青い気柱 さらに南へすすんで、緑林山をはるかに望んでから引き返した蘇伯阿は、帰途、呉漢の亭に立 あ ひんかく ち寄った。呉漢と祗登はこの賓客を、もろ手を挙げて歓迎した。 蘇伯阿を上座にいざなった祇登は、 「夏家に盈ちた歓声を、きいてもらいたかった。蘇公の恩は、生涯、忘れぬ」 と、 、長々と低頭した。目を細めてうなずいた蘇伯阿は、 」ししュ / 「われは夏氏を救、つことによって、棘陽の宰も助けた。これほど気分のよい旅はない、 けねんふってい いところであるが、郡界の治安はよくなかった。天子のご懸念を払底させるような吉報を持って かえることができないのは、残念である」 と、いった。勘のよい祗登は、 「緑林の賊ですか」 としいつつ、首をあげた。 そうぜん 「ふむ : そういえば、春陵でおもしろいものをみた。蒼然たる気が鬱々と立っていた。あそ り・ゅ - っ 「以前は、劉氏の侯国でした。いまは、平民になりさがっていますから、豪族の地といってよ いでしよう」 と、祇登は説いた。 へんたい すいよう 「なるほど、貶退された劉氏の郷か。それでも地が悴容をみせず、生色をみせているのは、な み と かん せいしょ / 、 139
家と田 ていちょう 「よう、亭長、すいぶん評判が良いじゃないか」 」と - っ これが祇登の第一声であった。 4 も ご一かん うれしげに頭をさげた呉漢は、わすかに手を揉み、 「お待ちしていました。助けていただきたいことがありますー そしょ - っ と、この珍客を官舎へいざなった。そこで、訴訟に関することが、うまくさばけない、 いてみせた。 「おい、おい。われを書記官にするつもりか」 微笑しながら室内をながめた祗登は、 「なんじの客となって、助けてやってもよいが、この狭さは、不満だな。数人の客を養えるほど 大きな家を建てよ。それができたら、きてやるー いった。 「まことに ものし 勿哉り・であ一るこ 呉漢は目を輝かせた。祗登の学殖がどれほどか、たしかめたことはないか、言 こもん とはまちがいなく、また性質に卑しさがないこともわかっている。呉漢にとって最適な顧問であ せま と ~ 哽 111
たことが、とあえて冷笑した。しかし彭氏の農場で、はじめて呉漢をみかけたときから、 あの男には、尋常ならざるなにかがある。 と、強く感じた。この直感を大切にしたいとおもい、宛からなるべく離れないようにしたので ある。 さいし一つ ちょうあん 祗登の生まれは南陽郡の南部にある蔡陽である。富家に生まれたため、十代で長安にのばって、 ゅうらん ぜいたく 数年間留学し、それが厭きると荊州と豫州を遊覧した。馬車と従者が付いている贅沢旅である。 が、この旅の途中で、豊かさから突き落とされた。 ざいぶつ 家が盗賊に襲われて、両親と弟は刺し殺され、財物はすべて奪われ、放火されて建物の大半を わざわ きょ / 、し小う 失った。この禍いをまぬかれたのは、旅行中の祇登とすでに棘陽県の豪族の家に嫁いでいた姉 きえい の祇瑛だけであった。 いっせき 祗登の家は、一タに歿落した。 泣きわめきつつ蔡陽にもどった祇登は、使用人であった者たちを捜しだして、事件の真相をつ さとめよ、つとした。 かれらのなかのひとりが、 「盗賊はすべて覆面をしていたので、正体はまったくわかりませんが、首領らしき男の剣にみお けんば、 しよっかく ばえがありました。あの剣佩は異様に白く、それを所持していたのは、食客のひとりであった 況糸です。あの者は、ご主人に養われていながら、恩を仇でかえしたのです」
