一九 - みる会図書館


検索対象: 一九四六年憲法-その拘束
171件見つかりました。

1. 一九四六年憲法-その拘束

とはいうまでもない。鳩山内閣は、このために法律による憲法調査会の設置をはか る必要があるとの見地から、昭和三十一年 ( 一九五六 ) 二月、憲法調査会法案を国 会に提出した。すでに前年二月に行われた第二十七回衆議院議員総選挙で改憲阻止 に必要な衆議院の三分の一の議席を得ていた日本社会党は、この法案の成立を阻止 しようとして激しく反対したが、同法案は昭和三十一年 ( 一九五六 ) 五月十六日に 成立し、同年六月十一日法律第一四〇号として公布されるにいたった。 しかし鳩山内閣は、在任中に憲法調査会を発足させることができなかった。国会 議員三十人、学識経験者一一十人、全体で五十人以内と定められた調査会委員の任命 に当って、日本社会党に強く参加を要請したにもかかわらず、社会党がこれを拒否 拘しつづけたからである。 そ 鳩山内閣の総辞職後、石橋内閣を経て、昭和三十二年 ( 一九五七 ) 二月に岸内閣 が成立すると、岸内閣は将来社会党委員の参加の余地を残すために、五十人中三十 憲 九人の委員を任命したまま憲法調査会を発足させる方針を固め、同年七月三十日、 九自民党議員十八人、緑風会議員一一人、学識経験者十九人を任命して、調査会を構成 した。調査会が検討の対象として採り上げることにした問題点は、次の三点である。

2. 一九四六年憲法-その拘束

り、伏字は一切許されなかったので、大幅な削除の結果、原文の「一」と「二」が まとめられて、新たに「一」となっていることを指摘しておきたい。引用文中 〔〕を付した部分は、検閲によって削除が行われていることを示す。すなわち、 原文の傍点を付した個所に照応する部分である。 《一新憲法の草案は、昭和二十一年四月十七日に発表せられた。その前に三月六 日に『改正草案要綱』の発表があって世をおどろかしたのであったが、四月十七日 遺の発表は、それが法文化せられたものであった。 憲法の改正ということは、終戦後若干日を経た昭和一一十年の十月頃から問題とな ったのであった。ポッダム宣言の受諾においてそれはすでに胚胎していたところで あった。〔〕はじめ、〔〕一般には、明治憲法の第一条乃至第四条は動かないも のと考えられていたのであって、政府及び民間の各方面から発表された改正要綱乃 年 六至試案においても、共産党の改正骨子とせられるのと高野博士案とせられるのとの 九 例外として考うべきものを除いては、そうであったが、しかし、四月十七日に発表 された『憲法改正草案』ーーそれは新憲法のため改正案として後日議会に提出せら

3. 一九四六年憲法-その拘束

昭和二十一年 ( 一九四六 ) 二月十三日午前十時きっかりに、総司令部民政局長ホ ィットニー准将は、外務大臣官邸に姿を現した。ホイットニー局長に随行したのは、 拘ケイディス陸軍大佐、ラウエル陸軍中佐 、ハッシー海軍中佐の三幕僚である。これ を迎えた日本側の人々は、外務大臣吉田茂、憲法担当国務大臣松本烝治、外務大臣 秘書官白洲次郎、翻訳官長谷川元吉の四氏であった。米軍側三幕僚が共同で作成し、 それぞれ署名した記録によれば、この日の会談の模様は次の通りであったと伝えら 九れている。 このようにして、二月十日に完成された憲法草案は、十二日にマッカーサーに提 出されて、一点の修正を除いてその承認を得た。この一点は、〃戦争放棄条項〃 関するものではなかった。この日のうちに総司令部憲法草案は、謄写印刷にまわさ れた。

4. 一九四六年憲法-その拘束

証しないというホイットニーの言葉は、老首相の脳裡を一時も去らなかったに相違 ないからである。 ところで、ハッシー自身は、昭和二十五年 ( 一九五〇 ) 四月に幣原氏に会ったと き、「幣原は、一九四九年末の新聞記者会見においてマッカーサー元帥が第九条の 作者は幣原であると述べたことによって自分は迷惑している ( ディスタープされて いる ) と語った」 ( 『小委員会報告書』三二九頁 ) という証言を行っている。これは、 幣原首相の置かれていた状況を考えると、はなはだ興味深い証言だといわなければ ならない つまり幣原氏は、外部の日本人には真実を明かせなかったが、彼に共犯 関係を強要した当の総司令部民政局員に対しては、本音を打明けて抗議することが 拘できたのである。 幣原氏はその翌年、昭和二十六年 ( 一九五一 ) 三月十日に、狭心症のため急逝し た。享年七十九であった。死後ちょうど一カ月目に当る四月十日、読売新聞社から 憲 六刊行された回想録『外交五十年』のなかでは、幣原氏は依然として「よくアメリカ 四 九の人が日本へやって来て、こんどの新憲法というものは、日本人の意思に反して、 い総司令部の方から迫られたんじゃありませんかと聞かれるのだが、それは私の関す

