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検索対象: 呉漢(上)
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1. 呉漢(上)

と、なかば祗登に問い、なかばおのれに問うように呉漢はいった。 「三年、といったところだな」 おも 「わたしもそう意います。それから、どこへゆくのか : : : 」 あの雲のように、風まかせで、ながれてゆくしかないのか。そうおもうと、心が寒くなった。 でんいん この日から五日後に、狄師が田氏邸の客室にはいった。すぐに田殷が呉漢のもとにきて、 「りつばな剣士であると汝からきかされてはいましたが、まことにそ、つでした。あなたが客とし て連れてくる人は、良才ばかりだ。今年も不作なのに、わが家の収穫はふえたのです。あなた のおかげだ」 と、謝意をあらわにした。 ききん 「田殷どの、明年は、たぶん大飢饉となる。すでに祗登先生から教えられているとおもうが、禾 穀を売りいそいではなりません。今年、十倍に売れる穀物が、明年、百倍にもなる。さらに儲け っちょう た銭は、一朝にして価値を失いかねないので、その銭で牛馬を買いしめることをおすすめする。 政府は征伐のために軍旅を催すにちがいなく、かならず牛馬が不足するので、牛馬も百倍の値が つく。すなわち、あなたは明年、一万倍も儲けられる」 「ひやっ はがん こおど 飢田殷は破顔して小躍りした。 ちょ、つり - よ , っ 「だが、喜んでばかりはいられませんぞ。海内の東西南北で、賊が跳梁している。東と南の賊 カーた 175

2. 呉漢(上)

大飢饉 まゆ かす と、いってみた。太い眉をもった剣士は、微かに苦笑して、 「なんだ、われを知っておったか。われは亭長に目をつけられていたのかもしれぬな」 と、祗登にむかっていった。 「まあ、坐ろう」 ふたりの袖をつかんだ祗登がます坐った。かれは腰をおろした呉漢に、 てきし 「こちらはわれの友人で、狄師という。剣の達人だ。況糸を討つに際して、かれに助力しても ら / 、し玉 - っ えん らった。そのせいで、かれも宛にいられなくなった。いまは洛陽の豪族の客となっている」 と、説明した。うなずいた呉漢は、 かあん 「さようでしたか。祗登先生はご自身の不運にめげず、甥の夏安どのを助け、わたしのような無 たす 学な亭長を佐けてくれました。天のあわれみがようやく先生にとどいたというおもいです。本来 なら、先生の仇討ちをわたしが助けるべきなのに、あなたさまの手をわずらわすことになりまし た。ここでお礼を申します」 ていちょう と、狄師にむかって鄭重に頭をさげた。 「いやあ : : : 」 軽く横をむいた狄師は、わずかに祗登にささやいた。 目でうなずいてみせた祗登は、 「じつは狄師の仮寓に不快が生じている。その豪族が政府に協力して人数をさしだそうとしてい そで あだう 173

3. 呉漢(上)

大飢饉 「ひとり、会わせたい人物がいる」 」と - っ ごかん 、いかにも豪族の家とみえる大邸宅の近くまで行った。 と、いった祗登にみちびかれた呉漢は 「そこで、待っていてくれ」 わいおく 祗登が、そこ、といったのは、矮屋で、軒がかたむき、なかは無人であった。 あ や だいぶまえから空き家だな。 そうおもいつつ呉漢は、家のなかにはいらず、隣家との境に立っ土壁にそって奥にすすんだ。 さいえん 以前は菜園であったにちがいないところに、雑草が生い茂っていた。その草を折り曲げて敷物が わりにすると、腰をおろした。 ほどなく、家のなかから祗登の声がした。 「ここです た 呉漢は起った。この影を認めた祗登は、 「はは」 あ と、笑声を揚げ、 てんぞうそうま、 ていちょう 「天造草昧なり、か。亭長は、みずからそれを示している」 のき 171

4. 呉漢(上)

