もっとも、曹操は守備隊の設置費を省くべく、事前に漢中住民を北方へ移住させていた。 から そのため、劉備が得たのは空の漢中であった。曹操はかって張魯を降したとき、巴中の民 を漢中にうっしたが、彼らも漢中から北方に連れ去られた ( 王二〇一五 ) 。だが、劉備が 曹魏の大軍と正面衝突して大勝を収めたのはこれがはしめてで、この戦争は劉備側にとっ て大きな象徴的意味を有していた。 ほうやど - っ 事態を憂慮した曹操は、みすから大軍をひきいて漢中へ侵攻した。このとき褒斜道を通 こんせつ ほうすい 過した曹操は、石門付近の褒水沿いの巨石上に「褒雪」 ( ~ 衾々と流れ、岩にあたって雪のよ ぼっこん うに散る水流の意 ) の二字を刻みつけたとされ、現在もその墨痕が残る。真偽は不明であ るが、ありえなくはない話である。 では結局、曹操と劉備は漢中の地で大決戦に及んだのかといえば、結論的には否であっ た。劉備が漢中の要害を固めて矛先を交えす、持久戦にうってでたため、曹操は同年夏に キ」よう亠のい 撤退を余儀なくされたのである。長安と漢中をむすぶ道は狭隘な山道で、のちに漢中から 長安へと進軍した諸葛亮は、たびたび食糧難にみまわれた。このことからみると、曹操も 食糧輸送の困難さゆえに撤兵したのではないか。いずれにせよこうして劉備は漢中盆地を 手に入れた。民はおらねども、厖大な農地と住居跡が残された。後日、諸葛亮はここに進 4
である。ただし前述したように、陳倉攻略戦は陳倉の貯蔵食糧の獲得を目的としていたの にたいして、陰平・武都攻略戦は漢中西方の守りを固めることに意図があり、この二つの 戦いは目的を異にしている。その意味では、この二つの戦いはやはり別物であるともかん がえられる。 そもそも陰平・武都には少数民族の白馬羌がおり、曹操の漢中攻略以来、曹魏に服属し ていた。当地の白馬羌は少数で、険峻な山地に位置し、蜀漢にとって脅威とよぶほどの勢 力ではなかったものの、今後、北伐中に手薄な漢中盆地に侵入されても厄介である。現に 白馬羌は、冬には寒さを避け、下山して蜀地方で賃労働に従事し、夏には山上に戻る生活 を営んでおり、漢中の地理にも詳しい。それゆえ、漢中盆地にはしばしば白馬羌がやって きていたはすで、それは漢中の守備にも悪影響を与えたであろう。おりしも諸葛亮は北伐 で実質的に二連敗を喫しており、白馬羌はちょうどよいサンドバッグであった。諸葛亮は この戦に勝利し、どうにかメンツを保っている。 一方、曹魏側も黙ってはいなかった。二三〇年八月にとうとう反撃に出たのである。探 りを入れることを第一目的としたが、あわよくば蜀漢を減ぼすつもりであったろう。曹真 本隊は長安から子午道を進み、上庸の司馬は漢水を溯上し、ともに漢中東部へ侵攻した。 はノ、、・は薯、よう そしよう ち 2
駐して屯田を展開し、北伐に備えてゆくことになる。 漢中王への道 曹操を撃退した劉備は、漢中を手中におさめた。そこで劉備は二一九年七月に、群臣に かんちゅうおうたいしば 推挙されるかたちをとり、漢中王・大司馬 ( 後漢王朝の国防長官 ) に即位した。王は、漢 にじゅっとうしやくせい 代二十等爵制 ( ページ表 2 ) の上、皇帝の下に位置し、広大な土地に封建された者をさ り : ゅ : つほ - っ す。漢中は、前漢王朝の創始者である高祖劉邦が挙兵した地で、漢室再興をかかげる劉備 にとって、神聖な場所であった。ゆえに劉備は、あえて成都や蜀でなく、漢中の王を名乗 ったともいわれる。 帝もっとも、正確にいうと、高祖劉邦は「漢王」と名乗り、「漢中王」と名乗ったわけで 皇 らよよ、。 よって劉備は、必すしも劉邦のマネをしたわけではない。では、なぜ劉備は「漢 カ 王王」を名乗らなかったのか。理由は不明だが、おそらく当時まだ後漢の献帝が存命であっ 漢 たため、直接「漢」を名乗ることを避けたのかもしれない。しかし「漢中王」の称号には 章 六なお高祖劉邦を彷彿とさせる響きがあった。少なくとも「荊州」や「益州」は、漢の行政 第 区分である「州」の名にすぎす、王号に適さない。荊州の古名である楚や、益州の古名で
