しことをい、つ この先生は、い、 ごかん 呉漢は昔から心の目で人を視ようとしてきた。それでも人をみそこなったことがあったかもし おも れないが、大きなみまちかいをしたことはないと意っている。 きょ ~ 、よ一つ すす 秋になり、ときどき涼やかな風が吹く日に、祗登のつかいで棘陽まで往っていた郵解がもど ってきた。その表情が冴えないので、 「どうした」 と、呉漢が問うた。 ていちょう 「へえ、先生よりさきに亭長のお耳にいれることになりますが、夏家にかぎらず、どの豪族も、 重税に苦しんでおります」 豪族の使用人のなかに奴隷がいれば、ひとりにつき三千 , ハ百銭を官へ納めなければならない。 と すこしまえまでは、百銭あれば、一斛 ( 十斗 ) の米を買うことができた。三千六百銭の課税がど れほどむごいかわかるであろう。 たいのう 「それで、夏家の親戚が、税を滞納し、なおかっ奴婢の人数をごまかしたということで、逮捕さ かあん うれ れたそうで、夏安さまに連座がおよぶのではないか、と愁えておられました」 「それは、あぶない。すぐに祗登先生に語げよ」 呉漢の声もうわずった。 みっそ おそらく夏安の親戚は、怨みをふくむ者に密訴されたのであろう。その罪が火の粉のように夏 どれい み 0 っ ぬひ ゅ、つか 132
ははあ、侯国の開墾をおこなうのか。 雇い主は豪族や豪商ではなく、侯とよばれる領主であるとわかって、呉漢はすこし気が楽にな たち った。豪族や豪商には質が悪い者もいる。領主がことごとく質がよいわけではないにせよ、その 国で働くほうが安心感はある。 集合した者たちの数を目で算えてみると、およそ百である。ひそかにおどろいた呉漢が、 「宛だけで百であれば、諸県から紅陽へゆく人数は、どれほどだろうか」 と、韓鴻に問うたとき、笠をかぶった三人がこの集団に近づいてきた。ひとりが主人でふたり が従者のようにみえた。主人らしき人が、 さぎ 「みなは詐欺の銭をもらいにゆくことになる。やめておけ、やめておけ。手が汚れるぞ」 と、集団にむかっていった。 呉漢と韓鴻はおもわず目をあわせた。 「なんだとーーー」 かくど 紅陽侯のふたりの家臣は、その声をきいて嚇怒し、剣に手をかけて声の主に迫ろうとした。す かさず笠のふたりが主人をかばうようにまえにでて、剣把をなでつつ、 「路上で剣をぬいて争えば、われらだけではなく、なんじら三族までも処刑され、ひいては紅陽 衆侯まで罪がおよぶ。それを承知で剣をぬくなら、相手になろう」 安 と、かるく祠喝した。 どうかっ かぞ
じようあん は、官軍が鎮圧できないほど威勢を張っている。かれらが常安にむかって進撃してくれば、こ りやくだっ こ洛陽に住む人々の私財はことごとく掠奪され、城内は火の海となる。そうなるまえに、あな たの財産を他所へ移すべきですー 「なるほど、なるほど」 小躍りをやめて、うなずいた田殷は、呉漢をみつめて、 しんすい 「あなたは福の神だ。汝はあなたに心酔しており、どこまでも付いてゆきたいと申しております。 すいじゅう 随従することを、お宥しいただけようか」 と、いった。 「はは、付いてくるのは、かまいませんが、わたしは亭長にもどるわけではありませんよ」 「わかっております。しかし、あなたが、天子を佐けるほどの偉材であることも、わかっており ます」 とっぴ 突飛なことをいった田殷は、あきれ顔の呉漢にむかって笑声を放った。 天子を佐ける : ・つんじよ・つ どうなれば、そのような貴顕の地位にのほることができるのか。雲上から梯子がお ほうたん りてくるのを待つよ、つなものだ。しかしそのよ、つな妄誕をいって人をまどわす性質を田殷がもっ ているとはおもわれない。 ものがたい人なのである。あとで祇登に会った呉漢は、 にんそう 「先生、わたしは天子を佐けるような人相をしていますか」 ゆる 176
