人たち - みる会図書館


検索対象: 三国志読本
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1. 三国志読本

4 に 宮城谷仁と義はもとは別れていて、ふたつをくつつけ「仁義」という言葉をつ くったのは墨子でなければ孟子です。仁を甲骨文字に近いもので見ると、人が並ん で立っている。つまり、仁とは人が仲良くする、それも近い人と仲良くしなさいと いうことで、義は遠い人と仲良くする、という意味です。春秋時代には、神への信 仰がやわらぎ、人と人とをつなぐのは神でなく、人そのものであり、その原形は血 胤にある、ということで、家族や同姓を尊んだ。しかし、戦国時代になると国の興 亡が激しくなり、いろいろな姓が併存し、同化する国家形態も生まれ、仁だけでは 通用しなくなり、義が必要になった。孔子は春秋時代の人ですから、仁に崇高な意 味を与えたけれど、戦国時代の孟子からすると、身内への愛情である仁がなければ、 他者への愛情である義がなく、反対に義がない人に仁があろうはずがない。そこで 仁と義は不可分の理念になったんです。 秋山義をきわめることで仁に迫り、義を体現できる人に、多くの人は心身を寄 せる、と『楽毅』には書かれてあり、なるほどなと思った。また軍の組織や戦争の あるべき姿を楽毅が考えるなかで、「礼」という言葉が出て来る。勿論、礼儀作法 の礼ではなくて、もっと高い意味があったというところ。あれも良いね。 宮城谷古来、礼は字宙の原則であるといってよいほど高いものでしたが、孔子

2. 三国志読本

その土の城のように屹立していた人が、この時代にはたくさんいたのです。この 『三国志外伝』に、全員を収容することはできませんが、書きたいと思うのは、や はりおもしろい人だということにつきます。資料を読んでいて、なぜこういう行動 をこの人はしたのか ? 疑問を与えてくれる人に興味がわきます。時代の流れや権 力者になぜ屈しないのか ? なぜこのタイミングで動くのか ? 歴史的にクエスチ ョンを出してくれる人を、書いてゆくことになりそうです。 きよせい 今号 ( 「オール讀物」二〇一二年七月号 ) で取り上げた、許靖という人も、『三国 きよしよう 志』本文ではほとんど触れられていません。従弟の許劭は、曹操の未来を予言した ことで有名ですが、許靖のことはほとんどの人が知らないはすです。彼は従弟の許 劭にいじめられ、なかなか仕官がかなわなかった。しかし、同郷にもかかわらず、 権力者の袁紹のもとにも走らず、曹操にも近づかなかった。最終的に劉備に仕える ことになるまでがユニークです。もし、私がその時代に投げ込まれたとしたら、絶 対に劉備にはっきませんが ( 笑 ) 、後漢の時代に生きた人の主義主張、考え方の代 表的なものがみえてきます。 さきに述べたように、劉備に対しての見方も、『三国志』を書いているうちに、 ちがったものになりました。劉備に従っていった人たちに対する見方も、かってと

3. 三国志読本

ちょ・つじ は桓公の死後に後嗣の一人を擁して乱を起こしている。また『重耳』で書きました ぶん えんそ 献公、恵公、文公に仕えました。 が、晋の閹楚も有名です。彼は寺人披ともいい、 その宦官が、何故、後漢に至って強大な権力を手にすることになったのでしよう か。『後漢書』の「宦者列伝」には、次のような一文があります。 えんじん ちゅ - っこ - っ 〈中興の初め、宦官ことごとく閹人を用い、また他の士を雑調せす〉 中興の初め、とは光武帝の時代です。閹人とは、一種の受刑者、去勢された人た ちを指します。つまり、この時期、普通の士人が排除されました。皇帝や皇后のま わりは特殊な人々だけしかはいることの許されない、独立した世界となったのです。 さらに時代を追うにつれて、宦官の人数は増えていきます。後漢の初め、永平年 しょ - っこうもん ちゅうじようじ 間 ( 五八 5 七五年 ) には、宦官のトップである中常侍が四人、その下の小黄門が十 人と決められていましたが、延平元年 ( 一〇 , ハ年 ) には制度が変わり、中常侍がな 志んと十人、小黄門二十人と倍以上に増えます。 なぜ、そうなったのかというと、皇帝が若く、未成年であったりまだ幼君であっ せっせい 劉たりするとき、前の皇后、すなわち太后が政治を司る。これを摂政といいます。 操しかし、皇帝が在位中は、皇后のまわりにいるのは女官と宦官だけで、行政を行 いうだけの官僚機構は備わっていません。急に摂政として政治を行おうと思っても、 えんべい

