いると、父の記憶がはっきりとよみがえってきた。もう一度、幼い子供に戻れたら どんなにいいだろ、つ。両親に守られて、なんの心配もなかったあのころに。 ほんの数分うとうとしたらしい、重厚なドアの向こ、つで響く足音で目を覚まして、 暗がりで身を縮めた。このままここにいるべきか、逃げるべきかわからなかった。 油の切れた金属が軋む音がしてスライド錠が動き、作業着を着て口元までマフラー を巻いた男の人が建物から出てきた。 その人はすぐにはローラに気づかなかった。 ローラは昔ながらの挨拶のことばを口にした。「神のご加護がありますように」 男の人が驚いて、振り返った。暗がりで縮こまっているすぶ濡れの幽霊のような 人影に気づいて、潤んだ青い目を見開いた。だが、それでもまだそれがロ 1 ラだと 工 は気づかなかった。山での過酷な数カ月間でローラは様変わりしていたのだ。いっ サ ほう、ローラはその人を知っていた。父と一緒に働いていたサヴァというやさしい 〇 四 老人だった。ローラは老人の名を呼んでから、名乗った。 九 サヴァは暗がりにいるのがローラだとわかると抱きしめた。そのやさしさが嬉し くて、ローラは泣きだした。サヴァは通りに目をやって、誰にも見られていないの を確かめてから、震えるローラの肩を抱いて、建物のなかに入り、ドアを閉めて鍵 をかけた。
ないように祈りながら、階段の踊り場でそそくさと服を着るのだった。 ある夜、モルデハイはメンバ ( ーこ向かって、自身の旅立ちを宣言した。ローラは それを聞いても、すぐには意味がわからなかった。「ばくは故郷に帰る」モルデハイ のそのことばを、ローラはトラヴニクに帰るという意味だろうと思った。けれど、 まもなく、貨物船でパレスチナに戻るという意味で、そうなれば二度とモルデハイ に会えないと気づいた。旅立ちの日には、ぜひとも駅に見送りにきてほしいとモル デハイは一一一口った。さらには、卩」 植工見習いのアヴラムも一緒に行くことになったと。 「アヴラムが最初に名乗りを上げてくれた。きみたちの多くがそれに続くことを願 ってる」モルデハイはロ 1 ラを見た。ローラにはその視線がやけに長く自分に留ま っている気がした。「きみたちが故郷に戻る気になったら、ばくたちはその地できみ たちを出迎える」 モルデハイとアヴラムの旅立ちの日、ローラはどうしても駅に見送りに行きたか った。だが、 その日にかぎって洗濯物が山積みだった。母のラシェラは重いアイロ ンを何時間もかけつづけて、その間、ローラは銅釜とローラー式皺伸ばし機という いつもの持ち場についた。モルデハイの乗る列車が海岸に向けて出発する時刻には、 ローラは洗濯場の灰色の壁を見つめた。水蒸気が水滴になって冷たい石壁を滑り落 まばゅ ちるのを。カビのにおいが充満する洗濯場で、モルデハイが言っていた眩い陽光を 8
ローラは返事に困って、肩をすくめた。ほかに行くあてがなかったから来たのだ が、ここに留まれるか否かを決めるプランコのまえでは、そんなことは言いたくな かった。幼いイナは役に立つ。子供ならさほど人目を引かずに街をうろついて、敵 の行動を偵察できるからだ。それにひきかえ、自分に何ができるのか : 。司令官 のプランコに役に立たないと判断されれば、たとえイサクの知り合いでも、入隊は 言可されないかもしれない 「ローラは〈若き守護者たち〉時代の仲間だ」とイサクはプランコに言った。「いっ も会合に出ていた。いや、ほとんどの会合に。ローラは山歩きが得意で : ローラにまるで関心がなかったイサクは、司令官にローラを推薦することばが出て こなかった。 プランコに鋭い目で見られて、ロ 1 ラは顔が熱くなった。プランコはローラが干 した上着の端をつまんだ。「それに、優秀な洗濯女というわけか。残念ながら、われ われにはそんな悠長なことをしている暇はない」 はっしん 「シラミ」ロ 1 ラはやっとのことで声を絞りだした。「シラミがいると発疹チフスに なるわ」気力が萎えるまえにいそいでことばを継いだ。「シラミがいる場合は : : : そ ・シラミ う : : : 少なくとも週に一度は着るものすべてを煮沸しなければならない : の卵を殺すために : : : さもないと、この部隊の者全員が発疹チフスにかかるかもし ー当時、 124
