材料や仕上げの方法、棟飾りや窓の額縁などの建築表現を見ることで、 ウンハウスがいっ頃建ち、何様式のものかが推測できます。 タウンハウスの建築様式の呼び方 タ ロンドンのタウンハウスの「建築様式」には、外観意匠の類型的表現ごと 88 合です ( 詳細は章末の年表参照 ) 。 時代がエドワーディアン (Edwardian style : 工ドワード王朝様式 ) といった具 (Victorian sty 厄 : ヴィクトリア王朝様式 ) 、エドワードⅦ世 ( 1901 年 ~ 1910 年 ) ジ王朝様式 ) 、ヴィクトリア女王時代 ( 1837 年 ~ 1901 年 ) がヴィクトリアン 年 ~ 1820 年 ) の時代がレイト・ジョージアン (Late Georgian style : 後期ジョー ジアン (EarIy Georgian style : 前期ジョージ王朝様式 ) 、ジョージⅢ世 ( 1760 年 ~ 1727 年 ) とジョージⅡ世 ( 1727 年 ~ 1760 年 ) の時代がアーリー・ジョー 様式 ) 。「ロンドンの大火」以降の煉瓦造の建築様式は、ジョージ I 世 ( 1714 年 ~ 1603 年 ) の時代の王朝名でチューダー (Tudor style : チューダー王朝 ヘンリーⅧ世 ( 1509 年 ~ 1547 年 : 在位、以下同じ ) とエリザベス I 世 ( 1558 例えば、 1666 年の「ロンドンの大火」以前に流行った木造の建築様式は、 建築様式が流行った時代の王朝名を冠した名称です。 ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココといったものではなく、もつばらその う。その呼び方は、私たちが西洋建築史で習う建築様式の名称、ロマネスク、 に名前が付けられています、というより呼ばれていると言ったほうが適切でしょ
彼が許可する「ビルディング・リース (Building Lease) 」は、「年単位の借 地と交換に、契約期間が満了するまで住むあるいは貸すことができるもので、 その後、開発された上地とすべての建物は元の上地所有者の手に返す」とい う契約でした。この契約システムは、後に契約期間を 42 年 ~ 99 年として「リー ス・ホールド (LeaseHold) 」と呼ばれ、この開発手法の根幹をなすものにな りました。 イギリスが 1898 年に清朝と結んだ香港の租借地の契約が、 1997 年に返却 する 99 年間の「リース・ホールド」契約であったことを考えると、ロンドンの 17 世紀後半から続く不動産開発事業で培った知恵が、海外の植民地経営 の場でも活かされていたことになります。イギリス人の強かさと知恵の豊かさ 法が、「街区あるいは街全体を単位とする都市化」を可能にしました。人口 こうしたタイプの投機は、不動産の細分化を防ぐ効果があります。この手 不動産の細分化を防ぎ街並みを形成する を垣間見る思いです。 ジョージアン・スタイルの「エステート」の実用化を促進し、効率優先主義 の解決と上地の有効利用を目的に、大地主とディベロッパーが手をつなぎ、 が 10 倍に急増したジョージ王朝時代には、住宅の大量供給という大命題 ゝ レクサム・ガーデンズ Lexham Gardens Kensington, London W8 6JN @EarIs Court カドガン・プレイス Cadogan Place London SWIX 9RS éKnightsbridge イ 2
当、こ導、、トを 上ー洋を姦第手 いン物 CCID ハムステッド、ホリクロフト・アヴェニューのセミ・デイタッチド・ハウス、 20m 年 8 月。この写真の住宅は、 典型的な 1900 年代初頭のエドワード王朝時代の 2 階建・屋根裏 ( Attic ) 部屋付きのセミ・デイタッチド・ ハウスです。 2 住戸 I 棟建のため、同じ形の切妻屋根 (Gable) 、べイ・ウインドウ (BayWindow) 、ポー チ (porch) がシンメトリーに付いています。 57 セミ・デイタッチド・ハウス