4. 三国志読本

“くってきたわけで、その流れで考えると、『三国名臣列伝』となります。けれど、 そんけんそんさく 『三国志』の名臣というと、最初から曹操、孫堅、孫策、孫権、劉備などに従って いる人と、つねに寄り添っていた人ばかりになってしまいます。そこから外れて行 動していたり、あるいは歴史的には悪役になっている人たちは、その世界に入って こられません。 ところが、細かくみていくと、その人たちの話もおもしろい。歴史の本流から外 れている人たちでも、独自の光を放っている人たちというのはたくさんいるもので す。全員をすくいあげることはとても無理ですが、少しでも拾いたいという気持ち で、単行本の第 , ハ巻目から、付録の小冊子という形をとり、外伝を書きはじめまし た。それに、さらに本腰を入れるため、「オール讀物」で『三国志外伝』として、 連載をはじめることにしたのです。 じつはこれがまた、大変な作業です ( 笑 ) 。ひとり、またひとりと調べなおして いるのですが、各人の個人史を書いているようなものですから、資料集めだけで時 間がかかります。資料をどう組み立てるかも難しく、ひとりを書き上げて、すぐ次 の人へというわけにもなかなかいきません。 それでも、『三国志』の資料は充実させたし、自分に知識が増えています。本文

5. 三国志読本

生き方をしていたわけですね。ここで面白かったのは、中国における隠者のあり方 といいますか、隠者という存在が、ある意味たいへんに尊敬されていることでした。 きょゅう 宮城谷務光という人を出しましたけれども、それ以前にも、例えば許由という 人物などもいます。位を譲られると聞いて、いやで逃げてしまう人です。そうした かたちの政治批判というか、現政権を認めない人は逃げるという思想が中国にはあ るんですね。 しゆくせい ほんとうに隠遁する人は、山へ逃げるんです。伯夷・叔斉でもそうなんです。山 というのはいわば聖域でして、王権の及ばない空間です。そういう考え方は古くか らありまして、孔子もずいぶん隠者たちと会って、彼らから批判されてますよ。あ なたは、要するに無駄なことをやっている、現実化できないことをしつこくやって るに過ぎないと手厳しくやられる。それはある意味で大変に洞察力に富む批判でし て、さっき申し上げたように、儒教は王権とか権力に利用されやすい考えでもある んですよ。 隠者の存在は各時代にあって、頭の切れる人が多いし、個性の強い人が多いから、 おか 隠者でありながら有名になってしまう人がいる ( 笑 ) 。あれが可笑しいですね。 あらわ 世に隠れようとしてるのに、世に顕れてしまう。 むこう

6. 三国志読本

388 アメリカ文学はロが渇く 宮城谷藤原先生は、若い頃にイギリスやアメリカなど、英語圏にお住いになら れていましたね。それゆえに日本語の大切さや、日本人を成り立たせていることは 何かとお考えになったのではないですか。 藤原私の思考の根本はやはり母国語にあります。私はアメリカに行けばアメリ カ語、イギリスに行けばイギリス語を話しますが、発想や情緒の原点が日本語にあ ることはゆるぎません。たとえ外国に十年、二十年いても、そこは変わらないと確 信しています。 宮城小学生から英語を使えるようにして、国際人を育もうなどとよく〔われ ますね 藤原英語ができるだけで国際人になれるのなら、これほど簡単なことはありま せん。国際人とは人間としてどこの国に行っても信頼され、敬意を払われる人だと 定義した場合、アメリカやイギリスで出会った人で、国際人と呼べるのは数パーセ ントに過ぎません。もちろんみんな、英語はペラベラで、私よりはるかに上手です。

7. 三国志読本

て、日本人はみな最低限の礼儀を身に付けている安心感があります。ところがアメ リカには「型」がありませんから、本当に礼儀正しい人がいる一方で、ひどい人も たくさんいるというように、その差が激しいですね。 借り物文化 宮城谷マイケルさんと話していて、川端康成の『名人』という小説を思い出し ました。筆者が、上野から軽井沢に戻ろうとする際、マグネット式の携帯用の碁盤 を網棚に置いたら、向こうからアメリカ人がっかっかと寄って来て、「それ、碁盤 でしよう」と一言う。「よくおわかりになりましたね」と返すと、「一石願いましょ う」といって、汽車の中で対局をするというエピソードがあります。 え マイケルそこで、「私」がアメリカ人の碁の打ち方について、結構辛辣な見方 見 儷をしていますよね。「手答えがないのだ。張り合いがないのだ」「無邪気で素直な弱 さ」「気合いがない」ですとか。囲碁のファンの方でも、この小説を読んで、「欧米 碁人は碁ができない」と解釈する人がよくいます。 『名人』は、一九三八年に行われた名人引退碁の観戦記を小説にまとめたものです

