横ながし 「そうですか。自分では、気づきませんでした」 ゅ - つか : 農場にはいると、めざとく郵解が寄ってきた。 「なんじは、途中で消えたな」 「宛の家族が心配で、帰りました。そのため一銭もうけとれませんでした。あなたは二倍の銭を うけとったのですか 「ああ、もらったさ。紅陽侯は人夫をあざむくようなことをしなかった。それどころか、安衆侯 、皀こ帚った者たちの銭も支払ったとい、つことだ」 の乱をきいて宛しリ 初耳である。 「乱のあと、われは紅陽へ行かなかったので、銭をもらいそこなったということですか」 呉漢は嘆息した。 「そうではない。宛へ帰った者たちにとどけるから、といって、まとめて銭をうけとった者がい るのさ。そいつは、たしか、祗登といって、ここでも顔をみかけたことがある。つまり祇登はな ふところ んじの銭もふくめて、他人の銭を懐にいれて、姿をくらましやがった」 「えつ、あの祗登が : : : 」 呉漢は絶句した。この話がほんとうであるとすれば、呉漢だけではなく宛から紅陽へ働きに行 った者をたぶらかしたのは、祗登ということになる。 まさかなあ。
連座 と、祗登は意味ありげに笑った。 「われを売りこんだのですか : : : 」 祇登の意中を見通せない呉漢は苦笑するしかなかった。 三日後に、呉漢は祇登とともに母家に招きいれられた。なかに、田殷のほかにふたりいて、そ のふたりははじめてみる顔であった。田殷は呉漢と祗登に着座をすすめたあと、すこし横をむい きょはん 「となりに坐っているのが、孫の浹です。そのとなりは、知人の許汎さんです」 けんぶん と、いった。じつは、おふたりの見聞をおききしながら昼食をとりたくなりましてな、とにこ やかにいった田殷は、膳がはこばれてきたあと、ときどき質問しては、微笑し、うなすいた。 奇妙な会だな。 食事のあいだ、田浹と許汎はほとんど語らない。田浹は終始うつむきかげんであったが、耳を 澄ましてふたりの話をきいているようであった。許汎のまなざしはおもに呉漢にむけられ、箸を もつ手はあまり動かなかった。 食事を終えて、すこし雑談をしてから、母家をでた呉漢と祗登は顔をみあわせた。奇異な感じ をいだいたのは呉漢だけではない。 「あの許汎という人は、どういう人ですか」 「わからぬ。はじめてみた顔だ」 161
じつは政治の質の高低をあらわすことになるのだが、王莽にかぎらず、王朝の運営にかかわる大 臣には、行政的な神経のこまやかさをもちあわせている者がすくなかった。 とにかく、呉漢は祗登ひとりを得たことで、事務能力が向上しただけではなく、はじめて生活 にゆとりをもっことができた。 「宛の亭長である呉子顔は、羽ぶりがよいらしい」 この近隣の評判が郡外にもひろがり、呉漢に認められて客として待遇されたい者がふえた。か れらの人物鑑定は呉漢自身もおこなったが、おもに祇登にまかせた。客室は五室あるが、それら のひとつは祇登がっかっている。 「ほかの四室のうち、一一室はつねに空けておき、侠客をきどる者や裏街道を歩く者を泊めてやれ ばよい。亭長であれば、法の外にいる者たちについても知っておく必要があり、かれらから情報 を採取できる」 と、祗登は助言した。 この年の末に、 「ひさしぶりですね」 ゅ・ - つかー あか いって、呉漢に会ったのは、旅の垢にまみれたような郵解である。以前とちがって、呉漢 にむかった郵解はずいぶん腰が低い。かって郵解について祗登は、 かんけん 「あいつは官憲の狗だ」 しがん 121