く動き、ほかの若者たちの作業に弛みをもたせなかった。 農場内に郵解はいなかったが、祗登の顔はあった。かれはさりげなく呉漢に近づいてきて、 「不良少年どもを、うまく手なずけたじゃないかー と、からか、つよ、つにいった。 呉漢は苦笑した。この笑いのなかに哀しみをひそませた。 「一家の次男や三男は、生業に就くすべがありません。生きてゆく張りが失われた者たちのなか で、ここにきて働いている者は、不良ではありませんよ」 「ふん、まあ、そうか」 その目は笑っていた。じつは内心、 祗登はあえて冷淡にいったが、 こやつはずいぶん成長したな。 と、驚嘆していた。数年まえの呉漢は、寡黙で陰気な青年にすぎなかった。かれは人に近づか す、人もかれに近づかなかった。ところがいまのかれの人気ぶりはどうであろう。年齢は二十四、 きょ・つか / 、 あ・こ ぶらい 五であろうが、無頼の少年どもを頤でつかう、ちょっとした侠客になれそうである。呉漢の性 せいへき 格には、人助けを好む性癖がありそうなので、義侠の道へすすみそうだが、闇の世界に足を踏 旧みいれてもらってはこまる。 の 登 彭伯通に見込まれているかぎり、そうはなるまいか : と、考えている祗登は、おのれの関心が呉漢ばかりにむけられていることに気づき、われとし たる ギ」善」よ・つ
きょ / 、し一つ 「しかし、先生は、棘陽の夏家では、貴重な存在になっておられるのでしよう。そこをでて、 へいたく 弊宅へ移ってこられることなど、あるのでしようか」 かあん えん 祗登が姉の子である夏安に迎えられたことを呉漢は知っている。わざわざ夏安が宛まで迎えに きたとなれば、祇登が夏家で冷遇されているはずがない。よくよくみれば、衣服は往時のそれと くらべものにならないほど上質である。 「家が大きくなればなるほど、弊害も大きくなる。弊事をのぞくのに、これほどてまどったとい 、つことよ。また、亭長であるなんじは知っていようが、制度が大きく変わった。新皇帝は土地に 関して井田制を実施した。これによって、大混乱さ。漢の時代より、税が重くなり、土地と娘婢 の売買も禁止された。それらに対応する手を打ってしまえば、夏安はわれの手を借りすに、順調 に経営しつづけることができる。来年の夏までに、家を建てよ。なんじを助けてやる」 よる たいりゆ・つ けんあん そういった祇登は、このタ、呉漢のもてなしをうけ、翌日には、亭内に滞留した懸案と訴訟 にかかわる書類をつぎつぎにさばいた。その手伝いを呉漢からいいつけられていた角斗は、祇登 の仕事のはやさに驚嘆し、 「鬼才とは、このことですよ」 と、おどろきをこめて呉漢に語げこ。 4 も・つし ところで井田制は、儒教が理想とする税の制度で、『孟子』のなかでくわしく説かれている。 せいでん ぬひ 112
呉漢が実家から離れたいわけは、ほかにもある。 1 」とう 兄の呉尉には、呉形という男子がいて、この子が大きくなってきた。まもなく十代になる呉形 たす は、体力的に父を扶けることができるようになる。すると呉尉の家族にとって、呉漢がまずよけ いな者ということになろう。どの家でも、次男や三男は冷遇され、やがて不要の人となってしま でるため う。それがわかっている呉漢は、兄にいやな顔をむけられるまえに、家をでたい。が、 の方途は、ゝ しまのところ彭家にはいるしかない そういう呉漢の悩みにはじめて気づいた呉翕は、 ギ」しよう 「魏祥に占わせたらどうですか」 と、いった。魏祥にふしぎな能力かある、ということは呉漢にきかされていた。 「小石にわれの将来を問うのか」 きよくよ・つ きと・つ えん それよりも、棘陽へ去った祇登に相談したい。あれ以来、祗登は宛にあらわれなくなった。 かあん 祇登に会いたいが、祗登を迎えにきた夏安が、どの程度の豪族であるか、それも知りたい。 みち 「棘陽に尊敬すべき人がいる。その人に会って、途を定めたい。い や、いますぐ往くわけではな えん 夏までにその人が宛にこなければ、われが棘陽へ往く」 「そのときは、わたしも連れていってください 長兄の家に居づらくなるのは、呉翕もおなじである。 ふたりが腰をあげて、 / 川のほとりから離れようとしたとき、呉漢の足もとの小石が黄金の光
