玉璽 ( 皇帝のみが用いる印璽 ) が発見され、劉備の手元にあり、天命を示唆する。だから 劉備は皇帝に値するというわけである。 二二一年四月、劉備は皇帝に即位した。正確な国号は蜀漢でなく、蜀でもなく、とうぜ ん漢である ( 『三国雑事』 ) 。漢王朝の末裔を名乗る劉備にとって、それ以外の選択肢はあ りえない。 蜀漢の制度と法律 帝国が成立した以上、国の制度をととのえる必要がある。蜀漢は後漢の後継者をもって みすからを任しているので、基本的には後漢の制度や慣行を継承せねばならないが、その 帝全貌を知る者はますいない。後漢王朝がまだ存続していたときでさえ、せいぜい蔡髦など の碩学が詳細を知るのみであったらしい。もとより制度や慣行をしるした書籍が蜀漢の国 王内に完備されているわけもない。 コンビュータ・デ ] タベ ] スもなく、書物の大量印刷技 しゅしようぼん 漢 術もない時代ゆえ、個々人の家にあるのは制度や慣行の断片をしるした手抄本くらいであ 六る。そこで劉備は、蜀漢国内の学者を一堂にあつめ、儒家的な制度・慣例にかんする議論 第 を行なわせた。
漢が肉刑なき漢律の伝統を継承していたことを物語る。 ただし蜀漢では後漢の律令をそのまま継受するだけでなく、諸葛亮らによって「蜀科」 なる法規も定められたことが知られる。蜀漢の正式な国号は漢ゆえ、「蜀科」は俗称で、 もとより漢代には体系的な法典がな 正式には科 ( もしくは漢科 ) とよばれたとおぼしい。 く、皇帝の詔 ( Ⅱ令 ) が出されるたびにファイリングされて保管・蓄積され、その規範的 効力をもっ箇所が「律」とよばれ ( 廣瀬二〇一〇 ) 、科も、曹魏の例をみると、体系的な い。ただしそれは、 法典ではない ( 冨谷二〇一六 ) 。ゆえに蜀科も追加的な法規とおぼし 君主の劉備でなく、諸葛亮ら五人が「造」ったとされ、はしめから一定程度のまとまりを もっていたようでもある。この点は今後の検討課題であろう。 帝このように、劉備は後漢王朝のしくみをふまえ、儒学と法学の双方による国家設計をし 皇 、 9 ていたとわかる。なお、その骨子が後漢時代の法制をふまえたものである以上、秦漢帝国 王 とくらべ、蜀漢のみを「仁義の国」として特別視できないことはいうまでもない。 中 章 夷陵の戦い 第 劉備は皇帝となった。国の骨格も定まった。しかし天下はまだ統一されていない。否、 しよくか
つまり、曹魏を倒したあとに、孫呉と蜀漢とのあいだで決着をつけるのはとうぜんであ るが、これは後日検討すべき問題であるといったのである。 ここでおもしろいのは、鄧芝が孫呉と蜀漢を比較するさい、一代の英雄として孫権と諸 葛亮をひきあいにだし、蜀漢の皇帝である劉禪の名前を挙げていないことである。公的な 外交の場で、鄧芝が劉禪より諸葛亮を優先したのは、蜀漢で実権をもっていたのが諸葛亮 であったことを物語る。 このように、過不足なく明瞭な提案により、孫権は鄧芝を称賛し、蜀漢との同盟を決断 したという。この時点で、蜀漢が南荊州を奪還する劉備以来の計画は、半永久的に延期さ れた。しかしこれによって「隆中対」の一部は再建できた。また蜀呉同盟の締結は、南蛮 西南夷と孫呉の連繋を断ち切ることになる。そこで諸葛亮は、つづいて南蛮西南夷の鎮撫 にのりだすことになる。 征 南 章 七南蛮西南夷の生活と習俗 第 南蛮西南夷は、これまでにいくどか紹介してきたように、成都の西南に点在する人びと