連座 と、祗登は意味ありげに笑った。 「われを売りこんだのですか : : : 」 祇登の意中を見通せない呉漢は苦笑するしかなかった。 三日後に、呉漢は祇登とともに母家に招きいれられた。なかに、田殷のほかにふたりいて、そ のふたりははじめてみる顔であった。田殷は呉漢と祗登に着座をすすめたあと、すこし横をむい きょはん 「となりに坐っているのが、孫の浹です。そのとなりは、知人の許汎さんです」 けんぶん と、いった。じつは、おふたりの見聞をおききしながら昼食をとりたくなりましてな、とにこ やかにいった田殷は、膳がはこばれてきたあと、ときどき質問しては、微笑し、うなすいた。 奇妙な会だな。 食事のあいだ、田浹と許汎はほとんど語らない。田浹は終始うつむきかげんであったが、耳を 澄ましてふたりの話をきいているようであった。許汎のまなざしはおもに呉漢にむけられ、箸を もつ手はあまり動かなかった。 食事を終えて、すこし雑談をしてから、母家をでた呉漢と祗登は顔をみあわせた。奇異な感じ をいだいたのは呉漢だけではない。 「あの許汎という人は、どういう人ですか」 「わからぬ。はじめてみた顔だ」 161

5. 呉漢(上)

義の軍であると信じつづけるには、むりがあります」 本音であった。 いま賊とよばれている者たちの大半は、王莽の苛酷な法がつくりだしたといえる。人民がなに しよじん に苦しみ、なにを望んでいるか。王莽が王宮からでて、いちどでよいから、庶人と膝をまじえて めいせき 語り合ってみれば、一日でわかり、法の弊害を除去することができよう。王莽の頭脳は明晰のは ずである。その明晰さを、自身のためだけではなく、人民のために発揮してもらいたい。 ぐしん 「良薬は、苦いものだ。王莽にはそれを飲む勇気がない。王朝には正しい意見を具申している者 あんぐ がすくなからずいる。それを聴こうとしない皇帝は暗愚にみえるが、頭が悪いわけではなく、勇 気がないというのがほんとうのところだ。王莽だけではなく、人としての成否は、勇気の有無に かかっている」 「勇気ですか : : : 」 呉漢は肩を落とした。自分に真の勇気があるとはおもわれない。 その肩をたたいた祗登は、 「勇気の所在は、みかけではわからぬ」 歩行をはやめた。通りに人が多いので、わきみをしていると、その後ろ姿を見失い そうになる。 洛陽見物はあとだ。 ほんね おう 4 も - っ 158

6. 呉漢(上)

青い気柱 ひっし 侵すのは必至だ」 郵解が巷衢で拾ってこなくても、亭の周辺を歩いただけでも呉漢の耳に飛び込んでくる声は、 そういうものであった。 中央政府は、軍を二分して、東西にむけているのか。 官軍の戦略の実態はわからないが、賢いやりかたではないような気がした。西方より東方のほ ぼくめつ うがはるかに人口は多く、そこで立った赤眉の賊が巨大化するまえに撲滅すべきではあるまいか 王朝にとって実害になるのは、西方より東方の賊である。宛の一亭長にすぎない呉漢でもわかる ことが、皇帝と輔相にわからないのが、ふしぎであった。 とにかく不穏な一年であった。 年末に、魏祥が暗い顔をしていた。 わる 「凶い風が吹いているか」 と、呉漢は問うた。 「冬であるのに、南風が吹いています。南風は万物を生育させ、天下に豊かさをもたらします。 いわば天下泰平の風であるのに、わたしには凶風であると感じられます」 「緑林の賊が、年明けとともに動くのかな」 呉漢はそう解釈したが、実際はもっと苛酷な事態が待っていた。 ちこう 新年を迎えると同時に改元がおこなわれ、地皇元年となった。 147

7. 呉漢(上)

青い気柱 る、と仰せになった。改元すれば盗賊が消えるなら、郡国の兵は要らない。来年は、新しい元号 になるとさ」 「亭長、いまの王朝は、だいじようぶですか」 まがお 郵解は真顔になって問うた。 「さあて、どうかな」 呉漢は郵解の問いをはぐらかすつもりはないが、立場上、いまの王朝が数年のうちに倒れる、 とはいえない。しかし配下としてよく働いてくれている郵解を、突然、放りだすようなことをし たくないので、 いきなり崩壊はしない。われはいまの皇帝が悪人であるとはおもっていな 「王朝というものは、 ひせん いので、王朝が傾きはじめたら、それを支える側にまわるだろう。われのような卑賤な者を、亭 長として拾いあげてくれた政府に、多少の恩返しはしたいからだ。だが、なんじにそういう義理 はあるまい。正しいとおもう者のもとへ趨ってゆけばいいさ」 A 」、「況いに 「亭長・ーー」 郵解はむきになった。呉漢が政府に拾われたのであれば、自分は呉漢という個人に拾われた。 つくすべき義理がないというのは、なさけないいいかたではないか。 「わたしには折り合いの悪い兄がいますが、その兄の家をでてから、天涯孤独です。しかし亭長 おお 145

8. 呉漢(上)