と、いった。 「況糸 : : : 」 祗登が京師にのばるまえにはいなかった食客である。それゆえ容貌がわからない。その使用人 から顔つきを教えてもらったあと、棘陽へゆき、姉に会った。 涙をながしながら弟の話をきいた祗瑛は、 「況糸が父母と弟の仇であるとしても、わたしはここから動けません。しかしあなたが仇を討っ たす まで、扶けつづけることはできます。夫も、義侠の心が篤い人なので、かならずあなたに力を貸 してくれます」 きぜん と、毅然としていった。 姉にそ、ついわれてしまったかぎり、仇討ちをしなければならなくなった祇登は、そのとき二十 代のなかばであり、以後、十数年間、仇を捜す旅をつづけた。ところがその間に、姉が亡くなり、 姉の夫も亡くなったため、祗登は支援者を失い、やむなく各地の豪族の食客となり、さらに賃作 をおこなって、食いつないだ。 ばかな人生だ。 体 一言でいえば、そ、つである。仇を討ったところで、称めてくれる人も、喜んでくれる人もいな 正 の 登い すべてが徒労である。虚しくついやした歳月をとりもどすすべはないものか。そんなおもい で、地をみつめていたとき、似たようなまなざしで地を視ている若者が近くにいた。それが呉漢 あっ
ふんがい 祇登は腹を立てたらしく、語気がするどくなった。この貭既ぶりをみても、祗登が奸猾な人で はないことがわかる。 「しかたなく角斗が穀物を盗んでかれらに渡すと、弟はかえされたのですが、味をしめたかれら は、おなじ時期にやってきては、角斗と弟を恫して、盗みをおこなわせた。夜間、かれらは農場 と の外に車を駐め、角斗の手びきでなかにしのびこむという手口です」 角斗が悪事をおこなっていることは、うすうす気づいたさ」 「そいつは知らなかった。が、 彭氏の農場では、夜間に警備をおこなう者がきわめてすくない。外からなかにしのびこむのは 容易であろう。そこまではよくわかったという顔の祗登は、 「だが、なんじは角斗を彭氏へ突きださず、事をおさめたようだが、どういう手を打ったのか」 ゅこっかー、 「郵解さんをつかわせてもらいました」 祗登は足をとめて、呉漢の肩をたたいた。 かんけん 、あいつは官憲の狗だ。まちがいない。あちこちの豪族の不正をさぐるために賃作 「郵解か : をおこなっている」 体 めずらしく呉漢が笑った。 正 登「わたしもひと月ほどまえに、友人と釣りに行ったときに知りました。ふたりで舟のなかに休ん でいると、近くの草むらから声がながれてきました。それが郵解さんと吏人の話し声でした。郵 かんかっ
安衆侯の乱 「そうですね。それはよいのですが : : : 」 「ほかに、こまることはあるまい 祗登は呉漢の困惑ぶりを楽しむようにうす笑いを浮かべた。 「話半分、とい、 2 、とについてです」 「それがどうした」 「人の話は、半分が妄であるとすれば、あなたの話にも、おなじことがいえます。それで、こま っているのですー 「こやっ 祗登は嚇と呉漢を睨んだ。が、呉漢はおびえもせす、 「見聞を広めるのも、考えものです。識れば知るほど、真実から遠ざかることになりかねない かといって、 ~ 知ではど、つしよ、つもない。見ることと聞くことは、それほどむずかしいとい、つこ とでしようか」 と、自問自答するよ、つにいった。 祇登は怒るよりもむしろあきれたように呉漢をながめはじめたが、やがて、 「おもしろい男だとはおもっていたが、なるほど、そうだ。なんじは大物になるぜ」 と、称めた。 この日から、祇登はつねに呉漢の近くにいるようになり、自分のこどもほどの年齢の呉漢にぞ
く動き、ほかの若者たちの作業に弛みをもたせなかった。 農場内に郵解はいなかったが、祗登の顔はあった。かれはさりげなく呉漢に近づいてきて、 「不良少年どもを、うまく手なずけたじゃないかー と、からか、つよ、つにいった。 呉漢は苦笑した。この笑いのなかに哀しみをひそませた。 「一家の次男や三男は、生業に就くすべがありません。生きてゆく張りが失われた者たちのなか で、ここにきて働いている者は、不良ではありませんよ」 「ふん、まあ、そうか」 その目は笑っていた。じつは内心、 祗登はあえて冷淡にいったが、 こやつはずいぶん成長したな。 と、驚嘆していた。数年まえの呉漢は、寡黙で陰気な青年にすぎなかった。かれは人に近づか す、人もかれに近づかなかった。ところがいまのかれの人気ぶりはどうであろう。年齢は二十四、 きょ・つか / 、 あ・こ ぶらい 五であろうが、無頼の少年どもを頤でつかう、ちょっとした侠客になれそうである。呉漢の性 せいへき 格には、人助けを好む性癖がありそうなので、義侠の道へすすみそうだが、闇の世界に足を踏 旧みいれてもらってはこまる。 の 登 彭伯通に見込まれているかぎり、そうはなるまいか : と、考えている祗登は、おのれの関心が呉漢ばかりにむけられていることに気づき、われとし たる ギ」善」よ・つ