魏の文帝に封建された呉王であった。蜀漢と孫呉との同盟は、とうぜん孫呉と曹魏との公 的関係を決裂させる。ゆえに交渉は至難であった。しかも蜀漢は劉禪を皇帝とする帝国で、 同じく帝国化を目指していた孫呉とは理論上並存しえない。「天に二日無く、地に二王血 し」であるからである。そのことを念頭に置きつつ、蜀漢と孫呉とのあいだに信頼関係を 築く必要がある。このようにたいへんむすかしい役目を、鄧芝は担わされたのである。 じっさいに孫権と面会した鄧芝は、さっそく孫権から質問を受ける。呉蜀二国が共闘す れば、ほんとうに曹魏に勝てるのか。蜀漢は劉備が亡くなったばかりなのに、問題はな、 のか。曹魏を倒したあと、呉蜀二国の関係はどうなるのか、と。これにたいして鄧芝は、 こう答えたという。 臣が参りましたのは、呉のためにもなることを願っているためで、蜀のためばかりで はありません。 ・ : 孫呉と蜀漢はあわせて四州を治め、大王 ( 孫権 ) は一世の英雄、 へいどん ・ : すすんでは天下の併呑も可能で、退いても三国鼎 諸葛亮もまた一代の傑物です。 : ですが、そもそも天に二つの太陽はなく、地に二人の王はいない 立が可能です。 もの。曹魏併呑後のことにかんしては、大王はまだ天命をよく認識なさっていない。
えない。ちなみに前漢帝国では、総人口五千万人にたいし、官吏約十二万人—十三万人、 労役従事者約一五〇万人、兵役従事者約七十万人—八十万人が常時働いていたが、それと 比較しても蜀漢の官吏と兵の数は異常に多い。曹魏と孫呉の対人口兵力比も小さくないが、 いわゆる予備役もふくまれる。さきほどのべたように、 そのなかには常備兵だけでなく、 蜀漢にも輪番制はあったが、蜀漢では南征以来、ほぼ連年にわたって対外遠征を繰り返し ており、毎回六万人—八万人が派兵され、最盛期には約十万人が動員されている。つまり 蜀漢では実態として毎年総人口の十分の一以上の兵士が動員されつづけていたとかんがえ ざるをえない。蜀漢で輪番制がどこまでしつかり機能していたのかには少し疑問がのこる。 しっさいに、つぎのような故事がのこっている。諸葛亮と司馬が対陣したときのこと。 曹魏軍が三十万人に達しようというのにたいして、蜀漢では更 ( 輪番制 ) で十分の二が休 養しており、現有兵力は八万人にすぎなかった。おりしも輪番交替の時期が到来し、諸葛 亮は輪番制を遵守しようとしたが、兵士は諸葛亮の誠実さに打たれて戦場にのこることを かくちゅう 希望し、曹魏に大勝したという。これは諸葛亮を熱烈に支持した西晋の政治家郭沖の記録 八によるもので、こまかい数字などに不正確なところもあるが、皮肉にも蜀漢の「ブラッ 第 ク」ぶりを示唆している。トツ。フが過労死するほど熱心に残業しているばあい、部下は安 2 町
③街亭の戦いの時点で曹魏側の上邦郡城は陥落しておらす、そこを飛び越えて蜀漢軍 が隴城鎮に出ることはできない。 ④街亭Ⅱ隴城鎮付近説はかなり後世の史料に基づく ただし本書では即断を避け、新旧両説の可能性を念頭に置きつつ、慎重に議論を進めて ( ゅ、ことにしこ、。 ともあれこのように、蜀漢軍は徐々に攻撃の範囲を拡げていった。これにたいして、曹 そうえい 魏の明帝曹叡は長安への親征を摸索したが、猛暑期の出陣は危険で、かっ莫大な費用がか しよういく かるとする臣下の鍾毓の諫言をふまえ、結局、親征を中止した。おりしも曹魏国内では季 かんばっ 節外れの大水や旱魃があり、洛陽の宮殿修築費もかさんでいたため、曹魏の人びとは苦し んでいた。諸葛亮は追い風のなかにいた。 街亭の戦い 章 八街亭へ向かう蜀漢軍は、『三国志』蜀書馬謖伝において「先鋒」とよばれている。つま 、蜀漢軍の最終目標は街亭のさきにあった。蜀漢陣営では、先鋒をひきいるべきは経験 225
第六章漢中王から皇帝へ 漢中争奪戦漢中王への道荊州失陥 曹操の死と後漢滅亡蜀漢の建国蜀漢の制度と法律 夷陵の戦い劉備の死 第七章南征 「隆中対」の再建へ南蛮西南夷の生活と習俗空白の三年間 南征の経路南征の戦後処理 第八章北伐 出師の表北伐の資金源と蜀漢の軍事力第一次北伐 敵兵分散化と多方面攻撃街亭の戦い 一進一退の北伐戦線李厳をめぐる謎五丈原への道 終章大義と犠牲 2 町 241
