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検索対象: 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』
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1. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

言説の掲載ははばかられた。陳寿は諸葛亮の言行録『諸葛氏集』の編纂を主導したのち、 『三国志』を編纂した。よって『三国志』に諸葛亮の善行が多くみえるのはとうぜんであ る。しかも、西晋司馬氏にとって諸葛亮賛美は、諸葛亮を封し込めた西晋の祖司馬の偉 大さを逆に浮き立たせ、また諸葛亮賛美の容認は、西晋の度量をしめし、蜀漢旧地の人心 を落ち着ける手段でもあった。亡国の士人を賛美することで、西晋にたてつく孫呉の士人 に降伏を促し、降伏後の安寧を示唆することもでぎた。劉備と諸葛亮、とりわけ諸葛亮の 同時代人による高評価にかんしては、これらの点をさしひいてかんがえる必要がある。 また、史書をひもとくと、劉備や諸葛亮を批判した記載もけっして少なくはない。しか も右記の諸葛亮を賛美する史料は、往々にして諸葛亮を政治家として評するものであり、 彼の将軍としての評価はほんらいいまいちであった。宿敵司馬も諸葛亮への賞賛をおし まなかったが、それと同時に、「諸葛亮は、志は大きいが機をみるに敏でない。謀 ( 戦略 牲 と 儀立案 ) の才能はあるが決断力にとぼしい。 兵事を好むが権 ( 臨機応変の謀略 ) はない 大ものべている。陳寿も似たような評価を諸葛亮に下している。なお三国時代の文献では、 章諸葛亮を「忠」と評する例もほとんどない ( 渡邉一九九八 ) 。 ちょうほ 終 一方、西晋時代になると、士人の張輔が「名士優劣論」を著わし、曹操と劉備、楽毅と がく」 247

2. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

しかし『漢晋春秋』にも疑問はある。諸葛亮は二月に出陣し、当初は漢中からの食糧を アテにしていたが、のちに上邦で麦を収穫している。よって諸葛亮は、ほんとうは食糧難 に陥っていなかった可能性があるからである。また李厳は当時、諸葛亮の独裁に抵抗して いた。そして諸葛亮が撤退するやいなや更迭されている。李厳は諸葛亮が再起用してくれ ると信していたが、諸葛亮は最後まで彼を呼び戻すことはなかった。これらの点をみると、 李厳がほんとうに任務を怠っていたのかは少々疑わしくもある。 しかも、そもそも李厳に食糧輸送の大役をゆだねたのは諸葛亮本人で、周囲もそれをい ぶかる人事であったらしい。これについて諸葛亮本人はのちに、李厳を満足させるためで あったと弁解しているが、もともと李厳は江州 ( 永安 ) に勢力を張り、巨大な城を築いて 精兵をたばね、北伐のために漢中へ赴くことを嫌がっていた。くわえて、李厳自身は最後 まで罪の意識をいだいておらす、逆に北伐軍内に食糧難など発生していないと主張し、最 終的に偽証の罪に問われた。ほんとうに李厳は、諸葛亮が帰国すればすぐに発覚するウソ 伐 をついたのであろうか。不完全な状況証拠しかないけれども、その背後に諸葛亮と李厳の 八かねてからの対立関係をみてとる研究もある ( 田二〇〇四 ) 。すると、諸葛亮はしつは政 第 敵李厳を嵌めた可能性もあるのではないか。しじつ、これによって諸葛亮に反抗的であっ

3. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

諸葛亮誕生 荊州で「伏龍」や「臥龍」とよばれた早熟の天才は、姓を諸葛、名を亮、字を孔明とい う。一八一年に生まれ、二三四年に五三歳で没した。前述したように、当時の名前の呼び 方は複雑で、君主や両親なら彼を「亮」とよび、同僚や友人なら彼を「諸葛孔明」や「孔 しんりよう 明とよんた。 , 彼自身は、君主の面前では臣亮 ( 臣下である亮 ) と称した。たとえば、あ しんりよう , もう とで紹介する「出師の表、は、諸葛亮から君主に宛てた、まさに「臣亮申す」から始まる 文章の典型例である。このとき彼が「臣諸葛亮」と名乗らす、姓の諸葛を省いた理由は、 漢代以来の規則に従ったためである。それは、中国古代の奴隷が基本的に姓をもたない占 なそら をふまえ、臣下も姓を名乗らす、君主の面前でみすからを姓なき奴隷に擬えるという規則 である ( 尾形一九七九 ) 。 ろうや 諸葛亮とはどのような人物であったのか。『三国志』によれば、諸葛亮は琅邪郡陽都県 の人で ( ⅵページ図 ) 、前漢の司隷校尉 ( 首都圏を統轄し、中央朝廷の官吏を監察する官 ) しよう しよかつけい しよかつほう である諸葛豊の子孫である。父の諸葛珪は後漢末に泰山郡の丞 ( 副長官 ) であったが、 しよかっげん やくに亡くなった。つまり諸葛亮は母子家庭で、叔父の諸葛玄が亮と弟均の教育に携わっ ー 02

4. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

諸葛亮の死 諸葛亮という精神的支柱を失うと、蜀漢の度重なる軍事行動はしばらくのあいだ継続困 難となった。むろん、このような大転換の一因を諸葛亮個人の才にのみ帰することはでき ないが、やはり諸葛亮の統率力には目を見張るものがあった。ほんらいであれば十万人を 常時、軍隊に属せしめ、その家族に不安を抱かせ、じっさいに戦死者を出す北伐をいくど も敢行することは、民の反感を買うこと必至である。にもかかわらす、蜀漢政権はなお一 定の安定性を有していた。 これは、北伐の前提となる諸葛亮の経済政策が周到であったことをしめすとともに、そ の思想統制がいかに優れていたのかを示唆する。ゆえに、諸葛亮が五丈原で没すると、厳 格な思想統制にゆるみが生し、北伐どころか、国内の統治体制も一時的にゆらいだ。成都 では、諸葛亮の死後に民の逃亡もあいついだ。戸籍を逃れ、城内に住むことを拒絶し、周 辺の山々へ逃げたのである。そうした点をみると、諸葛亮の統率力に疑いをさしはさむ余 地はほとんどない。諸葛亮はその能力を使して蜀漢の軍事力の強化を図った。本書でく りかえし論したように、軍事を優先する姿勢は、劉備にもみられるものであった。 242

5. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

こうげん げんちよく 石広元 ( 石韜 ) ・徐元直 ( 徐庶 ) ・孟公威 ( 孟建 ) が学問をくわしくきわめようとした のにたいし、諸葛亮だけは大略を得ることを重視していた。そして朝晩、膝を抱えな がら歌を歌い、三人にむかって「君たちは仕官すれば、州の刺史か、郡の太守になれ るだろう」といった。三人は諸葛亮に、「しゃあ君はどうなんた」というと、諸葛亮 は笑うだけで答えなかった ( 『魏略』 ) 。 登まともに読めば、かなり性格の悪い諸葛亮像が浮かび上がってこよう。それは、膝を抱 亮えて「梁父吟」をうたいつつ、三人の友人を心のなかで小馬鹿にする諸葛亮像である。出 ぎよかん 諸 典の『魏略』は、曹魏の魚豢が著わした書物で、諸葛亮に批判的であるのはとうぜんのこ 四とである。しかし石韜・徐庶・孟建は後日、曹魏に仕官しており、彼らと同し国に仕えた 9 第 魚豢がまったくのウソを書くともおもえない。現に、自信満々の諸葛亮像は『三国志』に に師事して、はばひろく儒家経典に目を通したことであろう。 ここで注目すべきは、諸葛亮がこの遊学期間中に、つぎのような逸話を残している点で ある。

6. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

に憐憫の情を抱いたのか、「晏子の国士宰相としての冷めた知性」 ( 中国文学者・林田慎之 しかし、他人にい -> 、ように操られて死んだ叔父への 助評 ) に感し入ったかはわからない。 悲憤と反発があったとすれば、このとき諸葛亮はすでに策略家として生きていく決意を固 めていたのかもしれない。 もっとも、諸葛亮は後年、「出師の表」 ( 後述 ) において隆中時代の若き自分をこうも回 顧している。 臣 ( 諸葛亮 ) はもともと布衣 ( 無位無官 ) で、南陽で農作業に従事しておりました。 いやしくも乱世において生命をまっとうせんとし、諸侯に名前を広めようとはおもっ ておりませんでした。 場 登 の 亮それによると、諸葛亮が仕官しなかったのは、「乱世のさなかでも、無事に人生を送り 諸 たい」という意思による。これは「梁父吟」を歌う諸葛亮像と矛盾する。しかし、そもそ 四も君主劉禪に奉った公式文書の「出師の表」のなかで、諸葛亮が「自分には以前から野心 第 がありました」との本音を吐露するはすがない。やはり若き諸葛亮の本音は、「梁父吟」

7. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

諸葛亮を比べ、それそれ劉備と諸葛亮に軍配を上げ、さらには将軍としての諸葛亮を高く りくそん 評価した。すなわち、劉備といえば一般に、呂布・曹操・陸遜などに敗れ、戦下手な印象 があるが、曹操もなんども敗れている。もとより英雄の評価はいかに優秀な配下に慕われ たかにかかっており、その点で諸葛亮・関羽・張飛らに支持された劉備はすぐれている。 また燕の楽毅は戦国時代に五国をひきいて一国を討って大勝利を収めた名将であるが、諸 葛亮は曹魏・孫呉に対抗しつつ、巴蜀を取ったのであり、内政・軍事ともに楽毅を上回る、 と。これ以降、劉備と諸葛亮は賛美される傾向を強め、とくに諸葛亮は政治家としてのみ ならす、軍師としても卓越した評価を得てゆく ( 狩野一九七六 ) 。さまざまな政治的背景 のもとで、各時代の知識人層がさまざまな劉備像・諸葛亮像を描くなか ( 田中二〇一五 ) 、 民間ではしだいに劉備らを「善玉」とする雰囲気がつくられる。 しゆき そして南宋時代に朱熹 ( いわゆる朱子 ) が登場し、劉備政権の正統性を全面的に主張す ると、多くの知識人のあいだでも、劉備・諸葛亮善玉論はもはや動かしがたいものになっ てゆく。善玉説への批判も皆無ではないものの、容赦ない反批判が加えられる。こうして うまれたのが、現在の通俗的な劉備像・諸葛亮像である。しかしそれは「作られた言説」 である。 24

8. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

ともあれこれにたいして、曹魏側では司馬が総大将となった。諸将は渭水北岸への布 陣を主張したが、 司馬懿は民の食糧が渭水南岸に蓄積されていることを理由に、南岸に陣 を布いた。つまり背水の陣を布いたのである。そのうえで「諸葛亮が勇者であれば、武功 方面へ向かい、山脈沿いに東進するであろう。もし西進して五丈原に上れば、心配するに は及ばない」と予測した。なるほど、諸葛亮が武功方面へ進出すれば、司馬は南下して 諸葛亮の糧道を断っか、諸葛亮の東進をくいとめるしかなく、そのばあい、背水の陣を布 く司馬懿に退路はなく、両軍は死闘を演することになろう。しかし諸葛亮は、虎歩とよば れる精鋭部隊を斜谷東方の高台に展開して守備を固めさせる一方で、みすからは五丈原に 進出した。ゆえに司馬は、諸葛亮には死闘を演する覚悟がないと察知したらしい。また しゅうとうようすい こしゅんかくわい ほくげん 司馬は周当を陽遂 ( 五丈原の東 ) に、胡遵・郭淮らを北原 ( 五丈原の北 ) に派遣し、諸 葛亮を防がせた。 結果、戦線は膠着した。諸葛亮は五丈原の台地上に軍隊を展開して屯田に従事し、長期 なんばんせいなんい もうえん 戦の構えをみせた。司馬懿も陣営に引きこもった。一一 諸葛亮は南蛮西南夷出身の猛将孟啖を 斜谷の東側 ( 武功水の東 ) にまですすめたが、それ以上、東に進撃することはできなかっ かんざし あざけ た ( 『水経注』 ) 。諸葛亮は司馬懿に女性の簪を贈り、先陣を切って戦わぬ司馬を嘲り、

9. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

されているのか。ここでいまいちど、劉備と諸葛亮にたいする人びとの評価の歴史をふり かえってみよう。 ます驚くべきは、同時代人たちによる劉備・諸葛亮の評価が必すしも低くない点である。 とうし ちょう、いりよがい ほ、つよ - っ 蜀漢出身の陳寿・張裔・呂凱・彭羊水・鄧芝はもとより、他国の人びとからも賞賛されるこ とが少なくない。たとえば曹魏の重臣である劉曄は「諸葛亮は治政に明るい」とし、賈栩 は「劉備は雄才がある」とする。とりわけ諸葛亮は各方面からの評価が高く、孫呉の士人 ちょうげん である張儼なども賞賛を惜しまない。その賞賛の内容をみると、抽象的なものが目立つが、 とくに諸葛亮にかんしては謹厳実直・信賞必罰と評されることが多い。現に、諸葛亮は、 周囲が気遣うほどにましめに働き、過労死に近いかたちで亡くなっている。またその行動 も、当時の士人世界の良識に則したものであった。 こうした、ほぼ同時代の人びとの評価は重要であるが、彼らは社会上層に位置するため、 また当時、士人同士は国境を越えて友情を育んでおり、諸 民意を代表するとは限らない。 しよかっきん 葛亮も曹魏や孫呉の士人と文通し、しかも諸葛亮の兄諸葛瑾は孫呉の重臣、親族の諸葛誕 は曹魏の大将軍である。諸葛亮賛美の世評の背後にはこうした人的交流もある。 はしょ・く、 加えて、劉備や諸葛亮は巴蜀地方の誇りで、旧蜀臣の陳寿にとって、彼らをおとしめる りゅうよう しよかったん 24 イ

10. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

しかし三国志は一般に、歴史の一齣、もしくは歴史に基づく物語とみなされている。そ のため、劉備や諸葛亮にまつわる説話も、高い信憑性をもつものとして受容されやすい 劉備像や諸葛亮像はいつのまにか「常識」となり、「〇〇は孔明のようだ」や、「〇〇と x x の関係は水魚の交わりのようだ」といった言説を生む。また現在中国では、諸葛亮を祀 った武侯祠が林立し、襄陽では諸葛亮文化節というお祭りが催され、政治・文化・観光業 に活かされている。習近平国家主席の講話などでも諸葛亮の言が引用される。その意味で、 三国志の社会的影響力は軽視できない。本書が「史実」にこだわるゆえんである。 いったい何を読みとる それではわたしたちは、本書で論した劉備・諸葛亮の実像から、 下は民衆を べきであろうか。本書では、「賊を破って民を救うべく、「上は国家に報い、 安らかにしたい」と誓い、仁君として崇められた『演義』の劉備像に、疑問符を付した。 また「天下万民」のために出廬した『演義』の諸葛亮像にも再検討を加え、彼の緻密な戦 略を評価しつつも、その独裁者的側面に焦点をあてた。そのうえで蜀漢帝国を、「万民の ハラダイス 天府」としてではなく、軍事最優先型国家として位置づけた。結局、劉備と諸葛亮は漢王 朝再興と曹魏打倒の旗を掲げ、すくなくとも結果的に、民衆に多大な出費と労苦を強いた のである。 しゆっろ ひとこま