「母家で最初に会ったときの田浹さんは、ずいぶん暗い顔をしていたのに、変われば変わるもの です」 と、いった呉漢は、祗登の意見を求めるような目つきをした。 「あのときは、市の胥吏を罷めてきたばかりであったときいた。くさくさしていたのであろう 「そうですか : それでは田浹さんのとなりに坐っていた許汎とは何者ですか、と問おうとした呉漢は、 せんさく よけいな詮索か。 と、おもいなおして口をつぐんだ。田浹の人あたりのよさには、善意がある。用心しなければ ならない人物ではない、と直感が教えている。 田氏の邸内に住むようになって十日ほど経っと、 そろそろ角斗らがくるころだ。 と、おもった呉漢は、市場を歩くようになった。呉漢の外出がしげくなったことを知った田浹 は、わけをきかせてもらえますか、といし言 - 占をきき終、んると、 「お独りで捜すのは、難儀でしよう。家人を付けましよう」 と、使用人をふたり添わせた。 ようぼう このふたりに、三人の容貌を教えた呉漢は、市場に通った。そのうち市場の商人と顔なじみに ひと 166
呉漢が実家から離れたいわけは、ほかにもある。 1 」とう 兄の呉尉には、呉形という男子がいて、この子が大きくなってきた。まもなく十代になる呉形 たす は、体力的に父を扶けることができるようになる。すると呉尉の家族にとって、呉漢がまずよけ いな者ということになろう。どの家でも、次男や三男は冷遇され、やがて不要の人となってしま でるため う。それがわかっている呉漢は、兄にいやな顔をむけられるまえに、家をでたい。が、 の方途は、ゝ しまのところ彭家にはいるしかない そういう呉漢の悩みにはじめて気づいた呉翕は、 ギ」しよう 「魏祥に占わせたらどうですか」 と、いった。魏祥にふしぎな能力かある、ということは呉漢にきかされていた。 「小石にわれの将来を問うのか」 きよくよ・つ きと・つ えん それよりも、棘陽へ去った祇登に相談したい。あれ以来、祗登は宛にあらわれなくなった。 かあん 祇登に会いたいが、祗登を迎えにきた夏安が、どの程度の豪族であるか、それも知りたい。 みち 「棘陽に尊敬すべき人がいる。その人に会って、途を定めたい。い や、いますぐ往くわけではな えん 夏までにその人が宛にこなければ、われが棘陽へ往く」 「そのときは、わたしも連れていってください 長兄の家に居づらくなるのは、呉翕もおなじである。 ふたりが腰をあげて、 / 川のほとりから離れようとしたとき、呉漢の足もとの小石が黄金の光
一人には、 A 」ど ) 、か・はい という自然の理に直面しつづけたのが、呉漢の青春である。つまり、人のカではどうしようも ないものがある。そういう認識を、呉漢は早くからもっていた。利益計算は天の気配をうかかい 先を読んで立てるものであるが、かならず計算ちがいが生する、ということを想定しておくのが、 真の計算である。ここでは、劉秀を援助することによって、かれに恩を衣せる、というのが上谷 と漁陽の太守の計算であろうが、その算術の成否はどうであろうか。呉漢としては、彭寵を漁陽 太守に任じてくれたのが劉秀であるから、その答礼のために援兵をだす、という礼義の世界に彭 おんしゅう 寵は思考をとどめておいてもらいたい。利害と恩讎の世界に、志望の足を踏みだしてもらいた くない。そう願いつつ、呉漢は突騎の編制を終えた。 こ - つめ 彭寵から誥命をさずけられた呉漢と蓋延は、 「漁陽の突騎の名に恥じぬ働きをしてまいります」 と、答え、出発した。 しょ - っへ ひと足さきに上谷郡にもどった寇向は、もう邯鄲をはばかる必要はないとおもい、昌平県に おうろう とどまっている王郎の使者と従者を襲撃した。これによって上谷郡は、反邯鄲という旗幟を鮮明 にした。 上谷郡の府中にはいった呉漢と蓋延は、寇向らに出迎えられ、太守の耿况に謁見した。そこま 294
