連座 と、祗登は意味ありげに笑った。 「われを売りこんだのですか : : : 」 祇登の意中を見通せない呉漢は苦笑するしかなかった。 三日後に、呉漢は祇登とともに母家に招きいれられた。なかに、田殷のほかにふたりいて、そ のふたりははじめてみる顔であった。田殷は呉漢と祗登に着座をすすめたあと、すこし横をむい きょはん 「となりに坐っているのが、孫の浹です。そのとなりは、知人の許汎さんです」 けんぶん と、いった。じつは、おふたりの見聞をおききしながら昼食をとりたくなりましてな、とにこ やかにいった田殷は、膳がはこばれてきたあと、ときどき質問しては、微笑し、うなすいた。 奇妙な会だな。 食事のあいだ、田浹と許汎はほとんど語らない。田浹は終始うつむきかげんであったが、耳を 澄ましてふたりの話をきいているようであった。許汎のまなざしはおもに呉漢にむけられ、箸を もつ手はあまり動かなかった。 食事を終えて、すこし雑談をしてから、母家をでた呉漢と祗登は顔をみあわせた。奇異な感じ をいだいたのは呉漢だけではない。 「あの許汎という人は、どういう人ですか」 「わからぬ。はじめてみた顔だ」 161
じつは政治の質の高低をあらわすことになるのだが、王莽にかぎらず、王朝の運営にかかわる大 臣には、行政的な神経のこまやかさをもちあわせている者がすくなかった。 とにかく、呉漢は祗登ひとりを得たことで、事務能力が向上しただけではなく、はじめて生活 にゆとりをもっことができた。 「宛の亭長である呉子顔は、羽ぶりがよいらしい」 この近隣の評判が郡外にもひろがり、呉漢に認められて客として待遇されたい者がふえた。か れらの人物鑑定は呉漢自身もおこなったが、おもに祇登にまかせた。客室は五室あるが、それら のひとつは祇登がっかっている。 「ほかの四室のうち、一一室はつねに空けておき、侠客をきどる者や裏街道を歩く者を泊めてやれ ばよい。亭長であれば、法の外にいる者たちについても知っておく必要があり、かれらから情報 を採取できる」 と、祗登は助言した。 この年の末に、 「ひさしぶりですね」 ゅ・ - つかー あか いって、呉漢に会ったのは、旅の垢にまみれたような郵解である。以前とちがって、呉漢 にむかった郵解はずいぶん腰が低い。かって郵解について祗登は、 かんけん 「あいつは官憲の狗だ」 しがん 121
「かれこそ大計を知る」 と、鄧禹を尊重しつづけた。 鄧禹は多くの人と会い、 = 諞ることを好むので、来訪者をこばまなかった。祗登の名をすぐには おも 億いだせなかったが、蔡陽出身者であるときいただけで、 「会お、つ」 いった。 はくしゅ 白鬚の祇登をみた鄧禹は、 ) つうか 「もしや、あなたの家とわが家は、通家ではあるまいか」 と、きりだした。急に記億がよみがえったのである。目で笑った祗登は、 「父祖の代からのつきあいです。ただし、わたしの家は、あなたが生まれるまえに、消滅しまし と、鄧禹の年齢を推定しながらいった。鄧禹はこの年に二十三歳である。劉秀自身も三十代に なったばかりであるから、この軍は若さに満ちているといえる。 「やはり、そうでしたか。父からあなたの家についてきかされたことがあります。わが家は、あ なたの家に助けられたことがある。また、あなたの家の惨事も知っています」 「そうですか」 祇登はおだやかさを保ち、感傷をみせなかった。 320
横ながし 「副手代だ。伯通さまがお決めになったことだ。われにこまごまと問うな」 「それにしても、多すぎますね」 か′ . 、よもん 一考した呉漢は、それ以上は問わす、軽く頭をさげて、農場をあとにした。宛の郭門をすぎた ところで、人影が近づいてくるのを感じた。 呉漢に寄り添ったのは、祇登である。 「あっ、あなたはーーー」 「しつ、黙って、われについてこい」 祗登は人目をはばかるように、呉漢を小巷につれこんだ。再度、左右に目をくばった祇登は、 呉漢に顔を近づけて、 「われについて、きいたことがあるだろう」 と、するどくいった。 かた 「あなたが宛の人夫の銭を騙り取ったとききました」 ぬぎぬ 「ふん、われがそんなけちなことをするかよ。われに濡れ衣をきせて、他人の銭をうけとったや つがいる。悪評をきいたので、われはふたたび紅陽へゆき、たしかめてきた。銭のうけとり人も、 われではない、 と一筆、書いてもらってきた。それが、これよ」 と、祗登は証明書がわりの牘をみせた。 しょ・つ」 - っ
