特に東京のそれが、上地価格の上がり下がりに翻弄されているか、お分か りになると思います。 8 身に発した問いの答えを見つけるためです。 実行に移すことにしました。目的は、ロンドンの街づくりを学ぶことと、私自 事業凍結で何もすることがなくなってしまったこの機会を利用して、それを 存分ロンドンの住宅街を散策してみたいと思っていたことです。 圧倒されて、機会があったら、団体旅行の一員としてではなく、一人で思う 現場から現場へ移動するバスの車窓から見たロンドンの住宅街の美しさに ドルフ、パリの住宅開発現場巡りをした時に芽生えたある欲求です。それは、 層住宅及び住宅地開発調査団」の一員としてロンドン、ベルリン、デュッセル もうひとつが、 1994 年 11 月末に日本建築センター主催の「ヨーロッパ中高 るために、ロンドンのタウンハウス巡りをしていたことです。 ガーデンヒルズの設計で壁に突き当たった時、それを乗り越える方策を考え そこで思い出したのが、私たちの事務所の創業者である圓堂政嘉が広尾 知らず、徒手空拳であることに気づきました。 ころが、自分の胸に手を当てて考えてみると、そのことについて、私が何も うにつくっていくかの構想をもって、その方策を考えなければなりません。と 価格を低減する手法や、何世代もかけてかたちづくられる街の景観をどのよ ならないかも知れません。また、東京のマンション価格の 6 割を占める上地 発展させてきたマンションの基本的な仕様・設備にまでメスを人れなければ によるコストダウンだけでは済まされません。それまで事業者と一緒に進化・ 立てなければなりません。そのためには、無駄を省くことや仕様を落とすこと 得済みの高い土地価格を前提に、一般のサラリーマンの手に届くものに仕 しかし、抜本的な計画の見直しを迫られることは必定です。少なくとも、取 事業がたとえ再開されたとしても、一設計者ができることは多くありません。
ない一般のサラリーマンでも、大都市の中心市街地に自分の住宅をもっこと ができるようになりました。 ング・プロジェクトの大半がストップした理由です。いかにマンションづくりが、 見直すかの決断を迫られたのです。これが、私たちの事務所が抱えるハウジ 各事業者が、着工を先延ばしして様子見をするか、抜本的に事業計画を だけでなく、それらの負債まで抱え込むことになります。 に工事段階に進めれば、その当時売り出し中の物件の売れ残りによる負債 り明らかです。不動産事業者は、これから着工する物件をスケジュール通り 値で売り出すことになるこれから着工する物件が売れ残ることは、火を見るよ 0 ノし 買い控えに走りました り出し中の物件が売れなくなったのです。更に高 た人たちが、その余波で自分の仕事がどうなるだろうかと不安視して一斉に リーマン・ショックが起こった時、これからマンションを購入しようとしてい の光景です。 画を立てては、それを実行に移そうとしていました。まさにいつか見たバカレ 格設定でも売り切れると強気の姿勢を崩さず、売れ残りリスクが高い事業計 のです。それでも各事業者は、まだまだ販売が好調であったので、高い価 ました。国上交通省がバブル崩壊後に打った施策の薬効がなくなっていた いつのまにか一般のサラリーマンの手に届かないものをつくるようになってい ていました。各事業者が、マンション開発を競い合ううちに、その閾値を超え、 映して、後から売り出すものほど高い販売価格で売らざるを得ない状況になっ 右肩上がりの土地価格の高騰と毎月 1 % を超える建設資材価格の上昇を反 起こった時には、更にそれが加速し、各事業者の建てるマンションの価格が、 ていた土地価格が底を打ち、再び上昇に転じました。リーマン・ショックが が中心市街地の希少なマンション用地を取り合い、バカレ前の水準に戻っ ところが、この優遇策でマンション開発に旨みが出たのか、多くの事業者