「かれこそ大計を知る」 と、鄧禹を尊重しつづけた。 鄧禹は多くの人と会い、 = 諞ることを好むので、来訪者をこばまなかった。祗登の名をすぐには おも 億いだせなかったが、蔡陽出身者であるときいただけで、 「会お、つ」 いった。 はくしゅ 白鬚の祇登をみた鄧禹は、 ) つうか 「もしや、あなたの家とわが家は、通家ではあるまいか」 と、きりだした。急に記億がよみがえったのである。目で笑った祗登は、 「父祖の代からのつきあいです。ただし、わたしの家は、あなたが生まれるまえに、消滅しまし と、鄧禹の年齢を推定しながらいった。鄧禹はこの年に二十三歳である。劉秀自身も三十代に なったばかりであるから、この軍は若さに満ちているといえる。 「やはり、そうでしたか。父からあなたの家についてきかされたことがあります。わが家は、あ なたの家に助けられたことがある。また、あなたの家の惨事も知っています」 「そうですか」 祇登はおだやかさを保ち、感傷をみせなかった。 320
横ながし 「副手代だ。伯通さまがお決めになったことだ。われにこまごまと問うな」 「それにしても、多すぎますね」 か′ . 、よもん 一考した呉漢は、それ以上は問わす、軽く頭をさげて、農場をあとにした。宛の郭門をすぎた ところで、人影が近づいてくるのを感じた。 呉漢に寄り添ったのは、祇登である。 「あっ、あなたはーーー」 「しつ、黙って、われについてこい」 祗登は人目をはばかるように、呉漢を小巷につれこんだ。再度、左右に目をくばった祇登は、 呉漢に顔を近づけて、 「われについて、きいたことがあるだろう」 と、するどくいった。 かた 「あなたが宛の人夫の銭を騙り取ったとききました」 ぬぎぬ 「ふん、われがそんなけちなことをするかよ。われに濡れ衣をきせて、他人の銭をうけとったや つがいる。悪評をきいたので、われはふたたび紅陽へゆき、たしかめてきた。銭のうけとり人も、 われではない、 と一筆、書いてもらってきた。それが、これよ」 と、祗登は証明書がわりの牘をみせた。 しょ・つ」 - っ
ことは、充分に承知だろう。重臣のなかでは、朱仲先どのが宛の出身なので、あの人が主の不利 になるうわさを劉公に吹き込んだのかもしれない」 ギ」しょ・つ うつぶん ひごろおとなしい魏祥も、呉漢が冷遇されていることに、鬱憤をかかえはじめていた。 ふくよう 「おい、おい、めったなことをいうな。朱仲先どのは幼いころに父を喪ったので、宛から復陽 へ移っている。亭長のことも知るまいよ」 と、祗登がみなをたしなめた。 「先生は、そんなことまで、ご存じなのですか」 祗登の弟子といってよい角斗が感心してみせた。 ゅ - ・つかし おくそく 「郵解が教えてくれたのさ。かれの耳は、陣中でも役に立つ。憶測で判断すると、大事なところ で大まちがいをおかす。魏祥は人の声をきくより、風の声をきいたほうが、まちがいがすくな 「はい、そうします」 魏祥は首をすくめた。 めいてつ ごしがん 「劉公は神のごとき明哲さをもっている。たとえ呉子顔が闇にかくれようと、その明察をもって 闇を裂き、その異才を照らしだすであろう。しばらくの辛抱だ」 そう強くいった祇登は、鄧禹が戦陣から帰るのを待ち、ひそかにかれに会いに行った。鄧禹は さいよ - っ 新野県の出身であり、蔡陽出身の祗登はかれの祖父と父を知っている。 しんや 318