ポがオスマン帝国の一部で、キリスト教徒に迫害されたユダヤ教徒にイスラム教国 の君主が避難場所を提供した一五六五年からこの街に住んでいる。そのときこの地 へやってきた者の多くが、一四九二年にスペインを追放されて以来、安住の地を見 つけられすに放浪を続けていた人々だった。そういった人々はサラエボで平穏な暮 らしを得て、街の住人たちに受け入れられはしたが、豊かになった者はほんのひと 握りだった。大半はローラの祖父のような儲けの薄い商人か、単純な技術を習得し て職人になるしかなかった。いつほう、シュヴァ 1 ポは教養があり、外見も東欧系 の人々に近かったせいで、まもなくいい仕事を得て、サラエボの上層階級の一員に なった。そうして、その子供たちは体育学校に通い、ときには大学にまで進んだ。 〈若き守護者たち〉でも自然と彼らがリーダーになった。 工 ひとりは評議員の娘で、もうひとりはローラの母が洗濯を請け負っている男やも めの薬剤師の息子。もうひとりの少女の父親は、ローラの父が用務員として働いてサ 〇 いる財務省の会計担当者だった。だが、モルデハイは全員を平等に扱って、ローラ 四 は徐々に自信をつけて質問するまでになった。 「でも、モルデハイ , とローラはためらいがちに言った。「自分のことばで話せる故羽 うれ 郷に戻ってきて嬉しくないの ? そんなに必死に働かなくてもすむんだから モルデハイは笑みを浮かべてローラを見ると、穏やかに言った。「ほくにとってこ も、つ
帰宅したローラは母と妹がいなくなっているのを知った。玄関のドアは開けっ放 しで、兵士が金目のものを持ち去ろうと家捜ししたらしく、家族のわずかな持ち物 が散乱していた。ローラは数プロックさきにある伯の家へ走 0 ていくと、拳が痛 くなるまでドアを叩いた。隣に住むイスラム教徒の親切な夫人ーーやはり伝統的な チャドルを着ていた が自宅のドアを開けて、ローラを招きいれた。そうして、 ローラに水を飲ませてから、事情を説明した。 ローラは頭のなかが真っ白になった。大声で泣きそうになるのを必死にこらえた。 いまこそ頭を使わなければならなかった。何をすればいいのか ? 何ができるのか ? 混乱した頭に浮かんだ唯一の考えは、家族を捜さなければということだった。家を 出ようとすると、夫人が腕にそっと手をかけた。「外に出たら、ユダヤ人だとすぐに わかってしまう。これを着なさい」そう言ってチャドルを差しだした。ローラは頭 からチャドルをかぶると、シナゴーグへ向かった。正面の扉が斧で破られて、壊れ ちょ、つつがい た蝶番にぶらさがっていた。そこには見張りがいたので、忍び足で建物のわきにま わって、祈疇書がしまってある小部屋へ向かった。その部屋の窓も割れていた。 チャドルを脱いで、手に巻きつけると、鉛の窓枠から鋭いガラスの破片を取り除い て、なかに手を入れて掛け金をはずした。ガラスがなくなった窓枠が外側に傾いた。 窓の下枠に手をかけて、小さな部屋を覗いてみた。ひどいありさまだった。棚が倒 111 蝶の羽一九四〇サラエボ
あたしはそこから入ってきたの。みんなで逃げよう」 伯母のレナがあきらめたよ、つに肉のたつぶりついた腕を上げた。こんなに太って いてはどうにもならないと言いたいのだろう。「私は無理よ、ローラ。心臓の調子も 悪くて、息をするのもたいへんなの。どこにも行けないわ」 ロ 1 ラはあせった。愛する姉を母が置き去りにするはずがなかった。「あたしが手 を貸すからーあわてて言った。「お願い、一緒に逃げて」 いつも眉間に皺が寄り、やつれている母の顔に、ふいに老女のようなさらに深い 皺ができた。母は首を横に振った。「ローラ、兵士は名簿を持ってるの。まもなくト ラックに移されるだろうから、そのときには私たちが逃げたことに兵士はかならず 気づく。そうでなくても、どこへ行くの ? 」 「山に逃げるのよーとローラは言った。「道ならわかってる。山なら隠れられる洞穴 がたくさんある。それから、イスラム教徒の村に行って、助けてもらうの。もし、 助けてくれなければ : 「ローラ、このシナゴーグにはイスラム教徒もいたのよ。イスラム教徒もここに火一 をつけて、壊して、略奪して、大喜びしたんだよ。ウスタシャのようにね 「そんなのはほんのひと握りの人だけよ。乱暴者だけよ」 「ローラ、おまえの気持ちはよくわかる。でも、レナは病気で、ドラは小さすぎる」 113 蝶の羽九四〇サラエボ
男性の妻が玄関に立っていた。ロ 1 ラは顔を上げて、妻に気づいた。それは洗濯 物を取りにきたときに、コ 1 ヒーを出してくれた若い妻だった。ステラはローラに 気づかなかったが、ローラの変わりようを考えればそれも無理はなかった。この一 年でロ 1 ラはずいぶん年を取ったかのようだった。がりがりに痩せて、筋ばって、 髪は少年のように短かった。 ステラは不安そうに、ローラのやつれた顔を見て、それから夫の真剣な顔を見た。 男性が妻にアルバニア語で話しかけた。何を言ったのかロ 1 ラは理解できなかった が、ステラが目を大きく見開いたのがわかった。男性は静かに、けれど緊迫したロ 調でさらに何か言った。ステラは目を潤ませて、涙をレースのハンカチで拭うと、 ローラを見た。 「よく来てくださったわ、とステラは言った。「セリフーー夫の話では、あなたはず いぶんたいへんな思いをしたそうね。さあ、入って、体を洗って、食事をして、休 んでちょうだい。たつぶり眠ってから、これからどうするのがいちばんいいか相談 しましよう」セリフは穏やかな瞳に愛情と誇りを浮かべて妻を見た。ローラはその まなざ 眼差しと、それに応じてステラが頬を赤く染めたのに気づいた。こんなふうに誰か に愛されるのは大きな意義があることなのだろう、ふとそんな思いが頭をよぎった。 とセリフが言った。「夜にまた会おう。妻が 「私は博物館に戻らなければならない 146
