が恐れるほどの兵力を有したが、戦上手の曹操には勝てないとふんだらしい しかもほかの州に比べて、徐州には瑕疵があった。第一に、陶謙は当時、同郷出身の仏 さくゆう 教信者である竿融を重んし、広陵郡・下郵郡・彭城郡の食糧輸送をゆだねていた。しかし 竿融は、陶謙に上納すべき税収をもちいて、大々的に仏事を営んだため、徐州の経済基盤 はそのぶん脆弱であった ( 任一九九一 l) 。人口比をみると、広陵・下郵・彭城三郡の収入 を欠く陶謙が曹操に苦戦したのはとうぜんであった。第二に、陶謙は徐州内で士人を弾圧 きよしよう しており、一部の士人層 ( 許劭ら ) の離反を招いていた。 そこで陶謙は田楷・劉備に助けを求めた。当時、曹操と袁紹は友好関係にあり、公孫墳 と対立していたので、田楷・劉備・陶謙は反曹操・反袁紹の点でも意気投合した。もっと も、田楷は青州刺史、劉備は平原国相で、田楷は劉備の上司であったが、田楷はみすから の領地の青州を守り抜かねばならす、青州を長期間留守にはできない。一方、劉備はその あとも徐州にとどまって曹操を防ぐ役目を担えた。このときに劉備は、じつは劉虞を殺害 して師の盧植と対立する公孫墳に嫌気がさしたため、離反したとする説もある。 ともあれ、陶謙は徐州にとどまる見返りとして、劉備を豫州刺史に推薦した。当時、豫 州にはすでに袁紹の推薦した刺史がいたため、劉備が入手したのは有名無実の官位であっ
を手に人れ、南匈奴において復権を果たすことであったろう。 ともあれこうして袁紹側は、ふたたび一時的に劣勢に立たされた。しかし袁紹は数ヶ月 で彼らをも撃退する。しかも、公孫墳が初平四年 ( 一九三年 ) 十月に対北族融和策をとる 劉虞を殺したのにたいし、袁紹は積極的に烏桓・鮮卑に恩信を施した。かくて袁紹は最終 的に公孫璟を破り ( 一九九年 ) 、冀州・幽州・青州・并州を支配できた。このとき袁紹は、 袁術とは異なり、複数州を子や外甥に支配させた。袁紹が冀州 ( 一九一年— ) 、袁熙が幽 ( 一九五年— ) 、高幹が并州、袁譚が青州 ( 一九九年— ) を支配する体制を布いたのであ る ( 次ページ図 ) 。 だが、袁紹の経済基盤も完全無欠ではなかった。当時、冀州周辺にはたびたび寒波がお しよせ、川は結氷し、地面は凍てついた。その背景には、本書第一章でのべたように、グ ロ ーバルな寒冷化の影響があった。これに戦乱が加わり、農業収人は低下した。ゆえに袁 拠 齬紹の配下は、桑の実を食べて飢えを防ぎ、袁紹の死後には三男・袁尚の部下の李孚も韮を 群 植え、救荒食とするなどの対策をとった。袁術同様に、袁紹らも食糧確保に必死であった 章 三のである。 第 しかし袁紹も最後には敗れてしまった。それはなぜか。袁紹側の敗囚にかんしてはっと キ、ゆうこうしよく
つまり曹操は、正確には、毛畍の上言をふまえ、棗祗・韓浩らの議論を経て、屯田制を 開始したのである。おりしも曹操は青州黄巾を受け入れたばかりで、屯田は彼らをまとめ て働かせる場となった。それは当初、豫州の許昌付近で実行され、穀物百万石の貯蔵に成 功した。そのため次年度以降に各州郡にも普及させた。 ところで曹操は当時、司空 ( 三公の一つ ) と州牧を兼ねており、実質的な財源として は、 ~ 兌州の税収を自由にできるにすぎなかった。複数の州の税収を一括回収しうる行政単 位は存在せす、配下の州長官をつうして各州を支配するしかなかった。これでは制度上、 曹操のみが突出した権力をふるうことはむずかしい。そこで曹操は、青州黄巾らをすぐに は郡県民にもどさず、あえて司空直属の屯田へと再編し、独自の財源としたのである。 この制度は当初、民をそれそれの故郷から引きはがして、許昌へ強制移住させる措置を えんかん ともなっていたので、多くの逃亡者を出した。そのため、袁渙の意見に従い、のちに希望 者のみを採用するかたちに改良した。さきの毛畍の提言では、この政策は袁紹や劉表の食 糧対策と対比されている。この点からみると、これこそが曹操独自の経済政策であった。 三穀物百万石は、実り豊かな土地で一万人前後が働いたときの年間収穫高にあたり、軍勢一 万人の約二十ヶ月分の食糧に相当する。これが補助ポンべとなって、曹操の覇権確立を支
