しょ・つず 「貴人の茶の湯上手はもちろんのこと、どんな人を招き、招かれ、同座するにしても、名人のご うやま とくに敬わねばならぬ。道具の目利きの正しさより、そちらのほうがよほど大切ではないか」 たしかにそのとおりだと、 いまは思う。ただ、気づいたのが遅すぎた。 きざ もうひとつ、こころに刻んでいる利休のことばがある ・つわさ 「古い名物の目利きや、ほかの茶会の噂などはけっしてするな。それが嫌みなくできるまでには二 十年でもおよばない」 宗二が利休を師匠と仰いでから、そのときでさえ二十年近くたっていたが、どうやらまだ茶人と して未熟すぎるらしい。それは、利休の悲しそうな顔を見ればよくわかった。 こうやさんちつきょ 宗二は、利休の教えを胸にしまって、高野山で蟄居した。 そののち、関東に下って、北条の茶頭に雇われたのである。この城に来て二年がたっ ふうふん 秀吉が、湯本に置いた本陣には、利休もいるとの風聞が伝わってきている そう思えば、こころかざわめいた。 ・つしなお 櫓に、小田原城主北条氏直が上ってきた。宗二は茶を点てた。 うすちゃ ろうしようせん タ焼けに映える海を見つめながら、氏直は、ゆっくり薄茶を味わった〇これからの籠城戦につ いて、覚悟を思い定めているらしかった。 「よい茶であった」 ごぜんへいふく 氏直が立ち上がる直前、宗二は御前に平伏した。 「お願いの儀がございます。わたくし、ひさしく師匠の利休居士と顔を合わせておりませぬ。聞き ますれば、湯本の陣におるとかどうか : : : 」 最後まで聞かす、氏直は立ち上がった。 あお 0 0 0 208
鑑識眼は凡庸ではない。 すぐに入門を許さなかったのは、もうすこし茶人としての資質を見てみたかったからだ。 「あの女が、わしからの預かり物だと、与四郎は知っておるのか」 与兵衛かうなすいた。 「武野様からのお預かりものゆえ、けっしていたずらなこころを起こすなと、釘をさしておきまし たのに・ それを知っているのなら、無茶はするまい 紹のなかに、あの女を与四郎に、見せびらかしたい気分がなかったかといえば、はて、どうだ ろう。与四郎が、あの優美な女にどう反応するかは、ちょっとした見ものだと思っていた。 紹鵰は、与四郎のいかにも利発そうな顔を思い浮かべた 去年の秋だったか、この屋敷に来て、どうしてもなにか手伝わせてくれという。 もみじ 庭の掃除をさせてみると、苔に散っていた紅葉の葉を一枚も残さすていねいに掃き清めた。それ ものかげ で終わりかと物陰で見ていると、木をゆすって、ほどよいくらいに紅葉の葉を散らした。なかなか できる芸当ではない。 やまいこ - っこ - っ 「与四郎の茶の湯も病膏肓だな」 もちろんじぶんも、相当な重症である。 ととや あせみず 「なみたいていではございません。魚屋商売など利が知れておりますのに、わたしが汗水流した稼 ここと ・はじし J - っふ・つ ぎをすべて茶の湯につぎ込む勢い。まことに困じ果てております。小一言をいいましても馬耳東風。 せんあみ これも、父千阿弥の血とあきらめております」 ・あ一しかが ど・つぼ・つしゅ・つ 与兵衛の父千阿弥は、足利将軍家に仕える同朋衆だった。 つか かせ 362
軒下の刀掛けに、腰の大小を掛けた。 小さな潜りの戸が、ほんのわずかに開いている。手をかけると、板戸は思いのほか軽くすべっ こぶし た。両の拳をつき、ぐっと躙って入った。 なかはおだやかに明るい四畳半の席である。ふたつの障子窓が、やわらかい光をつくっている。 朝の光があまりに清浄で、ただそこにいるだけで、からだの芯まで清まりそうだ。 正面に床がかまえてある。 」よ・つ 軸は、五言の四行。 こくうたちましろしよう 虚空忽ち白を生す 虚空忽生白 ここんたれふくぞう 古今誰覆蔵古今誰が覆蔵す こちゅう 壺中天地を別て 壺中天地別 しつげつれいこう 日月発霊光日月霊光を発す むらさきのそうちん ぜんぼうず どうやら、神坊主の偈頌らしい。見れば、紫野宗陳と名が書いてある。信長の葬儀を仕切った 大徳寺の長老だ。 「虚空たちまち白を生す : : : 」 のきしたかたなか そんなことを思いながら、手拭いをつかった。 ′ 4