赤煉瓦のヴィクトリアン・スタイル 前頁の写真の右端から中央に写る L 字に折れ曲がった形状のフラツツが、 本章の主役アイヴァーナ・コート (lvernacourt) です。ハイ・ストリート・ケ ンジントン駅から歩いて 2 ~ 3 分。ロンドン名物の赤い 2 階建バスがひっきり なしに行き交うケンジントン・ハイ・ストリートの裏通りに面し、表通りの喧 騒が途切れる住宅街の一角にあります。近くにチャールズ皇太子の居城ケン ジントン・パレスがあることでも分かるように、この地区はロンドンの中心市 街地でも有数の高級住宅街になっています。 このフラツツは、見ての通り、 19 世紀後半のヴィクトリア朝時代に流行っ たヴィクトリアン・スタイル (Victorian style) です。この時代は、産業革命が もたらした商工業の発展と大英帝国の版図の極大化でイギリスが最も隆盛 を極めた時代です。市民が裕福になり、自信をもち、それぞれのアイデンティ ティを大切にするようになった時代です。ヴィクトリアン・スタイルのタウンハ ウスの特徴は、なんといっても赤煉瓦 (Red brick) の使用ですが、この煉瓦 の色がまさにこの時代のロンドン市民の心象を象徴しています。 黄煉瓦のジョージアン・スタイル その前のジョージ王朝時代以前、ロンドンのタウンハウスは、ロンドンで 採れる土で焼いた黄煉瓦 (Yellow brick) でつくられていました。赤煉瓦は、 ロンドン以外の土地で採れる上で焼くことから、鉄道がない時代には運送費 が掛かり過ぎ、たいへんな贅沢品でした。そのため、せいぜい窓の化粧額 赤煉瓦 (Red brick) 20 黄煉瓦 (Yellow brick)o 煉瓦メーカーのカタログより。
アイヴァーナ・ガーデンズ 2 イ が付いた住戸を 3 住戸以上横に繋げた長屋形式のものをそう呼びます。当時、 ラスド・ハウス (Terraced h 。 use ) 形式がほとんどでした。各住戸に庭 (Garden) のジョージ王朝時代に建設されたジョージアン・スタイルの集合住宅は、テ この形式は、ヴィクトリア朝時代になって初めて登場したものです。その前 人口急増 になっています。 そこから共用玄関を通って 1 階の共用リフト乗降ロビーにアクセスできるよう して各ユニットに一カ所ずっ真っ白なスタッコ塗りの共用ポーチが設けられ、 ナ・コート、アイヴァーナ・ガーデンズともに 4 ユニット構成です。通りに面 構成一式を最小ユニットとして、通常、数ユニットを連接させます。アイヴァー 施設を設け、それらの共用動線を介し各住戸にアクセスする形式です。この 置し、 2 住戸間の中央にリフト、その乗降ロビー、階段、シャフトなどの共用 ル (Victorian style) の 2 戸 1 型フラツツです。この形式は、各階に 2 住戸を配 トと同じく 19 世紀後半のヴィクトリア朝時代に流行ったヴィクトリアン・スタイ て 4 ~ 5 分のところにあります。アイヴァーナ・ガーデンズもアイヴァーナ・コー イ・ストリートの裏通りに面し、ハイ・ストリート・ケンジントン駅から歩い イヴァーナ・ガーデンズ (1vernaGardens) を紹介します。ケンジントン・ハ 本章では、前章で紹介したアイヴァーナ・コート (lverna court) の隣のア 真っ白なスタッコ塗りのポーチ よリ高密度・高層化が可能なフラツツ形式の集合住宅が求められたのです。 18 世紀、ロンドンの人口が 100 万人から 800 万人に急増しました。
縁などのごく限られた部分にしか使うことができませんでした。 ところが、ヴィクトリア朝時代には鉄道網の整備により、赤煉瓦を遠方の 産地から容易に取り寄せ、以前より手頃な価格で手に人れることができるよ うになりました。それでも赤煉瓦が、黄煉瓦に比べれば高価で、贅沢品で あることには変わりがありません。そのため赤煉瓦を使うことで、裕福である ことを誇示でき、見た目も華やかになります。小金持ちになった市民は、競っ て住宅を赤煉瓦で飾るようになりました。これが、「赤煉瓦」といえば「ヴィク ゆえん トリアン」と呼ばれる所以です。 ヴィクトリア朝の前のジョージ王朝時代は、大英帝国の発展に呼応し海外 植民地や国内の農村から富と仕事を求めて人々がロンドンに流人し、約 100 年の間に 100 万人から 800 万人に人口が急膨張しました。