第章劉備の生い立ち こうゆう 公孫墳のもとへは戻らなかった。興平元年 ( 一九四年 ) に北海国相孔融が黄巾党に攻撃さ れ、劉備に助けを求めたためである。孔融は孔子の子孫で、幼少より俊才の誉れ高く、当 初は順調に出世の階段を駆け上がった。けれども権力者の董卓とぶつかり、三八歳のとき に黄巾残党の多い北海国へ飛ばされ、黄巾討伐や学校建設に尽力していた。その六年後 ( 一九七年頃 ) に劉備の上表で青州刺史となっているので、孔融の北海国相在任期間は一 九一年—一九七年となる。それは劉備の平原国相の在任期間二九一年—一九四年 ) と開 始時期が一致し、両者はほんらい公孫墳派の青州刺史、田楷に従っていたとかんがえられ けんあん えんたん る。建安元年 ( 一九六年 ) に孔融は袁譚に攻撃されており、ここからも、孔融が敵 ( 袁紹 側 ) の敵 ( 公孫墳側 ) である劉備と密接な関係にあったことがうかがえる。 徐州牧への道 興平元年 ( 一九四年 ) に北海国相孔融を助けた劉備は、そのまま徐州方面に向かった とうけん ページ図 6 ) 。それは、曹操に攻撃された徐州牧の陶謙が田楷と劉備に助けを求めたか そうすう 二らである。曹操が徐州に侵攻した理由は、徐州を移動中の父曹嵩が陶謙の配下に殺害され たためである。真相はともかく、陶謙に曹操をふせぐ力はなかった。ほんらい陶謙は曹操 こうへ
まだ友好的であった。そのため袁紹は公孫墳討伐に集中できた。当初、公孫墳は青州と徐 こくさんはくは 州の黄巾残党や、黒山・白波集団 ( 河東郡や河内郡に隠然たる力を及ぼした武装豪族のゆる こうそん やかな連合 ) などの軍閥を大破し、強勢であった。ゆえに袁紹は、勃海太守の印綬を公孫 範 ( 公孫墳の従弟 ) に献上して、懐柔を試みたほどである。しかし公孫範は逆に勃海兵を ぜんけい ひきい、公孫墳自身も青・冀・ ~ 兌三州の刺史 ( 田楷・厳綱・単経 ) と郡県の長官を勝手に 任命し、袁紹と敵対した。これにたいして袁紹は、兵力で劣っていたにもかかわらす、界 橋の戦いにおいて公孫墳の騎馬隊を弩兵で破るという戦術的勝利を収めた。結果、形勢は 徐々に逆転していった。 たいしゅ そのころ、董卓とその後継集団もまた、冀州牧の台寿 ( もしくは壺寿 ) をあらたに対抗 はくしようすいこ 馬として送り込んできた。これに加えて、黒山・白波集団に連なる于毒・白繞・胱固とい おふら った豪族や、南匈奴単于の於夫羅も、台寿側に加勢した。ここで北の遊牧民である匈奴が 登場する理由は以下のとおり。そもそも前漢時代に強勢を誇った匈奴は、後漢時代に南北 に分裂し、南匈奴ではさらに後漢末期に内紛が起こり、単于が殺害された。於夫羅は単于 の子であったが、 その正統性は認められす、彼は河東郡に逃亡した。そしてその地を実効 支配する黒山・白波集団と連繋していたのである。於夫羅の目的は、早く後漢王朝の後盾 げんこう
さまざまな策を考案した。 なかでも経済史的にもっとも注目されるのは、曹操が黄巾の一派を味方につけた点であ る。教主の張角の死後、黄巾の乱はやや沈静化したものの、各地には黄巾の残党がおり、 それそれ自衛組織を作っていた。その最大のものが青州黄巾であった。『三国志』による と、初平三年 ( 一九二年 ) 四月に ~ 兌州へ侵人した青州黄巾党は兵三十余万人・男女百余万 人で、同年冬に曹操に降伏したという。もっとも、当時の土地面積や人口統計を駆使して 経済史的に分析すると、兵三十余万人・男女百余万人は誇張で、実数は十分の一程度であ った。けれども、ともかく彼らが曹操の台頭に一役買ったのは確実である。当時三万余人 の兵を得るということは、一州に匹敵する軍事力を人手することにほかならなかったから である ( 柿沼二〇一八 < ) 。 かくも大規模な集団が曹操に降った理由は、曹操が太平道に寛容であったからである。 拠 かりにも献帝を奉戴して後漢再建をめざす曹操は、後漢打倒・新王朝樹立を説く黄巾とは 群 ほんらい敵対関係にあるはすであるが、清濁あわせ呑む曹操ならではの決断である。曹操 章 は、太平道の存続を認め、黄巾兵の好き勝手なふるまいに目をつぶるかわりに、彼らを存 第 分に活用した。 , 彼らに土地を貸し与えて農業に従事させ、有事のさいには彼らを兵士とし