野菊 階段に足音が聞こえた。 こしょ・つお ト姓に負ぶわれた男が、摘星楼に上がってきた。小姓が、背中の男を、しすかに畳におろした。 っちろうゆうへい あいぞ もめんこそで まるすきん 男は、藍染め木綿の小袖を着て、白い丸頭巾をかぶっている。むかし、何年か上牢に幽閉されて ひざ いたことがあって、脚を傷めた。膝が曲がらなくなっているのだ。歩けないその男を合戦につれて いくために、秀吉は輿を用意してやった。なによりも、その男の知恵を借りたかった。 男は、両足を横に投げ出したまま手をついて頭を下げた。 「お呼びでございますか」 ちそう 「なに、茶を馳走しようと思うたばかり。ゆるりとくつろぐかよい」 ゅおと 座敷のすみにしつらえた黄金の台子には黄金の釜がかかり、かろやかな湯音を立てている。 「ありがとうございます」 くろだかんべえ 軍師黒田官兵衛は、茶の湯が嫌いである。秀吉はそのことをよく知っている。 ま とこ きん - はく、は 秀吉は、金箔貼りの床の間を背負ったままたずねた。 そのほう、なぜ、茶の湯を嫌っておる。悪いものではなか 「あらためて訊いたこともなかったが、 ろう」 たずねられた官兵衛は、すわりのよい大きな鼻と、ぎろりとした大きな目を、秀吉にむけた。 じゅっこう 官兵衛は、ことのほかよく頭のまわる男である。秀吉が熟考をかさねて導きだしたのと同じ判 断を瞬時にくだすので、驚かされたことがなんどもあった。軍師官兵衛の才智を、秀吉は信頼して いる すきしゃ 「そのこと、茶の湯数寄者の上様に、いちどは申しあげたいと思うておりました」 「ふん。茶の湯など、わしは好いておらぬが、まあよい。そのほうが嫌うわけを申せ」 0 あし 9
もうひとりの女 じびあみ そこは、堺のいちばんはすれで、漁師たちが、大きな地曳き網で魚をとる浜だ。 湊のそばばかりでなく、堺の町なかや濠の外にも、千家はあちこちに地所や家作、田地をもって いるが、さて、そんな町はずれに納屋があったかどうか たえは、聞いたおばえがない 「わたしもそう思っていたところです」 宗恩がうなずいた。 どうやら、ふたりの女たちは、たえの知らない宗易のなにかを知っているらしい 打ちひしがれた気持ちで、たえは、女たちの話を聞くしかなかった。 けつきよく、宗恩の家に上がり込んだ。 座敷は掃除が行きとどき、庭の苔が美しい。 のどうるお 宗恩が、じぶんで冷えた麦湯をはこんできた。喉を潤すと、おちょうが口を開いた 「今朝は、きっとあそこにいらっしゃいます」 おちょ、つのことばに 、たえは首をかしげた。 「なぜ、そんなことがわかるの」 「なせって、理由なんかありません。そんな気がするんです」 「わたしもそのような気がいたします」 こだち 庭の空を見上げて、宗恩がうなすいた。木立のむこうに朝日が顔を見せて、空はあわい水色に晴 347
三毒の焔 るための仏道であり、行である。 「大徳寺長老たちのなかで、いちばん法力の強い者は誰かな」 秀吉がたすねた。長老一同が首をかしげた。 「さて、誰でございましような」 しゅんおくそうえん ていねいに頭をさげて挨拶したのは、最古老の春屋宗園である。 禅坊主に、法力などあるものか 宗陳は、腹のなかで思っている。 いや、どの宗派の僧にしたところで、法力などありはすまい それは、人間のおろかさにつけこんだ坊主の騙りの類である。法力と称して寄進を得るむさばり にほかならない そう思ったが、なにくわぬ顔でいた。 よもやまばなし どのみち、法要のあとの四方山話だ。目くじらを立てる必要はあるまい 秀吉の視線が宗陳の顔で止まった。 「そのほうなら、法力強く、母者の病気もすぐに本復させてくれような」 秀吉のことばに、宗陳はうなずいた。 うなすいたが、さて、返答に困った。嘘をつきたくはない 「さようでございますな。懸命に努めさせていただきます」 ことばに力がこもらなかった。 いちおう肯定はしたが、 「なんだ、歯切れの悪いことをいう。そのほうくらいに行を積んでおれば、鬼神も逃げ出すほどの 法力があるであろう」 223
死を賜る ひでよし やかた かんはっ こうおん 間髪をいれす、轟音が天地をゆるがした。聚楽第のまんなかに建つ秀吉の三層の館のあたりだ。 おび 身をすりよせてきた。 怯えた宗恩が、 齢をかさねても、この女は、不思議なほど枯れす、やわらかな肌をいつもあまく薫らせている。 「わしは、あやまらんぞ」 むろん、秀吉の話だ。 「それでよいな」 なにごとにせよ、利休が念を押すのはめすらしい 「そうなさるだろうと思っておりました」 「おまえや子どもたちにも、累がおよぶやもしれぬ」 けんぞく はり・つけ げつこう ちかごろ、秀吉は激昂しやすい。利休の眷属の端にいたるまで磔にせよ、と、わめき出さぬと はもか」らユない いのちご 「もとより承知でございます。関白様に命乞いなさるお姿を見るくらいならば、いっそ、わたく しも殺されたほうが、よほど気が休まります」 きしょ - っ 妻の気丈さがありかたし 口にはせす、深くうなすいた。宗恩は、わすかな首のかしげ方や目 のうごかし方だけで、利休のこころの奥まで読みとってくれる。 さと・つ いんとん 「この期におよんで、頭を下げるくらいなら、とうの昔に茶頭などやめて、どこぞに隠遁しておっ た。それをせなんだのは : : : 」 あの禿げ鼠に、美というものの恐るべき深淵を見せつけてやりたかったからだ。 下司男めが かんばく カ かお
