モンゴル人とすら対 抗することができた。かれらは、ふつう満州人と自称・他称した。 の 満州人の中国支配は、歴史の奇蹟といってよかった。わずか男女六、七十万という人 湖ロの民族が長城の内側になだれ入り、人口数億の大陸を支配したというだけでも驚くべ ーー歴史 きことだが、その統治能力はーーー清朝滅亡後、中国人は正直に評価したがらないが
ただモンゴル側にとって残念であることは、モンゴル人の人口がすくないことでした。 モンゴルに忠誠心をもっ他の縁類民族を入れてもおそらく男人口百万を越えるというこ とはなかったでしよう。ロシア支配のために、バトウに頒けられたモンゴル兵は『元朝 、ます。一万人たらすと見ていいでしよう。 秘史』によれば、千戸隊が四個だったといし 一万人たらずが、広大なロシア平原を支配したのです。 ステップ ここでちょっと言い添えなければならないのは、ロシア平原の草原に、かれらモンゴ ル人が来る前から、キプチャクとよばれ、イスラム教を奉するトルコ系遊牧民族の一派 が放牧していました。モンゴル人はまずかれらを撃破し、次いで配下に組み入れました。 一万のモンゴル人が貴族、その下のキプチャク人あるいは似たような経過をたどった他 の遊牧民が士族ということになりました。 他の例でみても、帝国とは、ごく一般的に収奪の機構といえそうです。とくに騎馬民 て 6 族が農耕民族を支配して「帝国」をうちたてたとき、その機構はーー、キプチャク汗国に限 らすーーー徹底して収奪のためのものでした。キプチャク汗国がロシア農民に対して行っ 異 のた搾りあげはすさまじいもので、ある説では十四種類もの貢税がかけられたといわれ、 ア 、こは、ロシア諸公国の首長を軍事力 ロシア農民は半死半生になりました。汗国のやりカオ でおどし、かれらを隷従させ、その上でかれらを通じ、農民から税をしばりあげるとい
232 た ドルジ ンザロフは偉大だった。モンゴル語のはか、サンスクリット吾、トルコ語、 ドイツ語、フランス語、ラテン語に精通し、卒業論文にシャーマニズム研究をえらび、 「カザン大学学報」に発表されて、ヨーロッパ世界でまだ注目されるにいたらなかった シャーマニズムについての研究の先駆的な役割をはたした。 びよう われわれ後世の者がシャーマニズムを論ずるとき、最初に黄金の鋲を打ちこんだドル もうまい ハンザロフの名を感謝とともに念すべきなのである。そういう精神の作業が、蒙昧 とされる遊牧社会から出たというのは、公教育のおかげというほかない バイカル湖畔でこのような人物が出つつあったとき、清朝領である高原のモンゴルで しつ - 一く は清朝の桎梏のもとに同族があえいでいたことを思うと、すくなくとも異民族や異民族 文化に対する対応のしかたが、清朝ーーーといわすわれわれアジア人ぜんたい が、帝 政ロシアにくらべ、比較にならぬほど劣っていたということがいえる。 辛亥革命の前後、高原で閉塞していたモンゴル人たちの世界にわずかに射しこんでい た外界からの光は、ロシア領内にいる。フリャート・モンゴル人は結構にくらしている、 という情報だった。 シベリアへ逃げよう。
上のどういう王朝よりも卓越していた ( 近代以後の中国の知識人も、また中華人民共和国も、 清朝の功績をみとめようとしない。その理由は、異民族王朝であったこと、中国近代史のはじま あい・とば りは滅満興漢という合一一 = ロ葉から出発したことなどによる ) 。 それに、清朝は中国の領域を、史上最大の版図にひろげた。歴朝たえまなかった辺境 の反乱をもすくなくした。また以下のことは清朝の功ではなく日本史の事清によるもの だが、倭寇も来なくなった。さらには、満州人自身の国である満州 ( 中国・東北地方 ) を 婿入りの道具として持ってきて、そのまま滅亡後も中国領になった。 ともかくも、満州 ( 清 ) 王朝が、結果として漢民族のためにやった最大の功績は、紀 元前の匈奴以来、長城内部の漢民族地帯の外患だったモンゴル高原を中国の版図に入れ たことである。だけでなく、そこにいる騎馬・遊牧民族を、ラマ教などを勧めることに よってまったく骨抜きにし、民族の骨髄まで腐らせてしまったことだった。異民族なれ ばこそ、似たような異民族の泣きどころを知っていたといえるかもしれない 最初は、清朝が工作したのではなかった。 モンゴル人の仲間の遊牧民族は、高原の連中や、バイカル湖周辺のプリャートだけで なく、アジアの他の草原にもいた。そのなかで、モンゴル高原に次ぐ適地ともいうべき