南征の経路 こすいきよく 蜀漢建興三年三二五年 ) の春、諸葛亮は漢帝国由来の妓吹曲を鳴り響かせながら、満 を持して南征に出発した。鼓吹曲とは打楽器と吹奏楽器による合奏形式の特別な歌曲で、 概して歌をともなう。ほんらい皇帝出御のときに演奏される荘厳なメロディであるが、諸 葛亮は特例として、前後二部の鼓吹隊をひきい、軍歌を鳴り響かせながら出陣することを 許されていた ( 増田一九七五 ) 。伶人 ( 専門の演奏隊 ) は前後二部に分かれ、四十人程度で あった。曹魏や孫呉も、漢王朝の鼓吹曲全十八曲をうけつぎ、歌詞をかきかえ、各々自国 の雄渾さを歌い上げた。だが蜀漢の鼓吹曲は、曹魏や孫呉のものとメロディは同じであっ たが、歌詞は異なっていた。蜀漢は漢王朝の正統伝承者として、漢代以来の歌詞を採用し C ( ゅ・ - つほ・つ たとおもわれる。前漢高祖劉邦の偉業にはしまる全十八曲を聞きながら、諸葛亮の脳裏に は、南征への気負いと一抹の不安、そして漢室復興への思いがよぎったことであろう。最 初に狙うは反乱軍の首領の雍闔である。 ーも - っカノ、 そうとは知らぬ雍闔は、孟獲に命じ、夷人の首領たちを味方に引き込もうとしていた。 孟獲は首領たちに、蜀漢政府はとんでもない無理難題をふつかけてきているといった。も よ、つ力し
第七章南征 せいこう ひろく雲南地方に行き届いていた。益州郡太守の正昂は殺され、後任の張裔は囚われて孫 呉へ流された。この反乱は劉璋の死に起囚するらしく、『三国志』には「劉璋が没すると、 南中の豪族雍闔は益州郡を根拠地として反乱し、孫呉に味方した。孫権はまた劉璋の子 りゅうせん 劉闡を益州刺史に任命し、交州と益州の境界におらせた」とある。劉璋の死後にその子、 劉闡が旗頭に立てられたことからみても、雍闔らは劉焉・劉璋の余風を慕っていたようで ある。ここでも劉備の仁徳のなさがにしみ出ている。 では、諸葛亮はいかに状況を打開しようとしたのか。ここで諸葛亮が最初に着手したの が、孫呉との関係改善である。これは南荊州奪還を諦めたことを意味する。曹魏・孫呉・ 蜀漢のうち、圧倒的な国力をもっ曹魏とくらべて孫呉・蜀漢は弱国であり、弱国同士で争 いあうのは得策でない。ゆえに諸葛亮は孫呉との同盟を優先した。ただし、孫呉は関羽を 裏切り、劉備を追いつめた国である。その憎き孫呉に使者を送り、蜀漢側から同盟を乞う ことは、蜀漢の人びとにとって、頭では理解できても、感情的には受け入れがたいもので あったにちがいない。 ここで活躍したのが、蜀漢側の使者の鄧芝である。鄧芝の役目は、敗戦国の蜀漢の名誉 を保ちつつ、孫呉と有利な同盟関係を構築することである。だが孫権は当時、建前上は曹 ちょうえい
ある蜀を王号とする手もあるが、楚王は劉邦の宿敵である西楚覇王の項羽を、蜀王は後漢 こうそんじゅっ 光武帝の宿敵である蜀王の公孫述を想起させる。ゆえに劉備は漢中王を名乗ったのであろ このとき同時に後漢の大司馬をも自称した。もともと劉 また劉備は、先述したように、 りようしれいこう、 備は入蜀時に劉璋の推薦を受けて行大司馬 ( 大司馬の代行 ) ・領司隷校尉 ( 司隷校尉を兼任 する意 ) となっているので、いわば正式な大司馬へと昇進したことになる。もっとも、漢 中王に即位した劉備は、大司馬に就任せすとも、王国内の実質的な兵権を掌握しうる。そ れにもかかわらす大司馬を名乗った理由は、みすからが中原と江東をふくむ中華全土の軍 事権を有すると宣言するとともに、後漢初代皇帝の光武帝が即位直前に就任したのが大司 おのれ 馬であったからであろう。つまり劉備は、漢中王・大司馬を自称することで、己こそが前 漢・後漢双方の正統伝承者であることを暗示したのである。 芋」こう 劉備が漢中王に即位した理由はほかにもある。当時すでに曹操は、二一三年に魏公、二 ぎおう 一六年に魏王となり、後漢の領土内に公式にみすからの魏王国を有していた。「公」は、 漢代二十等爵制の上、王の下に位置し、広大な土地に封建された者である。それに対抗す るには、「公」を飛び越え、「王」に即位する必要があった。また、これによって劉備の官 0 たいしば せいそはおう