けれど、夜の行進の中ほどに氷の張った川を渡った直後に、イサクは立ち止まって、 凍った松葉の上にへたりこんだ。 「どうしたの ? 」とローラは小声で尋ねた。 とイサクは言った。「氷が薄くなってるところがあって、そ 「足の : : : 感覚がないー こを踏んでしまった。足が濡れて、凍りついた。もう歩けない」 し。 ( し力ないわ」とローラは言った。「どこか隠れられるところ 「ここで止まるわナこよ、、 まで行かなくちゃ」 「ひとりで行ってくれ。もう歩けないから」 「足を見せて」ロ 1 ラは懐中電灯で、破れて穴のあいたイサクの革のプ 1 ツを照ら した。剥きだしになった指が凍傷で真っ黒になっていた。川で氷を踏み破るよりす っとまえに、凍傷になっていたのだ。どうにかして温めようと、ローラは手袋をは めた手でイサクの足を包んだ。けれど、そんなことをしてもどうにもならなかった。 かちかちに凍ったつま先は小枝のように脆く、ちょっと押しただけでポキリと折れ てしまいそうだった。ロ 1 ラはコ 1 トを脱いで地面に広げると、イナをその上に寝 かせた。イナの呼吸は浅く、不規則だった。脈を診たが、感じられなかった。 「ローラ」とイサクが言った。「おれはもう歩けないし、イナはまもなく死ぬ。きみ はひとりで行ってくれ
サヴァは用務員室にロ 1 ラを連れていくと、自分のコートを着せかけて、ジェズⅢ ヴェで淹れたコーヒーをカップに注いだ。ロ 1 ラはようやく口がきけるようになる と、パルチザンの部隊を追いだされてからのことを話した。話がイナの死に差しか かると、ことばに詰まった。サヴァはローラの肩に腕をまわして、体をそっと揺す った。 「助けてくれますか ? 」話し終えたローラは尋ねた。「助けられないなら、どうぞい ますぐウスタシャに引き渡してください。もう逃げられませんから」 サヴァはしばらく無言でロ 1 ラを見つめていたが、やがて立ちあがると、ロ 1 ラ の手を取った。そうして、一緒に財務省の建物を出ると、静かにドアに鍵をかけた。 無言で一プロック歩き、さらに一プロック歩いて、国立博物館に着くと、運搬用の 出入口からなかに入った。サヴァはドアのそばの目立たない場所に置かれたべンチ を指さして、待っているようにとロ 1 ラに身ぶりで示してから立ち去った。 サヴァはなかなか戻ってこなかった。どこかさほど遠くないところで響く足音が ローラの耳にも届いた。もしかしたら、置き去りにされたのだろうか、そんな思い がローラの頭をよぎった。けれど、疲れと悲しみでどんな感情も湧いてこなかった。 もはや生きるために何かをする気力さえなく、じっと坐って、待っているしかなか った。
った。ときが過ぎるにつれて、見つかるかもしれないという恐怖は薄れて、まもな く、カマル家の赤ん坊の乳母という穏やかな日常が、以前のパルチザンとしての生 活よりはるかにほんものらしく思えてきた。ステラにためらいがちなやさしい声で、 レイラという新しい名で呼ばれることにも置れた。赤ん坊のことも、初めて胸に抱 いた瞬間から愛しくてたまらなくなった。もちろん、ステラのこともさらに好きに なった。敬虔なイスラム教徒の女性であるステラは、大半の時間を家のなかで静か に過ごしているかに思えるが、教養ある父と夫を持っステラの知的好奇心は旺盛だ った。当初、ローラは父と同年代のセリフのことが少し怖かった。けれど、まもな あんど く、セリフの穏やかで洗練された態度に安堵感を抱くようになった。これまでに出 会った人々とセリフのどこが大きくちがうのか、しばらくはうまくことばで表現で オ、ある日、セリフはいくつかの問題に関して辛抱強く口ーラの話 きなかった。どか、 を引きだして、考える価値があるかのようにローラの意見に耳を傾けて、物事の全 体像がきちんと見えるようにそれとなく口ーラを導いた。そこで初めて、ローラは ほかの人とセリフのちがいがはっきりわかった。セリフはいままで出会った人のな かでもっとも教養がありながら、ローラに自分が馬鹿だとは微塵も感じさせないた だひとりの人だった。 カマル家の毎日は祈りと学習のふたつが軸になっていた。一日に五回、ステラは みじん