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検索対象: 呉漢(上)
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1. 呉漢(上)

乱がひろがると、財産もいのちも、たれも守ってはくれぬ。自分で守るしかないのだ。生きのび る道も自分で捜すしかない」 と、呉漢はさとすようにいって、門内にはいった。かれはまっすぐに県庁にむかい、庁舎内に はいると、 こせき 「われは、故、宛県の亭長です。戸籍を管理なさっているのは、どなたですか」 と、きき、転入届けの有無を確認した。 「あった・ーー」 県庁をでた。 田殷と田浹が住む里を名籍にみつけた呉漢は、その吏人に礼をいい、 「まだ、ここは、官事がしつかりしている」 そういった呉漢は、やすやすと田氏邸をみつけた。大邸宅である。が、新築の建物ではない。 「豪族が、田氏に売ったのでしようか と、角斗がいったが、 そうかもしれない。邸内には、さきに灰がはいった。ほどなく田浹が屋 内から飛びだしてきた。 開口一番、 「官軍が大敗したとききました。早く居を移しておいてよかった。あなたは神知をおもちだ」 と、田汝は呉漢に大いに感謝した。呉漢に付けた三人の家僕のうち、ふたりが欠けたことをと がめる目つきではなかった。 もと りじん しんち 206

2. 呉漢(上)

大将軍 「わたしには老母がいて、ここを離れるわけにはいきません。しかし、あなたさまを慕う者はす くなくありませんので、声をかけてみます」 「ああ、なんじは孝行の人だ」 1 」きゅ - っ 感心した呉漢は、ふりかえって、弟の呉翕に、 「なんじはこの者に従って、兄さんに会いにゆけ。われは仮令に面会する」 ぎしょ・つ と、いい、角斗や魏祥などを弟に付き添わせた。騎兵を門外に残し、数人の従者とともに県 内にはいった呉漢は、県庁にはいることができなかった。吏兵に阻止された。ほどなく庁舎から でてきた仮令は、 「子顔どのよ、ここにはあなたの席はありませんぞ」 と、冷えた声でいった。 「それは、すでにきいた。県令の官を太守に返上するてまがはぶけた。では、蕭王麾下の大将軍 ちょうへ として、徴兵を命ずる。この県からも騎兵をだしてもらおう」 仮令は冷笑した。 あるじ しつ幽州の主となったのですかな。いま天下の主は更始帝であり、この帝は幽州の 「劉文叔は、 ) 民意を無視してあらたな太守を送り込んできた。劉文叔はそれを諫めもせず、蕭王に封建された 9 もと のをよいことに、幽州の兵を糾合させようとしている。道理に学るとは、このことです。わが主

3. 呉漢(上)

呉漢は困惑ぎみに顔をあげた。よくみると、彭寵のうしろには馬を牽いた従者と五人ほどの兵 かいる。あきらかに官軍として戦ってきた兵であり、逃げ隠れする必要があるとはおもわれない 「わけは、あとで話す」 彭寵にそういわれた呉漢は、わかりました、とこたえて、かれらを先導し、田氏邸に帰着した。 郵解と祗登は、彭寵の農場で働いていたことがあるものの、彭寵の顔を知らない。その点は、角 斗と魏祥もおなじであるが、かっての雇い主の名を知らぬはずはなく、かれらはひとしく、 「このかたが、彭伯通さま : : : 」 と、驚嘆し、 っせいに足才した。 やわらかくうなずいてみせた彭寵は、あたりに目をやってから、 「ずいぶん大きな邸宅だが、まさか、子顔がここの主ではあるまい」 と、いった。 「仰せの通りです。家主は田殷と申し、居を鄲県へ移しましたので、われがあずかっているにす ぎません」 「さようか。われと六人の随従者に飲食物を与えてくれまいかー いんえい なるほど、彭寵と従者には疲労の色が濃い。かれらは敗戦の陰翳のなかにいるといってよい。 戦いに負けると、精彩を失うものだな。 そう感じつつ、呉漢は、 おお でんいん 198

4. 呉漢(上)