死を賜る めか わしが額ずくのは、ただ美しいものだけだ。 美の深淵を見せつけ、あの高慢な男の鼻をへし折ってやりたい 秀吉の茶頭となって、そう思い暮らすうちに、あっという間に九年がすぎた。 そのあげくが : 利休は首をふった。 ぐち おろ 愚痴はこばすまい。あんな下司な男にかかずらったじぶんが愚かだったのだ。 あいいろ しつこく 雨はしとどに降りつづいているが、漆黒の闇に、かすかな藍色がにじんでいる。新しい日がはじ まろ、つとしている。 「おたずねしてよろしいでしようか」 宗恩の声が、いつにも増しておだやかだ。 「なんだね」 たすねたいと言ったくせに、宗恩はことばをつづけなかった。 「なんでも訊くがよい」 「はい・ やはり、言いよどんでいる。 「どうした」 ぼんのう カカ 「女人というのは、どうしようもない煩悩を抱えた生き物だと存じます」 「みようなことを言、つ」 「みようでございますとも。それでも、わたくしは、あなたにおたすねしたくてなりません」 「なにを、かな ?
野 わもの くろ - つるし 床畳には、白い和物の天目茶碗が、黒漆の台にのせてある。 茶碗のなかには、仕覆にいれた茶入がはいっている しぎかたっき 鴫肩衝という名物茶入だけに、利休が、そんな飾りかたをしたのだ。 にしり・ぐち せんす 小姓の手をかりて躙口から席にはいった官兵衛は、扇子を前に置き、両手をついて、床の絵を いつぶく 拝見している。その一幅がかかっているだけで、室内に静かな風がそよぐほどの奥行きが感じられ る。 官兵衛の目が、床畳の白天目に落ちた。じっと見ている。 こそで 小袖のふところから懐紙を出すと、はさんであった野菊の花を一輪、天目茶碗のなかにいれた 茶碗のなかの茶入の前に、すっとおさまったのが、秀吉にも見える そうだ。それでいい のぞき見ている秀吉は、はなはだ愉快になった。利休が、点前の途中で、あの野菊のあっかいに 困るだろうと思えば、それだけでもう笑いがこみ上げてくる しようきやく 針屋と天王寺屋の手をかりて、官兵衛が正客の席にすわった。 さど・つぐち 待つほどもなく、茶道口がひらき、利休が顔を見せた。とり澄ました顔で、いんぎんに辞儀をし ている。秀吉は、もうおかしくてたまらない ししようたけの めんつう 立ち上がった利休は、左手に面桶を持っている。白木の曲げ物の水こばしで、利休の師匠武野 しょ・つおう みすや 紹のころは、裏方の水屋でつかっていたのを、利休が茶席でつかうようになった。 まったくあの男ときたら。 秀吉は、舌を打ち鳴らした。 しぎかたっき 床の絵にしても鴫肩衝の茶入にしても、 いたって格式の高い名物である。 0 0 0 199
きわめて清浄な気韻が境内に満ちている。 ろ こそで ざっくりとした絽の小袖の胸元を、穏やかな風が吹きすぎていく。 ここが極楽か 浜につづく松林をながめ、秀吉は、ふと、そう思った。 うるわ 腹の底から麗しい気持ちがわきあがってくるのを、しみじみ味わった。 不思議なことだ。 利休のしつらえる茶の席にすわると、どういうわけか、そこはかとない生の歓びが、静かにこみ あげてくる。 さど・つ しかない。 ほかの茶頭がしつらえた席では、こうは、 ただ四本の細い柱を立て、茅を葺くだけのことなのに、利休が差配すると、屋根のかたむきも、 のき 軒のぐあいも、席から見える風景も、じつにしつくりと客のこころになじみ、すわっているだけ 0 で、いまこのときに生きていることの歓びが、しっとり味わえる ほかの茶頭がしつらえる席と、なにがどう違うのかはわからない あるいは、利休を身びいきするばかりに、そんな気がするだけなのかもしれない いや、そんなことはない。 秀吉は首をふった。 なにかかちがう。利休の茶の席は、どこかがはっきりと違っているのである 湯 の しかし、さて、それがなんなのか、よくわからない べ秀吉は、むこうを見やった。 どうあん 同じ境内に、利休のむすこ道安が建てた茶の席がある。 よろこ 0 253