はおあこ たんせい すこし窶れているが、顔のつくりがいたって端整だ。目も鼻も口も耳も頬も顎も、それぞれがき わめて上品なうえに、美しく調和している ひとみ 与四郎がさらに驚いたのは、女の瞳が、あまりにも黒く冴え冴えとしていたからだ。 女が、こちらを見ている 目と目が合った。 こお そのとたん、与四郎は、凍りついた。 きり 黒い瞳が、強烈な光の錐となって、与四郎の網膜を刺し貫いた。女の眼光は、いままでに見たこ あ とがないほど鮮烈であった。その女は、与四郎かいままでに逢ったどの女とも、はっきり違ってい る。 驚いた与四郎の呼吸がったわったのか、背中を向けていた父がふり返った。 しょ・つ 扉を開けてあたりを見まわし、与四郎を中に招じ入れた。 「この女は、大切な預かりものだ。しばらくここに閉じこめておくが、 「どなたからの預かりものですか 父は、与四郎の執拗な性格を知っている。答えなければ、さらに興味をもつだろうことも分かっ ているはすだ。 みよしながよし かわやたけの 「革屋の武野だ。三好長慶殿からの注文の女ゆえ、ゆめゅめ、よこしまな考えを起こしてはなら ぬ」 いまいちど女を見た。 与四郎は、 背筋を伸ばしてすわった女は、じぶんが売り物にされているというのに、し やっ 0 0 4 も - つま′、、 たごん けっして他一言するでない 、ささかも卑屈なとこ 370
闇に、女のうごく気配があった。 こちらにちかづいて来る。 手が、与四郎の膝にふれた 女がとなりにすわった。寄りそって、与四郎の肩にもたれた。心細いのだろう。 与四郎は女の手をにぎった。やわらかくすべすべした手だ。いまは見えないが、とてもうつくし い手だと、与四郎は知っている。かたちのよい爪は、鮮やかな桜色をしている。 しばらく、寄りそったままじっとしていた。白檀のやさしい香りがする。 女が頬を寄せてきた。 また、じっとしていた。 月の明かり。海に波はない。舟は来ない どちらからともなく、顔をちかづけ合った。唇をかさねた。 この世のものと思えないほど、やわらかく甘い唇であった。 ゆっくりそっと、かさねていた。 それから、おそるおそるロを吸った。 女も与四郎にこたえた。 こゞ、に、むさばり合った。 どれほどの時間、唇を求めあっていただろう。 あっちをさがせ、ここにはおるまい、頭に叱られるぞ 外に、人の気配がした。四、五人か 、そんな声が切れ切れに聞こえた。町の雇い侍たちである。 与四郎は、女の肩をひとっ強く抱いてから立ち上がった。 401
与四郎は、土間の砂地に松明を立てた。 女は、火を見つめている。与四郎は、なにも一言えない。しばらくのあいだ、二人でじっと火を見 つめていた。 大勢の足音がした。十人か、あるいは、何十人かいるかもしれない。武者たちが苫屋を囲んでい る。な四郎は、脇差を手に身がまえた。 いきなり、板戸が開いた 武者が入ってきた。 のど 与四郎は、女の喉に脇差をつきつけた。 「来るな。出て行け」 武者がロもとをゆがめた。 「やめておけ。もはや逃げられぬ」 ここで死ぬ。出ていかねば、女を刺す」 「逃げるつもりはない。 与四郎は、本気である。こんな優美な女を、三好の妾にさせるものか 武者は後すさり、戸口から出た。 与四郎は、脇差を女から離し、頭をさげた。 「もうしわけない 日本のことばで謝った。 女はかたい顔のままうなすいた。 ことづて 「よく聞け。わしは頭だ。武野殿からの言伝がある」 さっきの武者が、開いたままの戸口の前でしやがんでいる。 404