曹操の経済政策①ーー青州黄巾の降伏 これまで本章では、董卓・呂布・袁術・袁紹のふところ事情についてのべてきた。そこ で最後に、群雄割拠を勝ち抜くことになる曹操の財源と戦略についてのべておこう。 そうとう そうすう 曹操は、後漢後半期に権力をふるった大宦官曹騰の孫、太尉曹嵩の子で、いわば権力の 中枢で生を享けた。宦官の孫 ( もちろん養子関係による ) であるため、当時の士人のあい だでは、評判かんばしからぬ家柄であったというべきであるが、曹氏は莫大な私財を有し ていた。そのため曹操は、私財を投し、また有力豪族の投資もうけて挙兵をし、反董卓同 盟のときに名声を高めた。そののち、各地を転戦して頭角を現し、たまたま前任者が亡く なったため、 ~ 兌州牧に就任した。ただし当初は ~ 兌州がまだ不安定で、 ~ 兌州内で反乱を起こ した呂布に寝返る者も少なくなく、資金や食糧の調達にはたいへん苦労したようである。 参謀の程昱は、兵士たちへの食糧配給のさいに、人肉を混ぜてごまかしたといわれる。 ろ - っとう くわのみ また河南郡の県令のひとりは、乾燥した椹を貯蔵し、豎豆 ( 野生の豆 ) を収穫させ、救荒 食として曹操に提供した。かくも悲惨な食糧難に対処するには、何らかの抜本的な経済対 策が必要である。曹操が ~ 兌州から呂布を追い出し、周囲の州長官を凌駕するには、余剰食 糧を確保するのみならす、複数の州に匹敵する財力と兵力を要する。そこで曹操の幕僚は 6
第三章群雄割拠 群雄の財源呂布と赤兎馬の実像袁術は無策か 一一袁児の末路曹操の経済政策①ーー・・青州黄巾の降伏 曹操の経済政策②ーー・屯田制の整備 第四章諸葛亮の登場 諸葛亮誕生晴耕雨読の日々臥龍の系譜 三顧の礼と「隆中対」劉表の野望と挫折逃げる劉備 長阪の戦い赤壁の戦い 第五章蜀漢建国への道 借金の連帯保証人は諸葛亮益州混乱の背景信義なき入蜀 不安定な劉備政権大盤振る舞いの劉備劉巴の名目貨幣政策 従順なる臣下たち
士人も基本的には徐州牧や郡太守になりえない ( 濱口一九六六、窪添二〇〇一一 l) 。当時 の朝廷は、地元の政治家に地域の安定化をゆだねるよりも、政治家と地元との癒着を 恐れたのである。これは、看板・地盤・鞄を要する現代政治家のありようと比較する と、おもしろい原則である。 ちんぐん ④徐州士人 ( 孔融・陳羣・陳登ら ) の後押しがあった。それは前掲の図 7 ( ページ ) に みられる人間関係による。すなわち、ます劉備は北海国相孔融の推薦を受けた。これ ろしょ / 、 は、劉備がかって孔融を助けたことに起因する。しかも劉備はこのとき盧植門下の肩 書きを利用した可能性もある。前述のごとく、劉備は盧植に長期間師事してはいない しようけん が、肩書きとしては十分である。おそらくその結果として、劉備は陳紀と鄭玄の知己 を得た。陳紀は鄭玄を朝廷に招聘しようとした人物で、陳羣の父にあたる。鄭玄は盧 植の兄弟弟子で、当代一流の学者である。つまり劉備と彼らは、盧植を媒介としてつ そんかん ながりうる。加えて、鄭玄の弟子の孫乾も、このころ劉備に仕えはしめている。また 孔融は鄭玄を敬慕し、鄭玄の子の鄭益は孔融のもとで働いていた。劉備側も孔融を青 州刺史にすべく動いており、両者は強い信頼で結ばれていた。陳羣は、父陳紀がかっ て袁術に抜擢された経緯があるため、当初は袁術を支持したが、のちに劉備支持に転 ちんき
昱は、のちに関羽と張飛を「一万人の敵に立ち向かえる人物ーと評している。関羽は張飛 よりも数歳年上であったので、張飛は関羽を兄と仰いだ。ちなみに『演義』などでは、劉 備・関羽・張飛の三人が義兄弟の契りを結んだことになっている。たしかに三人はのちに 同牀 ( 同し寝床で寝るほど ) の仲となり、劉備は二人を「兄弟」のごとく愛しみ、張飛は 関羽に「兄事」したらしいが、それを義兄弟とまでよべるかはわからない。また劉備は、 張世平・蘇双らの融資を受けることによってはしめて関羽・張飛をスカウトできた。その 意味で、劉備と関羽・張飛とのあいだには、夢のない話で恐縮であるが、もともと金銭関 係が介在していた。三者が仲良くなるのは、あくまでもそのあとのことなのである。 劉備の挙兵 光和七年 ( 一八四年 ) 、黄巾の乱が勃発する。その余波は楼桑里にも及んだ。中平四年 しよう きゅうりききょ ちゅうざん ( 一八七年 ) には幽州で遊牧民族烏桓 ( 烏丸 ) の丘カ居らが反乱し、もとの中山国の相 ( 諸 ちょうしゅん 侯国の宰相 ) である張純らがそれに合流し、薊 ( 現在の北京付近 ) を攻撃した。県令の すうせい 公孫墳らがこれを鎮圧する。では、当時、劉備は何をしていたのかというと、校尉鄒靖ひ しゅうじ きいる黄巾討伐軍に義兵として加わったとも、青州の州従事 ( 属官 ) ひきいる張純討伐軍