5. 一九四六年憲法-その拘束

一文春学藝ライブラリー 思想 1 3 一九四六年憲法 江藤淳 9 7 8 4 1 6 8 1 5 0 4 1 0 江藤淳 ( えとうじゅん ) 1932 年、東京生まれ。文藝評論家。慶應義 塾大学英文科卒。在学中の 56 年に『夏目 漱石』を上梓。 58 年に『奴隷の思想を排す』、 59 年に『作家は行動する』を発表し、評論 家としての地位を確立する。『小林秀雄』『成 熟と喪失』『近代以前』などの文藝批評の みならす、『海舟余波』などの評伝、『海は 蘇える』などの史伝も執筆し、『閉された 新語空間』など、米国が作った戦後憲法や 日本の言説空間を鋭く批判する仕事も続け た。 99 年没。 文春学藝ライブラリーラインナップ 思想 近代以前江藤淳 保守とは何か田恆存浜崎洋介編 聖書の常識山本七平 わが萬葉集保田與重郎 ルネサンス経験の条件岡﨑乾ニ郎 天皇論象徴天皇制度と日本の来歴坂本多加雄 ロゴスとイデア田中美知太郎 ナショナリズムと宗教中島岳志 大衆への反逆西部邁 常識の立場文藝春秋」傑作論選文藝春秋編 国家とは何か福田恆存浜崎洋介編 一九四六年憲法・一一その拘東江藤淳 アメリカの影から逃れられない戦後日本。 戦後憲法や日本の言説空間を覆う欺瞞、 さらには戦後知識人の倒錯を鋭く批判し 続けた江藤淳による、『閉された言語空間』 とならぶ「日本戦後論」の代表作。 ( 解説【白井聡 ) IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII 1 9 2 0 1 9 5 0 1 2 0 0 0 旧 BN978-4-16-813041-0 C0195 \ 1200E 定価 ( 本体 1200 円十税 ) 0 「小さきもの」の思想柳田国男柄谷行人編 文春学藝ライブラリー 文春学藝ライブラリーは、 以下の 3 ジャンルに分かれています。 「思想」 = オレンジ 「歴史」 = グリーン 「雑英」 = マゼンダ 文藝春秋 1200 + 税

6. 一九四六年憲法-その拘束

《もし戦争放棄が、単に日本政府による政策の宣言か、あるいは単に憲法前文に繰 入れられた政治的理想の表明であったとすれば、おそらくこれほどの法律的論議を 呼ぶことはなかったであろう。しかし、それは憲法本文の条項に挿人され、日本政 府と国民を拘東する誓約と看做されている。この条項が現在憲法解釈上きわめて困 難で議論の多い問題となっているのは、驚くにあたらないのである》 前章に述べたことからして、ここでマクネリー、ワード両氏が特に問題にしてい るのが憲法第九条一一項、つまり「戦力」保持と「交戦権」に関する主権制限の間題 であることはいうまでもない 一方、改憲の見通しについては、昭和四十年 ( 一九 拘六五 ) 五月、ワード教授が次のように予測している。 《 ( 憲法改正の声が高まり得る ) 第一の場合は、日本の現在の経済繁栄が、何らかの 六深刻な理由により、または相当長期間にわたって中断される場合である。もし経済 九危機緩和の見通しが、政治上、行政上の改革の必要と結びついているように思われ る場合には、積極的な改憲支持の立場をとるのが現在よりはるかに容易になるにち

7. 一九四六年憲法-その拘束

ないばかりか、逆に日本が「攻撃的な脅威となり又は国際連合憲章の目的及び原則 に従って平和と安全を増進すること以外に用いられうべき軍備をもっことを常に避 け」ることを強調している。つまり、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条 約の締結によって、憲法第九条が日本の主権に及ぼしている制限と拘束は、実質上 「国の交戦権は、これを認めない」という最後の一行に縮小された。しかし、この 一行だけには、二つの条約はなんらの影響を及ぼすことがなかったのである。 その後、昭和三十五年 ( 一九六〇 ) 一月十九日、日米安全保障条約は大幅に改定 されて日米相互協力及び安全保障条約となり、同年六月一一十三日の批准書交換によ って発効した。この改定安保条約の第三条および第五条は、それぞれ次のように規 拘定している。 《第三条締約国は、個別的に及び相互に協力して、継続的かつ効果的な自助及び 憲 相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うこと 四 九を条件として、維持し発展させる。