女に小袖をさしだすと、うなずいた 与四郎は、小窓を向いてすわりなおした。 からくれない 衣ずれの音がした。韓紅花の高麗の着物を脱いだのだろう。しばらくして向きなおると、小袖を 着ていたが、やはりしどけない 「ご無礼」 、んりもと 与四郎は、一礼して、着付けを直した。襟元をととのえ、きちんと帯を結び直した。顔が襟に近 うろた かぐわ づいたとき、甘く芳しい香りがして、与四郎は狼狽えた。 髪は東ねて後ろに垂らした。その姿もまた、ひときわ優美であった。 女は、膝をそろえて正座した。蔵のなかで、下女たちがすわるようすを見ていたのだろう。 与四郎は、両手をついて頭をさげた。 女も、手をついて頭をさげた。 「もう、火はおっかいなさいますな。漁師が気づくやもしれません」 「わかった」 「握り飯と水を持ってきました。なんとかご無事で」 竹の皮の包みと竹筒があった。 「ありがたし」 出て行く佐吉を、与四郎は手を合わせて拝んだ。 きぬ 394
出来の良し悪しをたずねられた与四郎は、うなすかすに答えた。 「悪くありません」 しょ・つさん 紹區が、眉をひそめた。すばらしい侘びぐあいだと賞賛されるのを期待していたらしい 「ふん。おまえなら、もっとおもしろく出来るというのか」 これより美しく削ってまいります」 「はい。 与四郎は、帰って茶杓の竹を選んだ。 茶杓のまんなかよりわすかに上に節がくるように竹を切って、たんねんに削った。 その茶杓を持って、また紹屋敷を訪ねた。 茶杓を見て、紹がうなった。しばらく声がなかった。 みにくじゃま 珠光の時代には、竹の節は、醜い邪魔なものとして切り捨てられていた。 紹は、それを端ちかくにつかうことで、侘びをかもしだした。 そうあんふう きせん 与四郎は、大胆にも、節を真ん中よりすこし上にもってくることで、草庵風の侘びに毅然とした 品格をあたえた。 節を残すなら、与四郎が削った場所にあるのが、いちばん美しい。それより、ほんのわずかに上 でも、下でも落ち着かない。その位置こそが、有無をいわせぬ緊張感のある美しさをつくってい る。 長い時間、茶杓を手に見つめていた紹鵰が、ようやくつぶやいた。 : これは、端正だな」 しんぐ その茶杓は、もはや茶の粉をすくう道具ではなく、茶の湯をつかさどる神具にさえ見えるはず と、与四郎は自負していた。 まゆ こな 372
やがてうごかなくなった。 与四郎は、転がっている茶碗を拾うと、もう一服、毒入りの茶を点てた。点てているうちに手が 小刻みに震えてきた。 一息で飲むつもりで茶碗を手にした。 ロの前に持ってくると、手がさらに震えた。震えはしだいに大きく強くなった。 止めようとしても止まらない うすちゃ なかの薄茶がこばれた。 どうしても、茶碗がロに運べない。ロも寄せられない 茶碗のなかの茶がたくさんこばれた。 それでも、止まらない。 さらに腕と全身が震え、茶碗を取り落とした。 わななきがこみあげてくる。 こんせん おえっ ふがい 涙と鳴咽と恐怖と怒りと不甲斐なさと憎しみと絶望とが渾然と混じり合い、与四郎を揺さぶって 与四郎は、倒れた女に突っ伏した。 突っ伏して、女に覆いかぶさり、大きな声をあげてはげしく号泣した。 出奔騒動の二日後、与四郎は、武野紹鷸の屋敷を訪ねた。 おお 息が荒くなり、手が激しく震えた。
鑑識眼は凡庸ではない。 すぐに入門を許さなかったのは、もうすこし茶人としての資質を見てみたかったからだ。 「あの女が、わしからの預かり物だと、与四郎は知っておるのか」 与兵衛かうなすいた。 「武野様からのお預かりものゆえ、けっしていたずらなこころを起こすなと、釘をさしておきまし たのに・ それを知っているのなら、無茶はするまい 紹のなかに、あの女を与四郎に、見せびらかしたい気分がなかったかといえば、はて、どうだ ろう。与四郎が、あの優美な女にどう反応するかは、ちょっとした見ものだと思っていた。 紹鵰は、与四郎のいかにも利発そうな顔を思い浮かべた 去年の秋だったか、この屋敷に来て、どうしてもなにか手伝わせてくれという。 もみじ 庭の掃除をさせてみると、苔に散っていた紅葉の葉を一枚も残さすていねいに掃き清めた。それ ものかげ で終わりかと物陰で見ていると、木をゆすって、ほどよいくらいに紅葉の葉を散らした。なかなか できる芸当ではない。 やまいこ - っこ - っ 「与四郎の茶の湯も病膏肓だな」 もちろんじぶんも、相当な重症である。 ととや あせみず 「なみたいていではございません。魚屋商売など利が知れておりますのに、わたしが汗水流した稼 ここと ・はじし J - っふ・つ ぎをすべて茶の湯につぎ込む勢い。まことに困じ果てております。小一言をいいましても馬耳東風。 せんあみ これも、父千阿弥の血とあきらめております」 ・あ一しかが ど・つぼ・つしゅ・つ 与兵衛の父千阿弥は、足利将軍家に仕える同朋衆だった。 つか かせ 362