- 茎 9 宝 0 」ロ 小さなテラスド・ハウスが建ち並ぶ集合住宅開発のパースペクティヴ・ドローイングです。おそらく不動 産事業者が販売促進のためにつくったパンフレットの挿絵でしよう。表通りに沿って同じフアサードの住 戸が続きます。各住戸の裏側には住戸間ロと同じ幅で奥行が深い庭 (Back garden) が付いています。 屋根から数本ずっ煙突が突き出ているのが戸境壁のあるところです。 ハウス & フラツツ
スカーズディル・ヴィラズ 30 のところにあるスカーズディル・ヴィラズ (ScarsdaleVillas) を写したものです。 右頁の写真は、ハイ・ストリート・ケンジントン駅から歩いて 10 分ぐらい 黄煉瓦積みとスタッコ塗り が楽しい街です。 ンドンは、そうした日本の街並みとは対照的な街並みが展開するため、散策 せん。敷地ごとにそれぞれ好き勝手に意匠を施した住宅が建ち並びます。ロ も同じように見えます。それでいて統一された建築様式があるわけではありま それに比して日本の住宅街は、通りごとに個性をもっことが少なくどの通り 街並み景観が展開します。 状の路地まで名前が付けられていて ( 29 頁参照 ) 、それぞれに個性が異なる 次の交差点までの一区間だけしかないような延長の短い通りや、行き止まり ンで街並みが統一され、それぞれに名前が付けられています。交差点から ことがよくわかります。ロンドンの住宅街は、通りごとに特徴的な景観デザイ ロンドンの住宅街を散策すると、街が通り (street) を中心に展開している 街並みの景観デサイン ーっの不動産開発事業者が一体開発したことを物語っています。 ロンドンの住宅街では、タウンハウスとその前の通りを
各ユニットの共用玄関が取り付きます。通りから見た外観も、テラスド・ハ ウスが 3 ~ 4 階建であるのに対して、フラツツが 5 ~ 8 階建に変わっただけで す。テラスド・ハウスもフラツツも 2 戸 1 を 1 ユニットとして展開しますので、ユニッ トの展開の仕方も基本的に同じです。そのため、それによってできる街のか たちは、テラスド・ハウス時代のそれをそのまま踏襲できます。 この 2 戸 1 型フラツツの登場は、高集積型住宅開発が可能になり、ロンド ン市民にとって、「中心市街地の住宅に住む夢」が身近になったことを示すも のでした。しかし一方で「庭付き住宅に住む夢」が遠のいたことを意味するも のでした。 ロンドンのフラツツの多くで、どの住戸にも専用庭が付いていないにもかか わらず、「ガーデンズ」 (Gardens) と謳い、あたかも専用庭が付いているよう な名前が付けられているのを見かけます。それはそこに住む人々に「庭付き 住宅に住む夢」をせめて名前だけでも実現したかのように見せかける、不動 したた 産事業者の強かな販売推進戦略の一つなのでしよう。 共用玄関ポーチ。玄関扉欄間に このユニットの全住戸の住居表 小 'lverna Gardens No. s 21-30 ' カゞ 掲げられている。 2008 年 12 月。 28
れらのプロジェクトが再開されるのか、それともそのまま中止になってしまう のか、先行きが全く見えなくなりました。たとえ再開されたとしても、これま で以上に工事費のコストダウンを迫られるのは明らかでした。そうしたコスト 縮減圧力の中で、設計者として、マンションづくりにおいて絶対に確保し守 り続けるべきものをしつかりとつかんでおかなければならないと思いました。 その時に思い出したのが、広尾ガーデンヒルズが当初のタワーマンション 案から現状の高層マンション案に大きく事業方針が変わった時に、圓堂が 新たなデザイン方針の拠り所を求めてロンドンのタウンハウス巡りをしていた ことです。私もそれに倣って、圓堂が遺してくれた写真のタウンハウスの 30 年後の姿と、広尾ガーデンヒルズで圓堂がねらっていた真の意図を確認する とともに、ロンドンのタウンハウス巡りをすることで、住宅づくり、街づくりを 考え直してみようと思い立ちました。 左頁の写真は、圓堂が遺してくれたファイルの最後の頁にファイルされて いたものです。生前の圓堂は、私には怖いばかりの存在でした。時空を経て、 彼が初めて見せてくれた優しさを示す思いがけない贈り物です。 声一 , ミにに 広尾ガーデンヒルズ。設計 : 圓堂建築設計事務所、三菱地所株式会社一級建築士事務所。左 : 竣工時、 円 86 年二川幸夫撮影。右 : 2013 年筆者撮影。写真提供 : ェンドウ・アソシェイツ マルケス・ロードの猫