「隆中対」の再建へ 劉備の死後、諸葛亮は政治の全権をゆだねられた。だが諸葛亮は焦っていた。「隆中 対」の実現はいまや絶望的であった。「隆中対」は荊州・益州の支配を前提とするもので じようよう あったが、関羽敗死後、北荊州は曹魏、南荊州は孫呉に帰属した。上庸郡 ( 北荊州と蜀漢 もうたっ の中間 ) に駐屯していた孟達も、関羽敗死後に曹魏へ降伏した。彼は関羽からの救援要請 を断ったため、劉備に疎んしられており、早々に身の危険を感して曹魏に降ったのである。 ゆえに諸葛亮が直接、北荊州を攻めることは不可能である。 また夷陵の敗戦後は、南荊州を孫呉から奪い返すのも不可能となった。しかも「隆中 対」は蜀呉同盟を前提条件とするが、関羽の敗死以来、蜀漢と孫呉の関係は決裂したまま である。「隆中対」を再建するには、孫呉との関係を修復する必要があるが、南荊州はす でに孫呉のものなので、孫呉との関係修復と南荊州奪還とは両立しない。 けんこう なんばんせいなんい そのうえ「隆中対」では、南蛮西南夷の懐柔も前提条件であったが、建興元年三二三 こうてし えっすい 年 ) にかの地で酋長の雍闔と越嵩夷王の高定 ( もしくは高定元、定元 ) が反乱をおこし、 あるし 雍闔が乱の主人となっていた。雍闔による有形無形の恩恵と、盟誓にもとづく信頼関係は
三一五年 ) 十一月五日、曹洪から報告。さきごろ賊軍を打ち破り、気分爽快で調子 あなた に乗りすぎ、戦果をかなり過大報告してしまいました。九月二十日の ( 曹不からの ) 手紙を得るや、おもわす嬉しくなり、手に取っては飽きることなく眺めています。陳 琳 ( 著名な名文家 ) に返事を代筆させようとしましたが、彼も多忙で、お返事が遅れ てしまいました。 : さて、漢中の地はまことに堅固で : : : 張魯は精兵数万を擁し、 ・ : 中の中程度の才能をもつ者がこの地を守ってお 高所に布陣し、進撃困難でした。 れば、これほどすぐには攻め落とせなかったでしよう。九月二十日に頂戴した手紙で は、張魯が人心を惑わした点と、曹軍が偉大な点にふれておられますが、まことにそ のとおり。 : 張魯は愚中の愚です ( 『文選』 ) 。 曹洪が張魯を撃破した旨を曹不に伝えると、九月二十日に返信があった。それへの再返 信が右文で、率直で機智に富んだ筆致で書かれている。二人の仲はのちに悪化するが、当 時はよかったのであろうか。 曹操は、漢中での大勝利をすぐに各方面へ喧伝した。曹操側の参謀の荀彧はわざわざ孫
第六章漢中王から皇帝へ 漢中争奪戦漢中王への道荊州失陥 曹操の死と後漢滅亡蜀漢の建国蜀漢の制度と法律 夷陵の戦い劉備の死 第七章南征 「隆中対」の再建へ南蛮西南夷の生活と習俗空白の三年間 南征の経路南征の戦後処理 第八章北伐 出師の表北伐の資金源と蜀漢の軍事力第一次北伐 敵兵分散化と多方面攻撃街亭の戦い 一進一退の北伐戦線李厳をめぐる謎五丈原への道 終章大義と犠牲 2 町 241
中争奪戦で活躍した黄忠は後将軍に任命された。もっとも、関羽などはまだ不満があった らしく、黄忠の後将軍拝命にたいして「老兵と同列になどならぬそ」と怒っている。ただ しこれによって古参の人びとは、ようやく高位高官に昇ることができたのである。その反 面、配下の人数と俸禄は大きくふくれあがり、劉備陣営の支出は増大し、民への増税は不 可避であったはすであるが、史書にその内実は明記されていない。 荊州失陥 劉備が漢中王に即位した二一九年七月は、劉備と諸葛亮の人生がもっとも順調なときで あった。はしめて二人が出会ってから、十二年の年月が流れていた。諸葛亮が初対面の劉 備に捧げた「隆中対」は着々と実現化しつつあった。孫権との関係はとりあえすおちつい ており、荊州は曹操・孫権・劉備の三勢力で分け合っている。益州は確保済で、南蛮西南 夷 ( 成都の西南に点在する少数民族 ) も大反乱を起こす気配はない。あとは荊州全域を支 配し、内政に尽力し、好機を待つのみである。 ここで荊州の関羽が動いた。彼は劉備の漢中王・大司馬即位とともに、前将軍に就任し、 名実ともに劉備政権の Z o ・ 2 であった。「隆中対」では荊州の全域支配が必須であるが、 なんばんせいなん