「チンジジャップスセョ 同じことばをくり返した〇 しゅぬ 女は、小さくうなすいて、朱塗りの膳にそえた匙を手に取った。残さすすべて食べてくれた。 それから、女の食事のしたくは、与四郎の仕事になった。 琉球人の家に行き、さらにいくつかの料理を教えてもらった。 蔵の入り口で、布巾をかけた膳を女子衆にわたすと、な四郎は、短い時間、金網越しに女を見 せんけ ついている女子衆が、韓紅花の着物を洗い、湯浴みもさせている。どう見ても、千家の人々にか ふせい しすかれている風情であった。 そんなふうにして二、三日すごすうちに、与四郎のうちで、女への想いがしだいに大きくふくら んだ。 恋か : まさか、と、与四郎は首を振った。 さんざんな放蕩をへたな四郎である。女などは、くだらぬ生き物だと思っている 名物の茶の湯道具を恋い慕って夢に見ることはあっても、もはや、女ごときに恋い焦がれると は、思っていなかった。 しかし、与四郎の脳裏で、しだいにあの女が大きな場所をしめるようになっているのはまちがい 食事を運んだとき、土蔵の入り口から女をしつかり見つめてたすねた。 ふきん 3 引
ちゃしやくけす 静かな夜であった。与四郎は、じぶんの四畳半の座敷で、茶杓を削っていた。 茶杓は、節の位置がいちばんむすかしい。節がなければ、すっきりしすぎて物足りない。櫂先に かたんきりどめ ちかければ邪魔だし、下端の切止にちかすぎてはあざとく見える。与四郎は試行錯誤をかさねて、 大胆にも、これぞ、という場所を見つけだしている。 こがたな 小刀を手に、竹屑を散らしていると、押し殺した人の気配が見世のほうからした。 いまごろ、なんだ。 もう夜はすいぶん更けているというのに、大きな荷をはこんできたらしい。見世からはしりを通 って、内庭にやってくる。 ながもち よしど 葭戸を透かして見ると、店の者が二人、前と後になって、大きな長持を運んでいる。手燭を持 どぞう った父与兵衛が先導して、庭の奥の土蔵にしまうのだろう。 千与四郎 与四郎 ( のちの利休 ) 十九歳 天文九年 ( 一五四〇 ) 六月某日 泉州堺の浜 てしよく 力いさ 368
紹の招き あの奔放な若者こそ、この座敷の、最初の客にふさわしい はかまかたぎぬ 堺中の茶の湯の数寄者が、この席に招かれることを望んでいる。与四郎も、新しい袴も肩衣も用 意して待ちわびていたはずだ。 さて、あの男、なんとするだろう あらわれるか、それとも逃げつづけるか。 与四郎がまこと茶の湯の数寄者ならば、女ごときのことで、わしの招きを断るはずはあるまい それとも、茶より女を選ぶか この新しい四畳半の最初の客になる機会は、生涯でたった一度きり。 与四郎は、それを断るような馬鹿ではあるまい。この紹鵰が、与四郎を招きたがっていると知れ 、かならすや、姿を見せるであろう。 ことづて こ・つさっ 辻に高札を立てて、知らせよう。立ち寄りそうなところに言伝をさせよう。侍たちにも言わせよ う。まだ、堺の町にいる。茶の湯の招きは、きっと伝わる。 そう考えると、紹は満足して、茶を点てた。 いんえい しろてんもく さらに薄暗さを増した四畳半の座敷に、白天目のすっきりした陰翳がかそけくこころに響く。 かんが たそがれ 淡くほのかな黄昏の残光のなかで、紹鵰は、閑雅をこころゆくまで味わい、茶を喫した。 0 0 367