彼が許可する「ビルディング・リース (Building Lease) 」は、「年単位の借 地と交換に、契約期間が満了するまで住むあるいは貸すことができるもので、 その後、開発された上地とすべての建物は元の上地所有者の手に返す」とい う契約でした。この契約システムは、後に契約期間を 42 年 ~ 99 年として「リー ス・ホールド (LeaseHold) 」と呼ばれ、この開発手法の根幹をなすものにな りました。 イギリスが 1898 年に清朝と結んだ香港の租借地の契約が、 1997 年に返却 する 99 年間の「リース・ホールド」契約であったことを考えると、ロンドンの 17 世紀後半から続く不動産開発事業で培った知恵が、海外の植民地経営 の場でも活かされていたことになります。イギリス人の強かさと知恵の豊かさ 法が、「街区あるいは街全体を単位とする都市化」を可能にしました。人口 こうしたタイプの投機は、不動産の細分化を防ぐ効果があります。この手 不動産の細分化を防ぎ街並みを形成する を垣間見る思いです。 ジョージアン・スタイルの「エステート」の実用化を促進し、効率優先主義 の解決と上地の有効利用を目的に、大地主とディベロッパーが手をつなぎ、 が 10 倍に急増したジョージ王朝時代には、住宅の大量供給という大命題 ゝ レクサム・ガーデンズ Lexham Gardens Kensington, London W8 6JN @EarIs Court カドガン・プレイス Cadogan Place London SWIX 9RS éKnightsbridge イ 2
には 800 万人。ジョージ王朝時代のⅡ 6 年の間に 10 倍もの急膨張です。 開発手法の根幹「リース・ホールド」 この急激な人口増加に呼応し住宅の大量供給を支えたのが、ディベロッ パーの手になる集合住宅「エステート (Estate) 」の開発手法です。ロンドン のディベロッパーは、前章でお話しした 1666 年のロンドンの大火 (The Great Fire) のすぐ後に、復興の街づくりを効率的に行うために誕生した不動産開 発の専業事業者です。ロンドンのディベロッパーは日本のそれと異なり、自 ら建設工事も行います。その当時、上地の大半は王族・貴族らの大地主が 所有していました。集合住宅を建設するためには、まず彼らからその建設用 地を取得しなければなりません。しかし、大地主は虎の子の上地を売却して しまえば、その後の生計の手段を失うことになり、権力の礎も足元から崩れ てしまいます。そこで考案されたのが、土地をもつけれども不動産開発能力 がない大地主と、その能力をもつけれども肝心の開発の種地をもたないディ べロッパーが手を組んで行うこの開発手法です。 この手法の原形は、 1661 年サウサンプトン伯爵 (Ear1 southampton: シェー クスピアのパトロンであったといわれる ) によって、彼の領地カレームズベリー (Bloomsbury : 現在、大英博物館のあるエリア ) で提案されたものです。 2 田 0 年 8 月。 戸を見分ける術がありません。 ければ、他人の住戸と自分の住 中腹に書かれた住居表示がな 式円柱でできています。円柱の ものです。どの住戸も、ドーリア ランス・ポーチを正面から写した カドガン・プレイス 35 号のエント イ 0