8. 三国志読本

なお話でした。いま作家って、若い人たちにすごく人気があるんですよ。なりたい 人が多いんです。 宮城谷そう ? 宮部ええ。でね、どんなものを書きたいんですかと聞くと、わからないんです よ。ただ作家になりたい。漠然と、ステイタスが高くて、自由気儘にできてカッコ 、そう見られているみたいです。 宮城谷おおいなる誤解だなあ。みゆきさんにはわかってもらえるだろうけれど、 私は作家になりたいという人に会ったら、百人に百人、やめなさいと忠告しますね。 宮部私も、失敗したら人生を棒に振ってもいいというぐらい、やむにやまれす 書きたいと思うのでない限り、やめなさいって言います。 宮城谷作家というのは、なりたいからなれるものじゃないです。 宮部そうですね。作家になりたいんですという真剣なお手紙なんかもらうと、 こ、つい、つことをするといいかもしれないとい、つお返事はしますけど、じゃあ、それ で作家になれるかというと、それはわからない世界ですね。ですから、あなたが天 才でも、もしかしたらなれないかもしれないですって、付け加えることにしてるん ですけど。

9. 三国志読本

に囚われて、反発ばかりしていたので、出会いを素直に受け止められるようになっ たのは、最近になってからですが。 宮城谷若い頃は「人の言うことなんか簡単に信じられるか」といった不遜な精 神状態になりがちです。ところが、人間は生きていくうちにさまざまな物事を知り、 人と出会い、良い経験もつらい経験も積んでゆきます。 そ、つこうするうちに、ある人の言葉や、書かれた文章が理屈抜きに「正しい」と、 しんによ ストーンと腑に落ちる瞬間が生じます。これが仏教で言、つ「真如」なのでしよう。 仏教には、小理屈をこねずに、ストレートに「る」ことを重視するところがあり ます。それができる人とできない人との差は大きい。疑うことで真理を追究すると い、つこともあるでしよ、つが、一方で、「これが正しい」と思ったら、まっすぐに自 分の中に入れてしまう度量のあるほうが、大きく成長するに違いありません。 たいこ、つ・は・つ マイケル宮城谷さんの小説の主人公もみなそうです。太公望も孟嘗君も楽毅も 光武帝も旅をし、人と出会いますよね。国同士が争う中、他国で見聞を深めながら、 知識や学問だけでなく、人間としてプラスに成長していきます。春秋戦国時代であ れ、三国志の時代であれ、今と違って、生きていくだけで大変な時代です。その中 にあって、苦労して頑張っている主人公たちこそ、異国に来た私の人生の模範にな

10. 三国志読本

成長していったようなところがあります。変にロ出ししないことが、不思議と人を 伸ばしていくのですね。要するに人を活用できたのです。 日本に置き換えてみると、劉邦という人物は徳川家康的な人物のような気がしま す。項羽はあえて置き換えれば織田信長的な人物かとも思うのですが、信長のほう が人を活用することができたし、レベルはずっと上ですね。ただ、信長は、柴田勝 家や羽柴秀吉に、「お前はあそこに行って勝手に戦ってきなさい」なんて、絶対に いいません ( 笑 ) 。 でも、劉邦はまさに「お前がすきにやってこい」なんですよ。自分を絶対に裏切 らないと信じているがゆえに、どっしりと構えている。この劉邦の度量の大きさは すごいと思います。人の話に耳を傾けることも含め、勝つ人の重心というのは、こ 代んな感じで低いですね。私は負ける側の人間のことも書いてきたから、それがよく 動わかります。 激 ある学説によると、劉邦を助けて最後まで裏切らなかった家臣団というのは、す 邦 べて、劉邦の出身地である沛県付近の出身者ばかりです。たとえば劉邦を裏切り、 かんしん 鹿斉の王として自立した韓信という将軍は、同郷の人間ではありませんでした。劉邦 はさまざまな局面で人を活用はしましたが、結局、最後に信用した人間は、故郷の