人々に住宅を供給 するため、大量かつ効率的につくらなければなりません。その成果がジョー ジアン・スタイル (Georgian style) の特徴の一つになりました。このスタイル のタウンハウスは、安価なロンドン産の黄煉瓦を使い、効率的に速くっくる ため、どの住戸も同じ間取り、同じ窓の形となっています。外観を見ただけ では我が家がどこか見分けがつきません。それほど画一的な顔が並びます。 ( 41 頁、カドガン・プレイス参照 ) ヴィクトリア朝時代には、市民がこの画一性に飽きたのでしよう。我が家 がどこかすぐ分かるよう各住戸の外観に個性的な表現を求めました。アイデ ンティティの発露です。アイヴァーナ・コートも外観意匠が画一的になりがち なフラツツ (Flats) 形式でありながら、各住戸の外観がそれぞれ個性的な顔 をもつよう工夫がされています。同じフラツツ形式の日本のマンションが、養 鶏場のゲージのような外観意匠になっているのとは正反対の世界です。 22
集合住宅「エステート」開発手法 土地をもつけれども不動産開発能力がない大地主と、 種地をもたないディベロッパーが手を組んで、 集合住宅の開発手法が考案されました。 ロンドンへの人口流入、住宅の大量供給へ 38 治世の初めに 80 万人だったロンドンの人口が、ジョージⅣ世治世の終わり 外植民地や国内の貧しい農村から職を求める人々が流人し、ジョージ I 世 帰結として、そのおこぼれにあずかるため蟻が蜜を求めて群がるように、海 鎖が起こり、首都ロンドンにその富が集中するようになりました。その当然の が新たな投資を呼び、その投資がまた更なる利潤を生むという正の経済連 きあがった製品の市場としても機能し始めました。そこで生み出された利潤 海外植民地がそうした製品の原料の供給基地として機能するだけでなく、で とで、品質の良い製品を効率的に大量に産み出せるようになりました。また、 それまで手工業に頼っていたものづくりが工場制の機械工業に切り替わるこ 国を凌駕し始めた時代です。産業革命によってもたらされた技術革新により、 の歯車が噛み合い、そのどちらか一方の歯車しかもたない他のヨーロッパ諸 端緒とする「海外植民地経営」というイギリス経済躍進の原動力となった二つ それは、 1760 年に始まったとされる「産業革命」と 1600 年のインド進出を にほぼその原形ができあがりました。 称ジョージアン (Georgian) と呼ばれるジョージ王朝時代 ( 1714 年 ~ 1830 年 ) 現在のロンドンの街は、ジョージ I 世からジョージⅣ世まで四代続いた通
(Hampstead Heath) 駅ができたのが、 19 世紀後半。 1902 年には、地下鉄ノー ザン・ライン (Northern Line) がハムステッドの旧市街地のど真ん中に開通。 この路線は、先に開通した地上鉄道と異なり、サークル・ラインに直結する ことから中心市街地の繁華街やビジネス街に 20 ~ 30 分ほどで行けます。そ うした交通の便のよさと、直近に自然に親しむことができる広大なヒースをも っ環境も手伝い、人々のあこがれであった「郊外の戸建住宅の生活」を満喫 できる街としてハムステッドは脚光を浴びたのです。この開通を機にヒースを 切り開く住宅開発に拍車がかかったのは当然のことです。 この地下鉄開通時の特需を狙って建設されたセミ・デイタッチド・ハウス が、 63 頁の写真、キヤノン・プレイス (cannon Place) です。ハムステッド駅 から徒歩 10 分ほどの距離にあり、すぐ傍らにハムステッド・ヒースが広がる 好立地です。外観は、その頃流行ったエドワーディアン・スタイル (Edwardian style : 1901 年 ~ 1910 年のエドワード王朝時代の建築様式 ) で仕立てられ、 各棟のフアサードが、戸建て住宅に見紛うばかりのシンメトリーになっていま す。 