なんじゃく の奇瑞にあたるはすなのだが、その奇瑞の下にいる人物が、いかにも軟弱だ」 ここで祗登が語ったことが、のちに呉漢の命運のなかで活きてくるのだが、さすがの祇登もそ こまでは見通せなかった。 ききん この年、飢饉である。 「頭が痛いー 」′ ( 、ほう と、呉漢は愁えた。農産物が不作になると、かねて重税に苦しんできた農民たちは、酷法に耐 えきれず、田を棄てて逃げ去ってしまう。流民となったかれらが、すべて盗賊になるわけではな いが、盗賊が増えることはまちがいかない。しかも放棄された田をかわりに耕す者はおらず、荒 まんせい 廃するばかりなので、農業の生産力は低下しつづけ、漫性的な不作におちいる。 冬のあいだ、 「多くの農民が、南へ南へと逃げています。おそらく緑林山へ逃げこむのでしよう」 と、しばしば郵解が告げにきたが、新年になると、 「昨年、琅邪郡で、大きな叛乱があったようです。一昨年、呂母を奉戴した賊の残党が、勢いを 盛りかえしたのでしよう。官軍が鎮圧にむかっても、勝ったとはきこえてこないので、手を焼い ているにちがいありません と、郵解は呉漢に語った。 「そうかい。いまに諸郡は盗賊ばかりになる。皇帝は盗賊の多さに辟易して、六年に一度改元す へきえき 144

9. 呉漢(上)

と、いった。 春陵の地に立ち昇る青い気を蘇伯阿はみてきた。 「よいか、青い気は、万物を生育させる気だ。その気によって人も物も生まれ育つ。しかも春陵 もと、 はくすい の旧名は白水郷だ。万民の財の基も、そこにある。となれば、舂陵の劉氏が次代の主導者になる ことを、天が教えている」 「先生がそうおっしやるのなら、そうでしよう。しかし、春陵の劉氏の当主が、天下を治めるほ どの英傑でしようか。かんばしい評判はまったくききませんが 「ふつ」 わら と、祗登は鼻で哂った。 「昔、舂陵へ行ったことがある。王莽が皇帝になる年より、はるかまえだ。当主の春陵侯は、 かしゅ まの家主の父で、なるほど傑物ではあったが、正義感をあらわにしすぎて、王莽に睨まれ、けっ が .0- よ・つ きよく畏縮した。その子、つまりいまの家主は、、 父より器は小さいときく。臥龍が風雲をとら えて天に昇る、といった大器ではけっしてない」 「いまの春陵劉氏は、劉邦のようにはならない 、とおもってよろしいですね」 「そこだ、謎は ひざ 祇登はおのれの膝をくりかえしたたいた。 きずい 「天下取りにかかわる者は、かならす奇瑞をもっている。白水という文字も、蒼然たる気も、そ 142

10. 呉漢(上)

青い気柱 ふくしゅ・つ りよぽ なく、呂母と呼ばれる平民の女であった。自分の子が県宰に不当に殺されたことを怨み、復讎 のために若者たちを手なずけて一挙におよんだ」 「へえーー」 さすがに呉漢は驚嘆の声を揚げた。叛乱軍の首領が女であったことが、かってあるのか。 ゆが ただ 「厳しい法は、世を匡すが、厳しすぎると、世を歪める。これも秦の末の政情とおなじだ。蘇公 あの山は、すでに賊にとって長大な城となっている。 は緑林の賊について多くは語らなかったが、 し小 - っしょ・つ 南陽郡は王朝にとって要衝なので、郡兵が多い。それが緑林の賊にはわかっているため、すぐ ヂ」 - つりや / 、 に郡を寇掠することはあるまいか、かならず官軍と戦うときがくる。王朝は多難だ。緑林の賊 ちんしようご だけが敵ではないと知るときがこよう。諸豪族が起する。それらのなかに、往時の陳勝と呉 一」 - っ・つ 」・つり・ゅ - つほ・つ 広、劉邦と項羽のごとき者が、かならずいる。亭長は立場上、官軍の伍長として戦場にでるか もしれないが、敵のなかに劉邦のごとき者がいれば、その者に帰属することを、ためらってはな らない 「はあ・ : : ・」 書物を読まない呉漢でも、劉邦と項羽の名くらいは知っている。しかし世が乱れて、各地で豪 じりつ 族が峙立したとき、たれが次代の主導者になるのかを、どのようにしてみわけるのか。この呉漢 の困惑顔をみて目で笑った祇登は、 「ひとつ、手がかりがある」 141