じつはもっとも強い誠実さをもって田氏に仕えていたのだ。すばやくそのように判じた呉漢は、 なんよう 「わが家族は、南陽郡にいる。ここにとどまっていれば、その安否がわかる。それだけのこと と、あっさりいった。実際、角斗や魏祥を連絡につかったことで、長兄の使いがここにきた えん ことがある。それによると、長兄だけは妻子とともに宛の自宅にもどった。が、母と弟は、南陽 ャて - つじよ・つ 郡の騒擾が必至とみたのか、自宅にもどらず、親戚のもとから動かない。 母は賢いな。 りゆ - っえんかん いまや宛の城は、南から進撃してきた劉繽の漢軍に包囲されようとしている。宛の県民の苦 難はこれから深刻さを増すにちがいない。 きと - っ 田氏の広大な邸宅を、祇登とともにあずかったかたちの呉漢は、 この家を無傷で田氏に返すことは、とうていできまい と、すでにあきらめている。 「どうだ、いま宛を攻めている漢軍に加わらないか」 りゅうえんりゅうしゅう 祇登は挙兵した劉繽と劉秀という兄弟に同清があるらしい。あの兄弟だけは、ほかの賊とち 風かって、まともだ、といった。 が、呉漢はあえて関心を一小さず、 はなしはんぶん 「話半分、と教えてくれたのは、先生ではありませんか」 カくと ぎしよう 193

5. 呉漢(上)

いなご 「荊州では、蝗の害がすさまじかったようです」 と、郵解が報告にきた。だが田氏の田は豊作である。その豊かな実りをながめた田殷は目を細 めつつ、 ちか 「これは奇蹟にヒい。 あなたには地の神がついている」 ぜっさん と、呉漢の指導ぶりを絶賛した。 ほ・つオ・い 作物の豊悴は、ちょっとした手当の有無がつみかさなって生じる。人も作物も、よくみてやる ことだ。 こ - っとう 穀物を売りいそがなかった田殷は、その高騰を待って売り、得た大量の銭の半分を呉漢にあず たかね 「牛よりも馬が高値になる」 そう角斗と魏祥におしえた呉漢は、馬商人と知り合った利点で、馬が市場にはいるまえに買い 集めた。農場にいれた多数の馬は、またたくまに政府に買いあげられた。 銭の山が軒にとどくほどになった。そのまえで身をそらして驚嘆の声を放った田殷に、 せん 「この銭が泰山ほど高くなっても、いまの王朝がつぶれると、無価値になります。いまのうちに、戦 でんぽ 渦にまきこまれにくい地をえらんで、転居し、そのあたりの田圃をお買いになっておくことです」 と、呉漢は助言をおこなった。 冷水をあびせられたようにからだをふるわせた田殷は、

6. 呉漢(上)

あたた に、はじめて人の温かさを感じた。祗登先生は亭長について、尋常な人にあらす、とおっしやっ ほ・つよ・つ ています。わたしもそれなりに多くの人を視てきましたが、亭長が一番だ。人を抱擁する心のカ とものごとを成し遂げる胆力が、ほかの人とはまるでちがう。わたしは亭長より齢は上ですが、 亭長を兄としてどこまでもお仕えしたい。亭長が亡くなるまで、そばに置いてもらいたい、 、つことです」 「郵解よ、いってくれるじゃないか」 めがしら ふっと呉漢は目頭を熱くした。 郵解も涙ぐんでいた。 かたち 呉漢に兄事するという心の容をもっていたのは郵解だけではない。角斗と魏祥も、呉漢の身内 同然で、かれの手足のごとく働いている。それをおもった呉漢は、王朝が傾頽するとき、 かれらを大死にさせたくない。 そのためにはどうすればよいか、と考え込むようになった。 りゅうげんひご 宛の県内では、流言蜚語がしげくなった。 せきび 「赤眉の賊」 多くの人々がそ、ついって恐れはじめたのは、琅邪の叛乱軍のことである。かれらは官軍と戦、つ あいじるし ときに、合印として眉を赤く塗るらしい えき 「いや、叛乱は東方だけではないぞ。益州でも勃発したらしい。こうなると、緑林の賊が南陽を 146

7. 呉漢(上)

と、明るくいった。 「みながよく働いたのです。わたしの功ではありません」 「なんじらしいな。そ、ついうこころがけを忘れなければ、かならずのちにみなに助けられる。人 は助けあいなから生きてゆくものだ。ごが、 オ人を助けたことはあえて忘れたほうがよい。助けて もらったことだけを噫えておくことだ。これは、たれにもできそうだが、ほんとうにできる人は、 おんしゅう 百人にひとりもいまい。いまの世は、あからさまな恩讎の世界だ。大都にのばった者が、都の 人々の歩きかたをまねようとして、自分の歩きかたを忘れてしまうという話がある。なんじは、 そうなってもらいたくない」 こんこん と、呉尉は懇々といった。弟に人をまとめてゆく才があると感じたがゆえに、先走らないよう にいさめたのである。 兄は、こういう人であったのか 兄のやさしさは昔から感じてきたが、今日、あらたな兄を発見したおもいの呉漢は、じつは兄 に助けられてここまできたことに気づいた。この家を支えているのは自分ではなく、兄なのだ。 ふそん この瞬間、呉のなかにわずかにあった不遜さが消えた。 翌年の春に、呉漢が彭氏の農場へゆくと、すぐに十数人の若者が集まってきた。そのなかに角 ぎしょ一つ 斗もいれば十四歳になった魏祥もいた。農作業がはじまると、かれらは呉漢の手足となってよ か」