なぜセミ・デイタッチド・ハウスが人気になったのか 地を購人しデイタッチド・ハウスを建てて住むことは、まさに「夢のまた夢」の きた商工業者などの中流階級の人々にとって、中心市街地のバカ高値の上 による技術革新や植民地経営や貿易などで事業に成功し、新たに台頭して 上地をもつ貴族でなければできないことです。 18 世紀後半以降の産業革命 ロンドンの中心市街地のデイタッチド・ハウスに住むことは、先祖代々の @West Hampstead lnglewood Road, West Hampstead, London NW6 IQT ウ工スト・ハムステッド、イングルウッド・ロードのテラスド・ハウス éHampstead Hampstead, London NW3 IEH Cannon Place キヤノン・プレイス
には 800 万人。ジョージ王朝時代のⅡ 6 年の間に 10 倍もの急膨張です。 開発手法の根幹「リース・ホールド」 この急激な人口増加に呼応し住宅の大量供給を支えたのが、ディベロッ パーの手になる集合住宅「エステート (Estate) 」の開発手法です。ロンドン のディベロッパーは、前章でお話しした 1666 年のロンドンの大火 (The Great Fire) のすぐ後に、復興の街づくりを効率的に行うために誕生した不動産開 発の専業事業者です。ロンドンのディベロッパーは日本のそれと異なり、自 ら建設工事も行います。その当時、上地の大半は王族・貴族らの大地主が 所有していました。集合住宅を建設するためには、まず彼らからその建設用 地を取得しなければなりません。しかし、大地主は虎の子の上地を売却して しまえば、その後の生計の手段を失うことになり、権力の礎も足元から崩れ てしまいます。そこで考案されたのが、土地をもつけれども不動産開発能力 がない大地主と、その能力をもつけれども肝心の開発の種地をもたないディ べロッパーが手を組んで行うこの開発手法です。 この手法の原形は、 1661 年サウサンプトン伯爵 (Ear1 southampton: シェー クスピアのパトロンであったといわれる ) によって、彼の領地カレームズベリー (Bloomsbury : 現在、大英博物館のあるエリア ) で提案されたものです。 2 田 0 年 8 月。 戸を見分ける術がありません。 ければ、他人の住戸と自分の住 中腹に書かれた住居表示がな 式円柱でできています。円柱の ものです。どの住戸も、ドーリア ランス・ポーチを正面から写した カドガン・プレイス 35 号のエント イ 0
ガーデニングや庭で遊ぶことが大好きなロンドン市民にとって、住宅に庭が 付くことは当たり前でした。その当時のロンドン市民も、長屋住まいが多かっ た江戸の町民も、その意識に変わりがありませんでした。 ところが、前章でも述べたように、 18 世紀ジョージ王朝時代に海外植民 地や国内の農村から職を求めて人々が流人し、約 100 年の間にロンドンの人 ロは 100 万人から 800 万人に急増しました。その末期には、ロンドンの住宅 用地が少なくなるとともに、中心市街地の人口が過密になり、各住戸に庭が 付いたテラスド・ハウス形式の住宅開発では、急増する人口に対応できなく なったのです。そこに登場したのが、テラスド・ハウス形式より 1 住戸当たり の開発面積が少なくて済み、より高密度・高層化が可能なフラツツ (F1ats) 形式の集合住宅です。 2 戸 1 型フラツツの登場 テラスド・ハウスは、各住戸内の各階各室へのアクセスを階段に頼ります。 その上り下りを気にせずに生活できるのはせいぜい 3 ~ 4 階建が限度でしょ う。これでは住宅の高層化には対応できません。これを解決するものとして 登場したのが、産業革命の成果の一つである昇降リフトです。これを集合 住宅の共用の縦動線として使うことによって、それまでの主な住宅開発手法 であった住戸を横に繋げるテラスド・ハウス形式の住宅開発のほかに、住戸 を縦積みにするフラツツ形式の住宅開発が加わりました。 フラツツの「通り」に対する取り付き方は、テラスド・ハウスと同じです。テ ラスド・ハウスが「通り」に各住戸の玄関が取り付くのに対して、フラツツは プ @High Street Kensington Kensington, London W8 6TN アイヴァーナ・ガーデンズ 26-