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検索対象: 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』
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1. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

第一章落日の漢帝国 人に肩人れしただけの可能性が高い。現に史書はその理不尽さをこう伝える。 しゅうひっ 彼らは汚職官吏を一掃し、さ 董卓は実権を握ると、周毖と許靖に人事を司らせた。 , ちんき りゅうたい まざまな人材を抜擢した。荀爽・韓融・陳紀をとりたて、韓馥を冀州牧に、劉岱を こうちゅう ~ 兌州刺史に、張咨を南陽郡太守に、孔仙を豫州刺史に、張遞を陳留郡太守にした。 彼らは着任するや、董卓に反旗を翻した。董卓は「なんで俺が裏切られなきゃいか んのだ」と激怒し、周毖を処刑した。許靖は逃亡した。 このようにして生した反董卓同盟のなかから、のちに曹魏や孫呉を構成する人びと が台頭し、その子孫のもとで諸々の史書は著わされた。よって史書に董卓を賞賛する 言葉が少ないのはとうぜんである。 ⑥邪教粛正 : : : 董卓は村祭中の民を殺したとされる。それは悪逆な董卓像を後押しして いる。だが当時の法律では、かってな民間祭祀は禁止であり、そもそもその村祭りが 合法的なものであったのかや、故事の信憑性自体にも疑問が残る。 ⑦長安遷都・ : 董卓は洛陽から長安への遷都を強行し、洛陽は灰燼に帰し、膨大な飢民 ちょうし かんふく ちょう・は ~ 、 かいじん

2. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

よしよう きたのであろう。ちなみに叔父の諸葛玄が豫章郡太守に就任したときには、諸葛瑾をとも なっていない。それゆえ、諸葛瑾はそのころに自立し、江東へ向かったとわかる ( 内藤一 八九七 ) 。一九四年以前のことである。 一方、諸葛亮はそのころ十歳未満で、叔父の諸葛玄の庇護を受け、豫章郡へ向かってい る。諸葛玄の豫章郡太守拝命は、袁術の命であったとも、劉表の命であったともいわれる。 しゅこう しゅしゅん だが、後漢中央政府はそれに反発し、朱皓 ( 黄巾の乱で活躍した名将、朱儁の子 ) を豫章郡 りゅうよう 太守として送り込んできた。結果、揚州太守劉絲の助けを借りた朱皓が勝利した。さらに 建安二年二九七年 ) 正月に、諸葛玄は西城で住民に殺害された。 では、諸葛玄が殺害されたとき、諸葛亮はなぜいっしょに殺害されなかったのか。諸葛 玄は、逃げる途中、平素親交のあった荊州牧の劉表にいったん身を寄せており、どうやら りゅう 諸葛亮はこのときから別行動をとっていたらしい。現に、諸葛亮がそののちに居住した隆 しようよう 中は、荊州襄陽の近郊に位置する。なお当時の隆中の場所をめぐっては論争があるが、と もかく襄陽近辺であることはたしかである。 その後、諸葛玄の首は劉緜に届けられた。諸葛亮にとって劉緜は叔父の仇となった。ま た劉表は諸葛玄を見殺しにしたも同然の存在である。もし叔父を豫章郡太守に任命したの ちゅう

3. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

州に散在する西域商人集団を統轄していたといわれる。彼らは曹魏と通商関係をもっとと もに、蜀漢との提携も図っていたのである ( 森安二〇〇七 ) 。ただ、まさかサマルカンド から援軍がくるわけがないので、しっさいには涼州などに散在する中央アジア系の人びと が蜀漢に加勢をしたということであろう。安定郡に月支城なるところがあり、この時期に 曹魏にそむいたことが知られているので、彼らはそのあたりにいたのではないか。 おそらく諸葛亮は、蜀漢軍の総数が曹魏軍の総数に及ばないこと、正面衝突すれば蜀漢 軍もただではすまないこと、曹魏軍をできるだけ分散化させて各個撃破すべきことを念頭 に、長安を直撃する作戦 ( つまり魏延の作戦 ) を採用せす、あえて西方への迂回路を選択 し、支富や康植らの援軍の得やすい涼州方面に進出しようとしたのであろう。 また、諸葛亮はひそかに上庸郡の孟達との連繋もすすめた。孟達はもともと蜀漢の武将 であったが、関羽の敗北時に援軍を送らなかったかどで、劉備から怨まれていた。また劉 そうひ 備の養子劉封との仲もかんばしくなく、曹魏側に寝返っていた。曹魏側では文帝曹不にた いへん重んしられたが、曹不の死とともに、その地位に不安を感していた。それをみてと 八つた諸葛亮が孟達に手紙を送り、翻意を促したのである。孟達は優柔不断ゆえ、諸葛亮は 第 孟達との手紙のやりとりを意図的に曹魏側に漏洩し、反乱せざるをえないように仕向けた り・ゅ、つほ - っ 221

4. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

これは、「英雄」の劉備がじつは経 はなく、めくじらをたてて否定するにはおよばない。 済的信用を欠いていたこと、当時二十代の諸葛亮がそれよりも高い信用を得ていたことを 示唆する。劉備の部下にすぎす、まだなんの活躍もしていない諸葛亮が高い信用を有した 理由は、既述のとおり、諸葛亮が琅邪諸葛氏の出身で、荊州随一の閨閥に属し、かっ司馬 徽ら士人から高い評価を受けていたためであろう。それはともかく、劉備は赤壁以後もた びたび資金繰りに頭を悩ませていたのである。 ここで諸葛亮は、適切な助言をする。当時、劉備の支配する人口はそれほど多くなかっ たが、それは荊州に人口が少ないことを意味しない。そこにはしつは無戸籍民がかなり多 くいる。彼らをあらためて戸籍に登録しなおせば、人口は増加し、税収は増える。諸葛亮 はこう助言したのである。 それでは劉備は荊州牧として、民にどれほど尽したであろうか。結論からいえば、劉備 はこのときも曹操打破と漢室再興の大義名分を掲げ、軍団の維持と強化を最優先した。新 野時代の劉備は晁氏の融資をそのまま軍事費に充てている。また赤壁後にあらたに零陵・ 桂陽・長沙の三郡を手に入れた劉備は、その統治を諸葛亮に任せ、諸葛亮はその地の賦税 を軍実 ( 軍事費 ) に充てたという。賦税収入の一部はインフラ整備などにも用いられたは ぐんしつ ろうや

5. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

は酔いつぶれた客の顔を針でさし、本当に酔っているか確かめたなどの伝説があり、一風 変わった人物である ( 晋・楽資『九州記』 ) 。だが一方で、学者たちを庇護し、一大サロン そうちゅう を形成したことでも知られる。宋忠らを頂点とするこの荊州学派は、とくに儒学の面で大 きな学問的成果を挙げた ( 加賀一九六四 ) 。諸葛亮は間近でその学問にふれ、学問を保護 する劉表にも敬意を払ったはすである。叔父諸葛玄は劉表の友人でもあった。 だが諸葛亮は、二十歳を過ぎても劉表に仕えなかった。その一因は、先述したように、 叔父が殺害されたとき、劉表が助けてくれなかった点にあるかもしれない。 また劉表は、 りゅう・はうし ある件で正論を吐いた士人劉望之を殺害したことがあり、それ以降、一部の士人の信望を りゅうよく 失いつつあった。とくに劉望之の弟、劉廩は、身の危険を感して逃亡した。劉廩は司馬徽 にかわいがられた人物で、諸葛亮の兄弟子であった。その事件を目の当たりにした諸葛亮 登 が、仕官にさらに慎重になったことは、十分かんがえられる。諸葛亮と名声を二分した靡 しゅうゆ 亮統も劉表に仕えす、周瑜に仕え、周瑜の死後は劉備へ帰順した。 一方、劉備は挙兵以来、黄河流域と淮水流域を転戦し、幾多の戦功を挙げてきた。だが 章 四最終的には曹操に敗れ、二〇〇年頃に荊州へと逃げてきていた。彼は劉表の居候となり、 対曹操戦線の防波堤として、荊州北端の新野城にとどめおかれた。劉備の支持者のうち、

6. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

のほうに投影されているといえそうである。 しっさいに、諸葛亮の野心をうかがわせる史料はほかにもある。諸葛亮は建安初期 ( 一 もうけん せきと、つしよしよしよなん 九六年頃 ) になると、潁川郡の石韜・徐庶、汝南郡の孟建らとともに遊学した。どこに遊 けいしゅうがくは 学したかは不明だが、おそらく荊州学派の学者である司馬徽 ( 司馬徳操 ) あたりに弟子人 りしたのであろう。荊州学派は劉表のもとに集った学者たちの総称で、学生数は三百余人 きふかい そうちゅう に達し、宋忠らを筆頭とした。『春秋公羊伝』にくわしい棊毋闔や、蔡髦 ( 董卓に加担し おうさん た後漢末の文人 ) の蔵書を受けついだ王粲などもおり、学問内容はじつに多様である。彼 こうてい ) 」キ」ようしようく しようげん らは劉表をパトロンとして『後定五経章句』を編纂し、当時大流行していた鄭玄の学問と は異なる対抗軸を打ち出した。両者は諸経典の通覧を重視する点では共通するものの、鄭 しゆらい 玄がとくに諸経典のなかでも『周礼』『礼記』『儀礼』を軸とするのにたいし、荊州学派は 『春秋左氏伝』を軸とする ( 加賀一九六四 ) 。司馬徽はそのなかでも異端で、宋忠らと一線 りゅうそう を画してはいたが、劉表の子である劉琮の訪問を受けるなど、劉表政権や宋忠らと交流が 皆無であったわけでもなさそうである。また『演義』では、司馬徽は水鏡先生とよばれ、 しようふ 怪しさ満点の隠士として描かれているが、しっさいには後漢王朝の少傅 ( 皇太子の教育 係 ) であったとの史料もある ( 敦煌文書 ) 。おそらく遊学中の諸葛亮はこういった人びと

7. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

職は急上昇し、部下にもそれに準した高い官職を与えうる。逆にいえば、これまで劉備の 、じようていこう 正式な官職は左将軍・領司隷校尉・豫州牧・荊州牧・益州牧・宜城亭侯で、左将軍以上の 官職を配下に与えることはできなかった。ゆえに劉備の配下たちは、みすからの官職 ( そ して給与 ) を上昇させるためにも、劉備を王位にのぼらせる必要があったのである。 ほうぎ きよせい 現に、劉備を漢中王とする推薦状は、馬超・許靖・靡羲・射援・諸葛亮・関羽・張飛・ 黄忠・頼恭・法正・李厳ら一二〇名の連名で、献帝へ上書された。馬超が先頭にくる理由 は、彼のもっ平西将軍というポストが、当時の劉備政権内で最高位であったためである。 一方、許靖以下は、いちおう当時の名声をふまえた序列とはなっているものの ( 田二〇〇 このままでは、長年劉備に付き従ってきた配下も 四 ) 、みなロクな官職についていない。 帝納得できまい。しかも上位者の馬超・許靖らは人蜀以降に劉備陣営に加わった新参者であ るが、官位上は古参の関羽・張飛らをしのぐ。馬超らの官職を貶すことなく、関羽らにそ 王れよりも高い官職を与えるには、劉備陣営全体がそうした高位の官職群を包括しうる構造 漢 に変貌せねばならない。ゆえに劉備は、漢中王・大司馬に即位することで、配下の序列を 六一新し、整理しなおしたのである。 第 その結果、たとえば関羽は前将軍、馬超は左将軍、張飛は右将軍となり、入蜀戦争や漢 へいせいしようぐん しゃえん

8. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

このことをお教えしましよう」といった。これを聞いた麋竺はなんとかならぬものか とこっそり頼んだ。すると女は「焼かないわけにはまいりません。あなたのお宅とは 知りませんでしたが、それなら大急ぎでお帰りください。私はゆっくりまいります。 正午には火がでますよ」といった。麋竺はいそいで家に帰り、家財道具を運び出した。 正午になるとやはり大火事がおこった ( 干宝『捜神記』巻四 ) 。 これは麋竺の金持ちぶりが伝説になってしまうほどであったことをしめす。つぎの伝説 もおもしろい ぎゅうらん うっしゅう 胸県鬱州島の島民はすべて麋竺の農奴の子孫である。同しく牛欄村はもともと麋竺 びろう の荘園・牧場であった。これらの住民は、麋竺を「麋郎」とよんで祭っている。住民 が嫁を取るさいには、必す麋郎の神前でみせてからでなければならない、さもないと たいへいかんうき 祟りをなす ( 『太平寰宇記』海州東海県条『水経注』 ) 。 要するに、麋竺は大金持ちで、のちに神様扱いされるほどであった。 6

9. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

ちなみに麋竺は建安元年 ( 一九六年 ) に、曹操によって贏郡太守に推薦されている。劉 備勢力を切り崩すためであろう。面白いのは、その推薦文にこうある点である。 泰山郡の領域は広大で、古くから乱暴者が多い場所です。一時的な措置として、五つ の県を分離して贏郡を作り、「清廉」な官吏を厳選して守りにあてるのがよろしいで しよう。偏将軍の麋竺は平素から誠実で、文武ともに明らかですので、麋竺を贏郡太 守に任命し、官民を慰撫するようお願い申し上げます。 大金持ちで奴隷を擁する麋竺が、ここでは「清廉」と評されている。現代社会でも、推 ち薦文のたぐいはおおむね美辞麗句をふくむものであるが、それは古代でも同様であったの である。これらの文書をそのまま史料として活用することの危険性は贅言するまでもある 生 の まい。どれほど奴隷から慕われていようとも、奴隷主は奴隷主、奴隷は奴隷であり、この 備 身分差を忘れてはならない。 章 ここまでみてきたように、劉備は徐州牧となってようやく比較的、安定的な経済的・軍 第 事的基盤を入手できた。だが、徐州は彼にとって安寧の地とはならなかった。その一囚は、

10. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

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