8. 呉漢(上)

さいよ - つりゆ - つはくしょ - っ 「蔡陽の劉伯升が、舂陵で起ったぞ」 めずらしく祗登が興奮していた。伯升は劉繽のあざなである。蔡陽出身の祗登はおなじ県の小 豪族である劉について多少は知っていた。 「劉伯升は、春陵侯の分家のひとつだ。もしかすると、かれが天子になるのかもしれぬ」 亠 9 いしょ一つ そうなれば、舂陵に青い気が立ったという瑞祥も説明がつく。 「先生は、その劉伯升の軍に参加なさるのですか」 しつよ・つ 「いや、ゆかない。老兵とみなされて、輜重のお守りをさせられるだけだ。なんじといたほう がおもしろい」 「それは、助かります」 劉の軍隊が洛陽をめざして北上することはたやすく予想できる。が、南陽には多くの県があ り、それらの県がその叛乱軍にあっさり降伏するはずがない 「戦況を知りたい」 呉漢は郵解のほかに角斗と魏祥を郡境へ遣った。その間に、田汝と今後の方途について語り合 った。 「戦火が洛陽に飛んでくるようになってから脱出しようとしても、まにあわない。あなたは僕人 鰤を従えて郊県へ往ったほうがよい。われらは少数なので、いつでも脱出できる」 呉漢はそう説いて、年があらたまるまえに田浹がここから退去すべきである、と勧めた。 すす 187

9. 呉漢(上)

この人は、本気でかくまってくれる。 田殷の表情と話しぶりでそれとわかった呉漢は、心の荷をひとっ解いた。 客室に落ち着いたあと、 「あの老人とは、どのようなお知り合いですか」 と、呉漢は祗登に問うた。 ちょうあん 「田殷どのには、男子がいた。かれも、昔、長安に留学し、われの友人となった。その縁で、 ここに遊びにきたが、 われがふたたびここを訪ねたとき、われは仇を捜す身となり、友人は病 ぼっ 歿していた。それもあって、田殷どのは、わが子のようにわれに目をかけてくれた。ひとつの救 いは、友人に男児がいたことだ。あのころ生まれたばかりであったから、いまは三十歳になって ぶん ぶん いよう。名は浹という。田殷どのは、じつは孫に文という名をつけたかったようだが、田文では、 よも - っしょ・つ おそ 孟嘗君とおなじ名になり、屋れ多いということで、浹にしたそうだ」 「よく、わかりました」 かしゅ けねん 家主の正体がわかれば、よけいな気づかいは無用となる。残る懸念は、角斗、魏祥、郵解とい う三人が洛陽にのばってきたとき、かれらを養う力が呉漢にない以上、田殷に倚するしかない が、ことわられないかとい、つことである。その心事を祇登に、っちあけると、 「客室でなければ、使用人の部屋をつかわせてもらえよう。なんじを売りこんでおいたので、疎 略にはされまいよ」 ・ひょ - っ

10. 呉漢(上)

と、絶叫した况巴は、ふところの匕首をとりだして、呉漢に斬りつけようとした。ほとんど同 かくと 時に、角斗と左頭がとびかかって、况巴をとりおさえたので、その匕首の先は呉漢にとどかなか った。 呉漢は、組み敷かれたまま荒い息をつづけている況巴に顔を近づけ、 キ」よ・つし 「われは妄を好まないので、事実だけをいう。あなたが況糸という零陵郡の吏人の子ではないか、 その日、われは母の親戚 とすこしまえに気づいた。たしかにその吏人はわが亭で休息した。が、 ろよう の集会に出席するために、魯陽にいた。つまり、あなたの父がわが亭にきたことを知ったのは、 あなたの父が殺されたあとであり、われはあなたの父の容姿も知らない。ゆえに、われがあなた の父を殺せるはずがないし、殺さなければならぬ理由ももたない AJ 、次火々を ) 五口丿こ。 まだ憎悪に満ちた目つきをやめない況巴は、 とんじ ひきょ・つ 「遁辞をかまえるのか。卑怯だぞ。わたしは宛の亭長がわが父を殺して逃げたときいたぞ。げ んに、なんじは幽州まで逃げてきたのではないか と、顔をゆがめながらいった。 「殺したのは、われではない。われが養っていた客のひとりだ。それがわかれば、連座を恐れる 討のは当然であろう」 「妄だ。それも遁辞だ」 うそ っ ひしゅ 275