230 私が、この稿で言いたい小さいことは、清朝とそれ以前の中国史が、周辺の異民族を、 汚くておろか者で秩序感覚がなく人間よりけものにちかい 異民族夷狄視思想ーーと思 ってきた伝統のために、旧中国がつい外蒙古への対応を誤ったことについてである。そ のため、かれらはモンゴル高原そのものをうしなった ( こんにちの中国にあっては、この 感覚が、内国的な少数民族対策においても、私が見聞したかぎり、根絶やしにされている。むし ろ、日本人のほうに、 かっての伝統的中国人の異民族軽視に似たものが残っているかのようであ り、すくなくとも日本をとりまく他のアジア人たちは多くの実例とともに、日本をそのように見 ている。たとえば、せめてドイツ人がフランス人に対してもっている諸感覚でもって、アジアの 周辺民族を感じていさえすれば教科書の表現修正問題というような信じがたいほどの愚行をやる はすがない ) 。 まだしも、清朝より帝政ロシアのほうが、シベリアのプリャート・モンゴル人に対し て親切であった。このことは、諸資料が物語っている。 たとえば中国における辛亥革命より百年ばかり前し こ、シベリアにあっては、ロシア帝 国が早くもプリャート人の子供のための学校をたてているのである。一八〇六年にオナ
んできた多様な原住民は、あるものは森林に依存して走獣をとり、またあるものは河川 に依存して魚をとり、あるものは夏季、小規模な農業を営んでいた。 こんにちとなると信じがたいほどのことだが、紀元前三千年から同二千年といった古 代には、シベリアは日本よりはるかに文明の度合が高かった。日本が縄文時代の闇のな かにあるとき、すでにシベリアでは青銅器文化が興っていた。青銅器文化は紀元前四千 年ごろにオリエントで興る。千年ほどを経てシベリアに入り、紀元前千五百年から同千 やきん 二百年ごろには青銅の冶金術がよほど普及していたから、金属冶金についていえば、中 国の殷・周より早かったかもしれない。すくなくとも中国に影響をあたえうる地理的な、 あるいは時間的位置にあったといえる。 オリエントからはるかにったわった古代シベリアの冶金技術は、この地なりに生産力 の高い諸民族を生んだ。ただしその力が広域を支配して一大国家を形成するにいたらな かった。多くの民族は、冶金術で生産を高め、広域社会をつくるよりも、むしろ原始的 壁な採集生活にとどまって暮らしてゆくほうが生きやすかったのかと思われる。かれらの 汗多くは、氏族単位でかたまって小規模な生産共同体に満足していた。 シ ていれい 中国史の側からみると、紀元前三世紀から紀元後五世紀にかけて、シベリアに丁零と
浦支配してきた古い大貴族たちの勢力をおさえ、各地に軍事的成功をおさめ、かつ一方で は西方との交流をはかり、貿易業者 ( 主要輸出品は毛皮 ) を保護し、西方の兵器を輸入し た。さらには貴族に反逆のうたがいがあれば住民まで大量虐殺するという恐布政治を布 貴族や人民あるいは統治下の異民族に恐れをもたせることこそ当時のロシアにと って統治の本質的な秘略というべきものだった。 恐怖をあたえる装置は、イヴァン四世の手ににぎられている士族団であり、具体的に いえば、かれらがもっている火砲、小銃であった。イヴァン四世は、 「皇帝 ( カエサル ) 」 と称した。ツアーリである以上、無限の力をもたねばならない。でなければ、モスク ワ国家の維持などはできなかった。 大貴族たちは雷霆をおそれるようにこのツアーリをおそれた。しかし、ロシア史にと ってイヴァン四世はロシア人のロシアを確立する上では功が大きく、スターリンも、レ ーニン以前の政治家としてはもっとも高く評価した。このことは、中国の最初の統一者 しん である秦の始皇帝を毛沢東がもっとも偉大な政治家として評価したことと似ており、地 上のマルキシズムというものが、書斎のマルキシズムと、こういう点でもすいぶん毛色 のちがったものであることを思わせる。