ふんがい 祇登は腹を立てたらしく、語気がするどくなった。この貭既ぶりをみても、祗登が奸猾な人で はないことがわかる。 「しかたなく角斗が穀物を盗んでかれらに渡すと、弟はかえされたのですが、味をしめたかれら は、おなじ時期にやってきては、角斗と弟を恫して、盗みをおこなわせた。夜間、かれらは農場 と の外に車を駐め、角斗の手びきでなかにしのびこむという手口です」 角斗が悪事をおこなっていることは、うすうす気づいたさ」 「そいつは知らなかった。が、 彭氏の農場では、夜間に警備をおこなう者がきわめてすくない。外からなかにしのびこむのは 容易であろう。そこまではよくわかったという顔の祗登は、 「だが、なんじは角斗を彭氏へ突きださず、事をおさめたようだが、どういう手を打ったのか」 ゅこっかー、 「郵解さんをつかわせてもらいました」 祗登は足をとめて、呉漢の肩をたたいた。 かんけん 、あいつは官憲の狗だ。まちがいない。あちこちの豪族の不正をさぐるために賃作 「郵解か : をおこなっている」 体 めずらしく呉漢が笑った。 正 登「わたしもひと月ほどまえに、友人と釣りに行ったときに知りました。ふたりで舟のなかに休ん でいると、近くの草むらから声がながれてきました。それが郵解さんと吏人の話し声でした。郵 かんかっ
河北の春 ゅう ききしにまさる寒さとは、幽州の久、をい、つ 十二月になれば、すべての道は氷雪で閉ざされる。 それでもうわさは飛び交、つのであるから、ふしぎというしかない りじん きと - っ ごかん 呉漢の従者は、祗登をのぞいて、すべて県の吏人となった。祇登だけは、 「この歳になって、県庁づとめはごめんだ」 というので、呉漢の客のままである。なるほど祗登はまもなく六十歳である。たとえ県の上級 吏人になっても、規則にしばられるきゅうくっさはいやなのであろう。 「客の気ままさがよい」 県の吏人程度で喜べるか、というのが本音であろう。 といって、祇登は笑ったが、 子 / 、カ おお この人には、なにか巨きな力がある。 MJ と - っ はんか、 ゅこっか と、呉漢の魅力に惹かれてきた五人、すなわち郵解、角斗、魏祥、左頭、樊回は、にわかに てばな 吏人になったことを手放しで喜んだ。かれらの歓喜を、目を細めてみた呉漢は、角斗と魏祥を呼 ギ」しょ・つ ほんわ 251
横ながし 「そうですか。自分では、気づきませんでした」 ゅ - つか : 農場にはいると、めざとく郵解が寄ってきた。 「なんじは、途中で消えたな」 「宛の家族が心配で、帰りました。そのため一銭もうけとれませんでした。あなたは二倍の銭を うけとったのですか 「ああ、もらったさ。紅陽侯は人夫をあざむくようなことをしなかった。それどころか、安衆侯 、皀こ帚った者たちの銭も支払ったとい、つことだ」 の乱をきいて宛しリ 初耳である。 「乱のあと、われは紅陽へ行かなかったので、銭をもらいそこなったということですか」 呉漢は嘆息した。 「そうではない。宛へ帰った者たちにとどけるから、といって、まとめて銭をうけとった者がい るのさ。そいつは、たしか、祗登といって、ここでも顔をみかけたことがある。つまり祇登はな ふところ んじの銭もふくめて、他人の銭を懐にいれて、姿をくらましやがった」 「えつ、あの祗登が : : : 」 呉漢は絶句した。この話がほんとうであるとすれば、呉漢だけではなく宛から紅陽へ働きに行 った者をたぶらかしたのは、祗登ということになる。 まさかなあ。