青い気柱 ひっし 侵すのは必至だ」 郵解が巷衢で拾ってこなくても、亭の周辺を歩いただけでも呉漢の耳に飛び込んでくる声は、 そういうものであった。 中央政府は、軍を二分して、東西にむけているのか。 官軍の戦略の実態はわからないが、賢いやりかたではないような気がした。西方より東方のほ ぼくめつ うがはるかに人口は多く、そこで立った赤眉の賊が巨大化するまえに撲滅すべきではあるまいか 王朝にとって実害になるのは、西方より東方の賊である。宛の一亭長にすぎない呉漢でもわかる ことが、皇帝と輔相にわからないのが、ふしぎであった。 とにかく不穏な一年であった。 年末に、魏祥が暗い顔をしていた。 わる 「凶い風が吹いているか」 と、呉漢は問うた。 「冬であるのに、南風が吹いています。南風は万物を生育させ、天下に豊かさをもたらします。 いわば天下泰平の風であるのに、わたしには凶風であると感じられます」 「緑林の賊が、年明けとともに動くのかな」 呉漢はそう解釈したが、実際はもっと苛酷な事態が待っていた。 ちこう 新年を迎えると同時に改元がおこなわれ、地皇元年となった。 147
「ただいま、帰りました」 この声の明るさに呉漢は自分でもおどろいた。 「どうしたのだ、その袋はーーー」 兄のいぶかりの声は、ほどなく歓声に変わった。母も、弟も、喜んだ。それをみた呉漢は、 なるほど、因 5 をほどこすとは、こ、つい、つことか と、腑に落ちた。これらのきっかけをつくってくれたのは、あの潘臨というえたいのしれない 男にちかいない こうふん 夜、寝るまえに昂奮ぎみの呉漢は兄に、 「ただの石も、念をこめてみつめれば、黄金に変わるのだろうか」 と、おずおずと問うた。このおもいがけない問いに、 呉尉はとまどわず、 へき 「昔、和氏の璧と呼ばれた楚の国宝があった。最初に発見した卞和は、それは玉ではなく石だと いわれて、左足を切られた。しかし卞和は玉であると主張して楚王にふたたび献上したため右足 ついに玉であると認められた。和氏 を切られた。両足を失っても卞和はみたび献上をおこない、 ねんりき の念力が、石を璧に変えたのだろう。だから、ただの石も、あるとき黄金に変わる」 とっぴ わら と、やさしく答えた。突飛な弟の話を嗤って棄てることをしない良い兄であった。貧しさが兄 / 、ト・つ 石弟愛を育養したともいえる。 べんか ぎよく
ぜであろうか」 気を観て占うことに長じている蘇伯阿でも、舂陵から立ち昇っていた気を、どう解釈すべきか、 わからなかった。 蘇公は皇帝に近侍しているがゆえに、観たものをそのままうけいれることができないのだ。 この内面のつぶやきをかくしたまま、呉漢とともに蘇伯阿と数人の従者をもてなした祇登は、 かれらが去ったあと、 「亭長、ふたりだけで、話がある」 と、呉漢を誘って二階に昇った。膈から仲春の光と風がはいってくる。その光と風をきらうよ 、つに壁ぎわに坐った祇登は、呉漢が坐るのを待って、 「不吉なことをいうようだが、 いまの王朝は、あと十年ももつまい。おそらく、五、六年後には 倒壊する」 と、幽い声でいった。 呉漢は息を呑んだ。が、なぜ、とは問わず、沈黙を保った。その顔をみずに祇登は、虚空にむ かって語った。 「皇帝である王莽は、理想を官民に押しつけすぎた。皇帝にとっての最善は、官民にとって最悪 」せき になる場合がある。古昔、秦の始皇帝と二世皇帝のころが、そうであった。郵解が拾ってきたう わさでは、去年、琅邪郡で大規模な叛乱があった。なんとその首謀者は、名門貴族でも豪族でも ろうや 140
「上谷の突騎がきた」 「それは、早い」 早すぎる、といってよい。彭寵の書翰を読んだ上谷郡の太守が、これほど早く同意して騎兵を よこせるはずがない。 「裏がありそうだ。われらが出迎えたほうがよい」 いった呉漢は蓋延とともに集めた騎兵を率いて郡境へむかった。そこに上谷の騎兵隊がと どまっている。使者を先駆させたので、上谷の突騎の隊長が数騎だけを従えて郡境を越えてきた。 呉漢と蓋延も多くない従騎にして、かれと会った。呉漢のまえにでた蓋延は、 1 」ぐんこ - つきよけい 「われは漁陽の護軍の蓋巨卿と申す。そこもとが上谷の突騎を率いてわが郡にはいろうとしてい るのは、よもやわが郡を攻めるつもりではあるまいか、いかなる用がおありか」 と、すこし口調を軽くして問うた。 めつけ なお、護軍は軍の目付で、主将の代理である。 蓋延に敬礼した隊長は、 「それがしは上谷太守の使者で、寇子翼といいます。わが太守の書翰を漁陽太守におとどけしな えつけん がら、謁見したい」 と、いった。眉をひそめた蓋延は、 おも 「その書翰とは、返書と想ってよろしいのか」 こ・つしよく