らアンガラ川に出ることが、まず自然の条件として困難だった。下流は流れがゆるやか で舟行も容易だったし、また遊牧民族がいないために武力の上からも楽に済んだ。中流 は、河川の状態もひどかった。河中に岩石が多く、水流が滝のようで、とても舟でさか のばれるものではなかった。さらに上流 ( バイカル湖周辺 ) ともなれば、。フリャート・モ ンゴル人の遊牧領域であり、いわば一国をなし、これと戦うのは至難だった。 きようたん これに対処したコザックたちの気の長さは、驚歎すべきものがある。 かれらは、一六三一年、流域の一点をえらんでプラトースク柵を設け、付近の狩猟民 ャサグ を支配して、毛皮税をとりたて、力をたくわえた。 四年後に、柵はブリャート・モンゴル人に襲撃されて守備隊が全滅させられたが、そ の翌年には再建した。さらに右の柵を建設して二十一年後に、イルクート柵を設けた。 のち、イルクーック市に発展してゆく柵である。 ちなみに、それらの柵には、女が居ねばならない。 この 原前記『シベリア年代史』によると、シベリアでは男子に比して女子が足りない。 湖ため、コザックたちは異民族の女を掠奪するか買いとって妾とした。しかしどのロシア 人も、容貌風俗の異る異民族の女と寝室を共にすることをうれしがらなかった。女が不
分があるであろう。比較だけの問題だが、 : その領域内における異民族統冶については、 ロシアのほうが、清国よりすぐれていたことはたしかである。あるいは統治力というほ どの社会科学的なものではなく、異民族に対する気分といったほうがいい。 ロシア人の ほうが、比較してみて ( ロシア正教のせいだろうか ) 本然的ないたわりがあった。さらに は、ロシアはシベリア開発における労働力を欲していて、人間がやってくることには歓 迎であったし、その人間が居つくことについて、職を提供してやる政治的配慮もした。 清国の場合、その内地においてはつねに労働力が過剰で、自然、人間には飽きあきして へんきよう おり、辺疆の異民族に対して職を提供する感覚などはあたまから欠けていた。 以後、清国の外蒙統治のやりカオ。 ゝこま、この状態のままーー年を経るにつれモンゴルの 要く攣、・つ 貧窮化はいよいよひどくなりーーー百年以上経った。一八七〇年 ( 清・宗九年。日本・明 治三年 ) 清国治下のウルガ ( 庫倫 ) の町に入った探険家がある。帝政ロシア時代の有数 の探険家のひとりである Z ・プルジェヴァリスキー中佐である。かれはその名著『蒙古 の 原 およびタングート人の国』 ( 日本訳は『蒙古と青海』田村秀文・谷耕平・高橋勝之共訳。昭和 高 湖十四年、生活社刊 ) のなかで、庫倫の人口は三万である、と書いている。草原の都市とし ては、大人口といってよく、その大部分は、漢族であったろう。プ氏のいうところでは、
225 湖と高原の運命 雑談として⑤ 挈っかく 大胆な言い方かもしれないが、儒教は宋学 ( 朱子学など ) 以後、 普遍的な思想であることをうしなったのではないか、と思うのであ る。 宋がおかれた国際環境 ( 金という異民族王朝からの圧倒など ) のわ るさがそうさせたともいえるが、ともかくも華 ( 儒教文明 ) と夷 ( 非儒教世界 ) の区別をはげしく立て、華を重んじ、夷をいやしん じようい だ。尊王攘夷というのは、宋学・朱子学のことばである。 清王朝のつらさは、みずからが異民族であるということだった。 しゆっじ しかし夷としての出自をにがく噛み殺しつつ、懸命に儒教化した。 それだけに、他の夷に対して酷薄であったかのようである。すくな くとも、夷であるモンゴル人がどのように苦しんでいようと、それ れんびん に対する人間的憐憫というものは、当時の儒教の感覚にはなかった よ , つに思える。