この通りは、 1714 年 ~ 1760 年のジョージ I 世及びジョージⅡ世時代に流行っ たアーリー・ジョージアン (EarIy Georgian) のテラスド・ハウス (Terraced house) の家並みが続きます。 このスタイルは、産業革命による商工業の発展と海外植民地の成功でロン ドン市民が小金をもつようになり、それを誇示することにお金を出す余裕が でき始めた頃の様式です。それまでのロンドン産の黄煉瓦をただ積み上げた だけの簡素なデザインの住宅に飽き足らなくなり、少しでも自分の住宅を豪 華に見せようと、黄煉瓦積みの上に、一部 ( 外壁基壇部、パラベット、窓の 化粧額縁など ) にスタッコ塗りの化粧をし、あたかも石造住宅のように見せる ことが流行りました。スカーズディル・ヴィラズはこの様式でまとめられ、ジョー ジアン・タウンと呼んでもよいほどです。前章のアイヴァーナ・ガーデンズ、前々 章のアイヴァーナ・コートがヴィクトリアン・スタイルの「赤い街」であったの とは対照的に、この通りは「黄色い街」です。 通りとタウンハウス このように通りごとに街並みの景観デザインが統一され、タウンハウスの各 住戸の住所に通りの名前が付けられているのは、ロンドンの住宅街が、タウ ンハウスとその前の通りを一つの不動産開発事業者の手で一体開発されて きたことを物語っています。このタウンハウスとその前の通りとの密接な関係 は、市街地マップ ( 29 頁、地図参照 ) でもうかがい知ることができます。 スカーズディル・ヴィラズは、「ヴィラズ」が付くようにテラスド・ハウスの名 前がそのまま通りの名前になっています。アイヴァーナ・コートもアイヴァー @EarIs Court MarIoes Road, Kensington, London W8 6LA マルローズ・ロードのテラスド・ハウス éHigh Street Kensington Kensington, London W8 6PP Scarsdale Villas スカーズディル・ヴィラズ 32
はじめに 本書は、一建築設計者が、ロンドンの住宅街を歩き回って考えたことを記 したものです。 本のタイトルにもなっている「ロンドンのタウンハウス巡り」をするようになっ たのは、 2008 年に起こったリーマン・ショックがきっかけです。当時、私た ちの事務所で抱えていたハウジング・プロジェクトで、確認済証を取得し着 工できる段階まで進んでいた案件が 6 件、そのうち 5 件がリーマン・ショック の余波を受けてストップしました。それを免れたのは、上地価格の高騰の影 響を受けていなかった建替え案件の 1 件だけです。あとのすべてが分譲マン ション案件です。そうなったのは、その当時、各不動産事業者が既に売り出 していた分譲マンションが急に売れなくなったからですが、このことが私の足 をロンドンに向けさせました。 バカレ期の行き過ぎた不動産投機のせいで上地価格が高騰し、一般のサ ラリーマンが、大都市の中心市街地の新築住宅を購人することが難しくなり、 中心市街地が、昼間は働く人がいるけれども夜は住む人がいない街に変貌 したことはご存知のことと思います。 この不健全な街のかたちを改めるため国土交通省の打った施策が、「共 同住宅の共用通路等の容積率不算入制度」「住宅地下室等の容積率不算 人制度」「市街地住宅総合設計制度」「都心居住型総合設計制度」などです。 いずれも共同住宅の開発に限っての優遇策です。 マンション価格は「上地取得価格」と「建設コスト」の足し算ですが、これ らの施策は、都市計画で定められている容積制限の取扱いを他用途建物の 開発より優遇することで、マンション価格のうちの上地価格の占める割合を 減らし、マンション価格の低減を狙ったものです。 これらの施策で、バカレ崩壊後、「失われた 10 年」といわれる日本経済の 低迷で落ち込んでいた住宅開発が活発化し、大都市の中心市街地に雨後 の筍のようにタワーマンションが建つようになりました。そして、土地をもた 6-