第六章漢中王から皇帝へ 少なく、わすか四〇〇人ばかりの兵とともに、 さかーも」 陣頭に立って南側の鹿角を修理中であった ( 『魏武軍令』 ) 。そこで劉備は、法正の助言に こうちゅう いっきか 従い、将軍の黄忠に命して、高所から一気呵 物成に夏侯淵を急襲させた。 者結果、夏侯淵は斬られ、副将の張部は遁走 した。定軍山付近では現在でも、三国時代の に嵶斌山扎馬釘・鏃・鉄刀などが出土し、往時を偲ば 冖定せる。ちなみに漢中以西の武都郡はなお曹魏 ~ 、 2 の支配下にあり、劉備は配下の呉蘭・雷銅ら ・ ~ ~ 挈な第、写を派遣したが、全減させられた。当時、武都 郡には羌族が暮らしており、一筋縄ではいか なかったようである。武都攻略は諸葛亮の北 : 」伐までお預けとなる ( 駟ページ図 ) 。 ともかくこうして劉備は漢中を手に人れた。 ごらんらいどう
呉へ詳細を喧伝した。それによって孫呉を威圧したのである。 : わが軍が散関に侵入する 鎮南将軍の張魯は、自分の力を過信してつつしまない。 と、氏人の一群はことごとく服従し、その王侯・武将はわが先鋒となった。漢中に至 ると、張魯は陽平関を守らす、十万の軍はもろくもくすれさり、張魯は巴中へ逃亡し た。そしてわが恩徳になっき、罪を悔い、人質を差し出し、投降してきた。巴夷王の そうゆう ・ : 征西将軍の夏侯 朴胡や賓邑侯の杜溲らは部族民をつれ、ともに巴郡を攻略した。 淵は、精鋭五万人と武都の氏羌・巴漢の鋭卒をひきいて浹江にのそみ、庸蜀 ( 四川地 方 ) の喉元にかみついた ( 『文選』 ) 。 の へ これは孫権の配下に宛てた手紙で、「はやく孫権を裏切って降伏しなければ、おまえた 国 建ちも張魯の二の舞になるそ」との脅しである。この手紙によると、ます曹洪らが漢中を陥 蜀 したのち、曹操は悠々と漢中に人城した。そのころ夏侯淵らは張魯を追撃し、巴中付近に 章 五至っていた ( Ⅲペ 1 ジ図 ) 。そこで張魯は、それ以前から友好関係にあった異民族の巴 そうゆう 第 夷王朴胡や賓邑侯杜漢らに降伏を促し、それを手土産として、みすからも二一五年十一月 えいそっ ふんこう
第四章諸葛亮の登場 握りつぶし、職貢をかすめ取り、悪の元締どもを招いて自己の守りを固め、もつばら逆賊 しようひょう どもの主人・巣窟となっております」と上表している。そのあとも劉表のふるまいは変わ らす、荀彧は曹操にこう進言している。河北を完全に平定したあとで、洛陽を修復し、長 江中流域を攻略し、劉表の職貢未納を責めるべきだ、と。 りゅうちんなんひ 一方、劉表の墓碑銘である「劉鎮南碑」にはこうしるされている。 御史中丞の鍾緜を ( 劉表のもとへ ) 派遣した。 ( 劉表は ) 鎮南将軍に任ぜられ、鼓吹と はくふ 大車を賜わり、策命を受けて称賛・崇拝され、伯父 ( 皇帝と同姓の官吏にたいする敬 ちょうししば しゅうしちゅうろう 称 ) と尊称されることとなった。また長史・司馬・従事中郎を配下とし、幕府を開い へキ」しよう て人材を辟召することを許され、格式は三公並みとされた。皇帝 ( Ⅱ献帝 ) はまた、 しゆくしん 左中郎将祝耽を派遣し、 ( 劉表に ) 節を授け、威厳を増加せしめ、交州・揚州・益州 を督 ( 監督 ) させた。 この墓碑自体は現存しないが、墓碑銘は『蔡中郎集』という書物に記録されている。少 し来歴のあやしい史料ではあるが、無視はできない。それによると劉表は、中央から派遣 ぎよしちゅうじようしようよう たいしゃ しゅんいく