8. 一九四六年憲法-その拘束

戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永 久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交 戦権は、これを認めない》 ( ダグラス・マッカーサー『回想』三〇二—三〇三頁 ) しかしながら、マッカーサー自身によるこの記述は、マクネリー、ワード両教授 によってきわめて信憑性に乏しいものとして斥けられている。その最大の理由は、 マッカーサーによれば幣原が進んで提案したはずの〃戦争放棄条項 ~ が、再三の閣 議を経て二月八日に総司令部に提出された「憲法改正要綱」に全く含まれていない、 拘という事実に求められている。 一月二十四日から二月八日までのあいだには二週間以上の時日が介在し、もしマ ッカーサーの主張する通り幣原首相に " 戦争放棄条項。を採用する意志があれば、 憲 年 この間一月二十九日以後重ねて開かれた閣議の席上でこの件について提案しなかっ 四 九たはずはない。 しかし現実には、既述の通り二月八日に提出された「憲法改正要 綱」は、 " 戦争放棄条項。を含まないどころかその第十一条に「天皇ハ軍ヲ統帥

9. 一九四六年憲法-その拘束

冫工藤淳 ( えとうじゅん ) 1932 年、東京生まれ。文藝評論家。慶應義塾大学英文科卒。在学 中の 56 年に『夏目漱石』を上梓。 58 年に『奴隷の思想を排すム 59 年に『作家は行動する』を発表し、評論家としての地位を確立 する。『小林秀雄』『成熟と喪失』『近代以前』などの文藝批評のみ ならず、『海舟余波』などの評伝、『海は甦える』などの史伝も執筆 し、「閉された言語空間』など、米国が作った戦後憲法や日本の言 説空間を鋭く批判する仕事も続けた。 99 年没。 文春学藝ライプラリー けんぼう 一九四六年憲法 思 1 3 こうそく その拘束 2015 年 ( 平成 27 年 ) 4 月 20 日第 1 刷発行 著者 発行者 江藤淳 飯窪成幸 発行所文藝春秋 〒 102-8008 東京都千代田区紀尾井町 3-23 電話 ( 03 ) 3265-1 幻 1 ( 代表 ) 定価はカバーに表示してあります。 落丁、乱丁本は小社製作部宛にお送りください。送料小社負担でお取替え致します。 印刷・製本光邦 Printed ⅲ Japan ISBN978 ー 4 ー 16-81 41-0 本書の無断複写は著作権法上での例外を除き禁じられています。 また、私的使用以外のいかなる電子的複製行為も一切認められておりません。

10. 一九四六年憲法-その拘束

によれば、ホイットニーはこのとき、「改正案ハ飽クマテ日本側ノ発意ニ出ツルモ ノトシテ発表セラルルコト望マシク万一米側提案カ世間ニ漏レルトキハ甚シキ双方 ノ不為ナレハ秘密保持ニ甚大ノ注意ヲ払ハレ度ク尚改正案ハ総選挙前ニ発表スルヲ 適当トス」 ( 外務省資料『幻年 2 月日の米 (UZÜ) との交渉録』・江藤淳『もう一 つの戦後史』附属史料Ⅲ・ 3 ・傍点引用者 ) と、「更ニ語ヲ継キテ」いったという。 このような状況の下で、幣原内閣は、以後三週間の苦悩に満ちた総司令部民政局と の交渉の結果、ついに三月五日の閣議で、総司令部案を受諾するのやむなきにいた ったことを決意し、その旨を上奏して御裁可を仰いだ。 当時幣原内閣の厚生大臣だった故芦田均氏の『日記』は、この日の閣議の模様を 拘次のように伝えている。 《三月五日 ( 火 ) 晴閣議で松本国務相が二月二十二日以降、総司令部との連日に 憲 六わたる折衝経過を報告して一たん休憩。午後一一時すぎ再開の閣議に白洲次郎氏が英 四 九文の総司令部案十部を手にして出席。総司令部はこの草案を本日中に日本政府が受 諾するか、どうか回答すべきであると要求していると発言した。