ことは、充分に承知だろう。重臣のなかでは、朱仲先どのが宛の出身なので、あの人が主の不利 になるうわさを劉公に吹き込んだのかもしれない」 ギ」しょ・つ うつぶん ひごろおとなしい魏祥も、呉漢が冷遇されていることに、鬱憤をかかえはじめていた。 ふくよう 「おい、おい、めったなことをいうな。朱仲先どのは幼いころに父を喪ったので、宛から復陽 へ移っている。亭長のことも知るまいよ」 と、祗登がみなをたしなめた。 「先生は、そんなことまで、ご存じなのですか」 祗登の弟子といってよい角斗が感心してみせた。 ゅ - ・つかし おくそく 「郵解が教えてくれたのさ。かれの耳は、陣中でも役に立つ。憶測で判断すると、大事なところ で大まちがいをおかす。魏祥は人の声をきくより、風の声をきいたほうが、まちがいがすくな 「はい、そうします」 魏祥は首をすくめた。 めいてつ ごしがん 「劉公は神のごとき明哲さをもっている。たとえ呉子顔が闇にかくれようと、その明察をもって 闇を裂き、その異才を照らしだすであろう。しばらくの辛抱だ」 そう強くいった祇登は、鄧禹が戦陣から帰るのを待ち、ひそかにかれに会いに行った。鄧禹は さいよ - っ 新野県の出身であり、蔡陽出身の祗登はかれの祖父と父を知っている。 しんや 318
「やむをえぬ」 かせん 始建国六年になるはずの年を天鳳一兀年に改めた王莽は、この年に、貨布と貨泉という一一種類の 貨幣を発行した。貨布一は貨泉二十五にあたる。 てのひら 新しい銅銭を掌においた祇登は、長いあいだそれをみつめて、つぶやきはじめた。 「先生、その銅銭がめずらしいのですか」 と、呉漢は首をかしげながら声をかけた。すると祇登は掌をあげて、 「これが国家の基となる銭だ。そこには、なんと書かれているか」 と、問、った。 「貨泉、でしよ、つ」 「ふむ、泉という文字は、ふたつに分けることができよう」 そう祗登にいわれた呉漢は、自分の掌に、 「白 すい 「水」 という文字を指で書いてみた。 「白水ですね」 「亭長は、賃作であちこちに行ったことがあろうが、この郡の南部の県と郷については知るま てんばう 126
連座 ら / 、ト 6 - っ 走路を北にとったと官憲に気づかせるはずだ。つまり、ここ魯陽を通って、洛陽のほうに逃げ これが呉漢の推理である。 「それで、亭長は、どうなさいますか」 瞠目した角斗に微笑をむけた呉漢は、 「祗登先生を養っていたのは、われだぞ。のこのこ宛に帰れば、待ってましたとばかり逮捕され る。なんじと郵解、それに魏祥も、ひっくくられよう。さらに兄と弟と母にも官憲の手がのびる。 たぶんいま官憲は祇登先生を捜しているので、わが家は捜査の対象になっていまい。ぎりぎり手 を打てる」 、 : すこし膝をすすめて、こまかな指図を与えた。呉漢の妻子が家に残っている。かれ らのほかに兄の呉尉とその妻子を避難させなければならない。 「それがすんだら、なんじは魏祥をともなって、洛陽にこい 呉漢はそういいつつ、祗登が逃げてとどまった先も洛陽にちがいないとふんでいた。 「洛陽のどこにゆけばよろしいのですか」 角斗の不安の色が濃くなってきた。 どうもく ひざ 153
「おいたわしい」 れんびん と、隣憫し、みずから家人を従えて迎えにきたのである。 農場をあとにする祇登を見送りにきた呉漢は、 きざ 「いろいろ教えてもらいました。教訓は胸に刻んであります」 百 ( をさげた。ふりかえった祇登は、 「そっちは別れだとおもっているかもしれないか、こっちはそ、つおもっていない中ド ( 、 いので、またなんじの顔をみにゆく」 と、笑いなからいった。 はるがすみ 祗登は去った。春霞のなかにその影が消えるまで目を動かさなかった呉漢は、虚しさをおばえ、 ふと目を落として足もとの小石を視た。斜光を浴びて、その小石は光っていた。 「われに吉いことがあるのか」 そう小石に問いかけたとたん、光は失われ、黒い小石にもどった。ため息をついた呉漢が、 この小石が黄金に変わることがあるのか。 と、内心つぶやきつつ、踵を返すと、いぶかしげに魏祥が立っていた。 「あなたは小石と問答ができるのですか」 「ほう、なんじは石の声をききとることができるのか。おどろいたな」 「やはり、そうでしたか。あなたはふしぎな人です」 きびす