夏侯淵 - みる会図書館


検索対象: 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』
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1. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

漢中争奪戦 人蜀後、劉巴の政策をつうして財源を確保した劉備は、 いよいよ漢中への進出を試みる。 でんしゃていしよう ます劉備は、なけなしの資金を用いて、成都から白水関までの道沿い冫 ( こ云舎と亭障 ( 郵便 施設と狼火台 ) を延々四百余も作った。民は大いに疲弊したけれども、そのようなことは おかまいなしである。ますは曹操の南下に備えねばならない。そのうえで益州最高の難所 ともいうべき剣閣・白水関を越えて北上を開始した ( Ⅲ。 ヘージ図昭 ) 。 かこうえん 当時、漢中は曹操の手の内にあり、勇将の夏侯淵が守備に当たっていた。そこで二一八 年に劉備は陽平関に布陣し、夏侯淵とにらみあった。そして二一九年正月になると、劉備 ほうせい ペんすい ていぐんさん は参謀の法正らとともに陽平関から南下し、汚水を渡河して山沿いに東進し、定軍山 ( 標 高七〇〇弱。 写真 2 ) と興勢に着陣した。夏侯淵との決戦が近づいてきた。 さかもギ、 同月某日の夜半、劉備は夏侯淵の陣営の鹿角 ( 木製の。 ハリケード ) に火をはなった。夏 ちょうこう 侯淵は陣営南側を、張部は陣営東側を守備していたが、張部の守備が破られそうになった ため、夏侯淵は急遽みすからの配下の半数を張部側にまわした。ほんらい夏侯淵は都督 ( 総指揮官 ) ゆえ、みすから陣頭に立っことを控えるべきであったが、このときは兵数も けんかく こうせし ー 2

2. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

第六章漢中王から皇帝へ 少なく、わすか四〇〇人ばかりの兵とともに、 さかーも」 陣頭に立って南側の鹿角を修理中であった ( 『魏武軍令』 ) 。そこで劉備は、法正の助言に こうちゅう いっきか 従い、将軍の黄忠に命して、高所から一気呵 物成に夏侯淵を急襲させた。 者結果、夏侯淵は斬られ、副将の張部は遁走 した。定軍山付近では現在でも、三国時代の に嵶斌山扎馬釘・鏃・鉄刀などが出土し、往時を偲ば 冖定せる。ちなみに漢中以西の武都郡はなお曹魏 ~ 、 2 の支配下にあり、劉備は配下の呉蘭・雷銅ら ・ ~ ~ 挈な第、写を派遣したが、全減させられた。当時、武都 郡には羌族が暮らしており、一筋縄ではいか なかったようである。武都攻略は諸葛亮の北 : 」伐までお預けとなる ( 駟ページ図 ) 。 ともかくこうして劉備は漢中を手に人れた。 ごらんらいどう

3. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

呉へ詳細を喧伝した。それによって孫呉を威圧したのである。 : わが軍が散関に侵入する 鎮南将軍の張魯は、自分の力を過信してつつしまない。 と、氏人の一群はことごとく服従し、その王侯・武将はわが先鋒となった。漢中に至 ると、張魯は陽平関を守らす、十万の軍はもろくもくすれさり、張魯は巴中へ逃亡し た。そしてわが恩徳になっき、罪を悔い、人質を差し出し、投降してきた。巴夷王の そうゆう ・ : 征西将軍の夏侯 朴胡や賓邑侯の杜溲らは部族民をつれ、ともに巴郡を攻略した。 淵は、精鋭五万人と武都の氏羌・巴漢の鋭卒をひきいて浹江にのそみ、庸蜀 ( 四川地 方 ) の喉元にかみついた ( 『文選』 ) 。 の へ これは孫権の配下に宛てた手紙で、「はやく孫権を裏切って降伏しなければ、おまえた 国 建ちも張魯の二の舞になるそ」との脅しである。この手紙によると、ます曹洪らが漢中を陥 蜀 したのち、曹操は悠々と漢中に人城した。そのころ夏侯淵らは張魯を追撃し、巴中付近に 章 五至っていた ( Ⅲペ 1 ジ図 ) 。そこで張魯は、それ以前から友好関係にあった異民族の巴 そうゆう 第 夷王朴胡や賓邑侯杜漢らに降伏を促し、それを手土産として、みすからも二一五年十一月 えいそっ ふんこう

4. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

いだに出回っていたらしく、その内容にはっとに定評があった。当時、夏侯湛という人物 は、曹魏の歴史書の『魏書』を作成中であったが、陳寿『三国志』をみるや、みすからの かこうえん カ一」 - っ 『魏書』を破り捨てたという。夏侯湛は、曹操の重臣夏侯淵を曾祖父、夏侯威を祖父にも ち、西晋を築いた司馬氏の親戚でもあった。ゆえに曹魏の歴史にくわしく、関連史料も容 易に閲覧しうる立場にいた。その彼が陳寿に敗北感を抱いたのである。陳寿『三国志』は よほど的を射た史書であったのであろう。 また陳寿は『三国志』を執筆するうえで、すでに出回っていた西晋・王沈の『魏書』や ししよう 孫呉・韋昭の『呉書』などの歴史書を参照した。ところが、陳寿『三国志』の出来栄えが べターであったためか、皮肉にも『三国志』は現存するが、王沈や韋昭の書は整ったかた ちでは現存しない。史書の世界にも自然淘汰があるかのようである。 さんぐん 界陳寿の執筆態度にも古来定評がある。たとえば陳寿の父は蜀漢の諸葛亮の参軍 ( 軍事顧 がいて 問 ) で、将軍の馬謖に同行して街亭で敗れ、髭刑 ( 髪をそり落とす刑 ) に処された。判決 三を下したのは諸葛亮である。よって陳寿は諸葛亮を恨んでいた可能性がある。だが陳寿は、 章諸葛亮を「軍略を立てるのは不得手」としつつも、「指導厳格、信賞必罰、勧善懲悪で、 官吏は悪さを容認せす、人びとは積極的に励むようになった」と高く評価し、諸葛亮を意 かこうたん おうしん

5. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

第五章蜀漢建国への道 陽平関とよばれる要害があり、攻防戦の舞台 旦牙 撮となった。現在その付近には「張魯城」とい 墸う地名が残っており、名残を感しさせる。 む漢中への出陣に先立ち、魏将の夏侯淵は、 を長安以西の山地で三十年以上独立をつづけて 方きた河首平漢王国を減ぼした。国王と丞相以 巴下、ととのった官僚制度を有していたらしい が、ともかく後漢末期の混乱をさけた人びと 沿か山奥に築いた小国であった。また武都郡 、 . 。靉破「第一響一 ( 下弁 ) 0 氏・羌を攻撃して穀物十万石以上 を没収し、涼州に割拠する諸勢力をひきいて 関曹操本隊に合流した。 張魯攻略の先鋒隊は、曹操の従兄弟の曹洪 らがひきいた。巴中に逃亡した張魯を追撃し 】 . を 0 をを、、、 ~ ( 、ま一写こ曹洪は、甥の曹不にこう手紙を送 0 ている かしゅへいかん はちゅう そうひ そうこう 149

6. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

に平定され、長安には曹操の配下である夏侯淵らがいた。劉備が成都を攻略した約十ヶ月 後の二一五年三月に、曹操は張魯討伐にむかった。曹操は別動隊を武都郡に向かわせ、み さんかん すからは陳倉道をすすみ、散関を経て、漢中に攻め寄せた ( 駟ページ図リ。 しゅ・う - 」」、つ このとき陳倉道の北側入口付近の散関にたちょった曹操は、「秋胡行」なる詩歌を吟じ た。一部を意訳してみよう ( 『漢魏六朝一百三家集』 ) 。 この道はどうしてこれほど険しいのか 夜明けに登る散関の山 この道はどうしてこれほど険しいのか 夜明けに登る散関の山 車は谷間におちてゆく 牛は倒れて起きあがらす 五弦の琴を弾しよう 大きな平たい岩のうえにすわり むには迷いと一愛いが生しる 東方の音色を奏でると おもいきってわが志を歌い上げよう夜明けに登る散関の山で ここには、険峻な散関の地で、望郷の念に駆られつつも、進軍を決断する曹操の姿が描 かれている。たしかに散関付近は難所つづきの山道である ( 写真 1 ) 。漢中盆地西側にも かこうえん

7. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

られていた香料の匂いが数十里先までただよったという ( 『水経注』 ) 。 逃げる劉備 袁氏一族を減ぼした曹操は、 いよいよ南方に矛先を向けた。このとき曹操が長安以西を 放置し、南方征伐を優先した理由は、長安以西に曹操と友好的な、群雄の馬騰がいたから である。一方、南方には敵意をむき出しにした劉備がいた。劉備はすでに曹操側の武将 かこうとんりてんうきん ( 夏侯惇・李典・于禁ら ) と小競り合いをし、伏兵で曹軍を破っていた。また劉表も南陽郡 に攻めこむなど、北方への野心を棄てきれすにいた。曹操はいよいよ彼らの息の根を止め る準備ができたと判断したのであろう。 建安十三年三〇八年 ) 七月、曹操の本格的な南下がはしまった。主力部隊は、于禁・ 堤刀ちょうりようちょうこう ちょうげん しゆれい ととく一こぐん ろしようふうかい 登張遼・張部・李典・朱霊・路招・馮楷の七軍よりなり、都督護軍 ( 軍目付 ) の趙儼が総 こひょうキ」こし そうしんそうじゅん 亮督した。後方には曹操がひかえ、周囲を曹仁・曹純兄弟ひきいる親衛隊の虎豹騎と虎士が しょこう がくしんまんちょう 固めた。ほかに徐晃・楽進・満寵らの別動隊が展開し、曹軍の総数は十三万—十五万人に 四及んだ。鼓吹隊による漢帝国伝来の歌曲演奏をともなう大行軍の様子は、狼火台をつたい、 すぐさま劉表のもとへ報告された。しかしその情報が伝わった八月に、劉表は病死した。

8. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

荊州の一部を領有する孫権とは同盟関係にあるため、実現は困難である。現時点でもぎ取 れるのは、曹魏領の荊州北部である。そこで関羽は北上を開始したのである。 関羽が目指したのは樊城 ( ページ図 ) 。かって劉表が荊州牧で、主君の劉備がその いそうろう 居候であったときに一時駐屯した場所であり、そのすぐ南に襄陽城もある。北の樊城と南 かんすい の襄陽にはさまれるかたちで、漢水とよばれる河川が流れている。このとぎ関羽の胸に、 ある種の懐かしさが去来したとしても不思議はな、。 曹操陣営から蜀漢随一の名将とまで 称される関羽の北上に、中原の人びとは驚愕した。さっそく樊城を守備する曹仁に関羽を うきん 攻撃させ、さらに猛将の于禁を援軍として派遣した。だが、おりしも長雨で漢水があふれ、 于禁らの七軍は水没した。関羽は大船で于禁らを攻撃し、降伏させた。関羽は事前に大船 へ 帝を準備するなどの対策をとっていたらしい。荊州刺史胡脩・南郷太守傅方も関羽側に降伏 し、曹軍は追いつめられていった。 ぎよう しかも、関羽の来寇とほぼ時を同しくして、魏王国の都のでは士人の魏諷らが内乱を 中 れんざ 図った。曹不が事前に詳細をつかんで鎮定したものの、乱に連坐した者には高位高官の子 六弟が数多くふくまれ、魏王国を動揺させた。当時、曹操は夏侯惇らとともに荊州の北の摩 第 陂にとどまり、関羽に備えていた。曹操留守中の後漢朝廷では、首都を北側へうっすこと そうひ こしゅう ぎふう

9. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

第四章諸葛亮の登場 ・新野 . 樊城 長阪 建業 漢水 夏は 0 、一 0 扛夏 弓林 ? 赤壁 ? " 第い、 一周瑜軍 一曹操軍 ー、劉備叫驀 長阪から赤壁へ 図 1 2 に感寄者軍許 と ゆ し 可 は と つ よ 動 し 能 ん夏劉冫 り を て か し に の さ 添出 追 か性 ロ琦 っ な た に か劉 せ う い結 も 派当 た が る て し 曹 る劉 つ果劉 に備 に時 / こ 江 回 と 操 が 備 。か 、備 そ に夏 い は の追れ劉 。劉追郡分荊 の を 軍 が 事 事 琦随 に劉姿随 、備民 さ リ、 lsl 実 早 備 はす多 : 車 の 派 に れ し は 目リ に 晩 は 多 る く は追 を も た し、 わ承追そ く 民 の追 随 た劉琮 い人 た 知 に死討 び 。琦派 いれ を を た

10. 劉備と諸葛亮 : カネ勘定の『三国志』

ぜんの袁術」とは異なる袁術像である。 しせいさんこう 袁術は、四世三公 ( 四世代にわたり三公を輩出した家柄 ) の「汝南袁氏」 ( 汝南郡の袁氏 ) 出身、つまり親子代々総理大臣級のポストを歴任するほどの名門出であり、かの董卓すら しゅん 警戒していた。袁氏は、伝説の聖王舜の末裔を名乗り、その「華麗なる一族」の本流が袁 えんとう えんべい 術であった。厳密にいうと、かって安国亭侯の袁湯に十二人の子がおり、長男の袁平・次 えんせい えんほう 男の袁成は早くに亡くなり、三男の袁逢が侯位を継いだ。袁逢の長男は董卓に殺され、次 男の袁術が袁逢の後を継いだ。このような家系の流れをうけて、袁術は本流を自認したよ うである。ちなみに、若くして亡くなった袁成には子ども ( 養子の可能性もある ) がおり、 それがのちに河北を支配することになる袁紹である。袁成が若死にしなければ、ほんらい は袁成、そして袁紹が「汝南袁氏」の本流ということになる。そのため袁術は袁紹をライ バル視していた。これがのちに袁氏の悲劇につながる。 ともあれ、袁術はこのように名門中の名門ゆえ、後漢末の群雄割拠期にすばやく一番よ い地域をわがものとした。南陽郡を拠点とし、のちに寿春へと移った。両地域はいすれも 黄河流域と長江流域の結び目に位置し、四方八方に通する貿易地であった。ゆえに袁術は、 ほかの群雄が黄巾の乱以来の飢饉に苦しむなか、多くの富と食糧を保有できた。袁術は、