と、いった。 「況糸 : : : 」 祗登が京師にのばるまえにはいなかった食客である。それゆえ容貌がわからない。その使用人 から顔つきを教えてもらったあと、棘陽へゆき、姉に会った。 涙をながしながら弟の話をきいた祗瑛は、 「況糸が父母と弟の仇であるとしても、わたしはここから動けません。しかしあなたが仇を討っ たす まで、扶けつづけることはできます。夫も、義侠の心が篤い人なので、かならずあなたに力を貸 してくれます」 きぜん と、毅然としていった。 姉にそ、ついわれてしまったかぎり、仇討ちをしなければならなくなった祇登は、そのとき二十 代のなかばであり、以後、十数年間、仇を捜す旅をつづけた。ところがその間に、姉が亡くなり、 姉の夫も亡くなったため、祗登は支援者を失い、やむなく各地の豪族の食客となり、さらに賃作 をおこなって、食いつないだ。 ばかな人生だ。 体 一言でいえば、そ、つである。仇を討ったところで、称めてくれる人も、喜んでくれる人もいな 正 の 登い すべてが徒労である。虚しくついやした歳月をとりもどすすべはないものか。そんなおもい で、地をみつめていたとき、似たようなまなざしで地を視ている若者が近くにいた。それが呉漢 あっ
まゆ 況巴という名をきいても、祇登は眉ひとっ動かさず、静かに目で笑って、 「それは、よかった」 オししい、すぐに角斗に目語して、ふたりで室外にでた。 事情を知った祇登は、ため息をついた。 「あの者は、われが父の仇であることを知らないということか : 「魏祥と郵解も、ロが裂けても、そのことをあの儒生に告げません」 「だが、いっか知るであろうよ」 「そうでしようか。県令はあの儒生に檄文を書かせるだけで、登用するわけではないでしよう」 角斗はロをとがらせた。 「いや、かならず登用する。呉子顔はそういう人だ。だからまず況巴をわれにみせた」 「めんどうな人をかかえこむだけです」 いや、そうではあるまい。 「そうかな : これは県令のわれへのおもいやりだ。われは仇討ち びめい という美名のもとに、人ひとりを殺した。じつはそれによって、その人の子さえ殺しかけたのに、 あん 県令はその子を救った。ほんとうに救うことになるのは、これからだ、と暗にわれにいった」 「へえ、そうなりますか」 そんすう 角斗は首をふった。かれも祗登を尊崇している。あんな馬の骨を珍重して、祇登というかけが えのない人を失ってたまるか、という強い意いがある。 ゅ・つか 280
呉漢は怒るよりも悲しくなった。紅陽から帰ったあとも、祗登への敬意を失わなかった。かれ のことばには人の胸を打っ真実のひびきがあった。あれほどすぐれたことをいう者が、それほど 汚いことをするであろうか 話半分か おも 急にそのことばを憶いだして、救われたような気分になった。郵解のいったことは、半分は妄 おも だ。そう意ったことはたしかであるが、別の想念が生じた。 こ、つい、つことであ・る まこと かんべっ 人の話のなかの妄と信をいちいち鑑別することはとうていむりである。また、そのときは妄だ た とおもわれたことが、時間が経ってから、信に変わることもあろう。それゆえ、人の話を半分に あ 割ることは理に適わない。つまり話半分ということは、きいたという事実を一とすれば、その半 あ 分に縮小しておくということではないのか。そうすれば半分が空く。たとえばいま、祗登にかぎ 、とおもったのであれば、そのおもいを、空いた半分にいれて ってそんなことをするはすがない おく。話半分、とは、そ、ついうききかたをいうのではないか。 呉漢の表情がすこし晴れた。この微妙な変化に気づいた郵解は、 「なんじの銭は横どりされたんだぞ。祗登を怨まないのか」 と、なじるよ、つにいった。 「特別な梯子にのばるには、銭が要るということでしよう。祗登が前払いしてくれたんですよ」 0