「門下に立っているのは、祇登先生ですよ」 り・よ・つり・よ - っ 郵解のとびきり明るい声に、寥々たる風景にうんざりしていたみなは救われたように目を凝 み らして門のほとりを看た。 たむろ 門のほとりに二乗の馬車が駐まっていて、その近くに三、四人が屯している。そのなかのひと りが祗登であった。祗登が手を挙げた。 「やあ、先生 おもわず呉漢ははしゃいだ。ずいぶん祗登の顔をみていない気がした。 「おう、亭長、待ちかねたぞ」 この祇登の声にやつれがなかった。ということは、彭寵の旅は順調であったのだろう。呉漢が 馬車をおりて祇登に近づくと、 「こちらは巨卿どのの家人だ」 と、ほかの三人を紹介された。巨卿とは、蓋延のあざならしい。話はあとだ、といわんばかり に呉漢の馬車に同乗した祇登は、 「蓋延は傑人だぞ。めずらしく気分のよい男だ」 と、ささやいた。祗登は蓋延に好印象をもったとい、つことであろ、つ。 ほどなく蓋延邸に着いた呉漢も、 なるほど央男児だ。 けつじん 222
連座 呉漢の足もはやくなった。おそらく祇登は自分の顔を多くの人の目にさらしたくはないのであ ろう。いつのまにか笠をかぶっている。 ひとつの里門を通るとすぐに、 と、いって、祇登は笠をぬいだ。大きな家である。門はひらいている。すばやく門内にはいっ こた おもや た祗登は、母家のまえに呉漢を持たせておいて、戸をあけた。祗登の声に応える声があったが、 そのあと静かになった。やがて祇登とともにひとりの老人が母家からでてきた。その老人は呉漢 を観察したあと、 あるじ でんいん ごしがん ます。官 「なるほど、なかなかの人物ですな。呉子顔どの、わたしはこの家の主で、田殷といい きゅ・つは / 、 のこ 途についたことはありませんが、父祖が遺してくれた財で、窮迫することなく暮らしております。 ほんよも・つ 祇登さんが父母の仇を捜していることを知っておりましたが、このたび、本望をとげられたこと を喜んでおります。あなたが宛で祗登さんを養い、そのせいで、連座するにちがいないときかさ ぎきようしん れ、わが義侠心は大いに刺戟されたわけです。客室は空いておりますので、どのようにでもお つかいください。なお、祗登さんとあなたに関して、家人にはいっさい話しておりません。それ 」いレ - っ ゆえ、ここ洛陽では、変名をおっかいください。祗登さんは蔡陽の生まれで、あなたは宛の生ま れですから、蔡さん、宛さんと呼ばしてもらえれば、とおもっております」 と、いった。 159
であった。 「絶望を絵に画いたような男だが、もしかすると、こういう男こそ大物になる」 祇登の心のなかに生じた声は、そういうものである。とたんに、祗登自身は虚無感から脱した。 この男が雲に梯子をかけてのばるようなことがあれば、われはそれにつづけばよい。それが浪費 した時間をとりもどすすべである。祗登はここまで生きてきて、おのれの徳と運の力がどれほど のものか、みきわめた。呉漢には、 おも 「いっか自分が王朝にかかわる身分になると想え」 と、教えたが、 それは祗登の信念ではなく、呉漢をみているうちに自然にでたことばである。 このふしぎさに、ひそかにおどろいたことを、むろん呉漢には語げていない 「なんじは彭氏に見込まれているようだが、彭氏には仕えるな。まだ自分を縛るのは、早い」 と、祇登は呉漢にいった。 「あ、それはありません。彭伯通さまには、すでにおことわりしました」 けいがん 「なんだ、もう招きがあったのか。彭氏も慧眼をもっているということか わら 鼻で哂った祗登だが、 こやつを彭氏にとられて、たまるか。 おも ほ , つ上っよ - っ という意いがあった。呉漢が彭寵の家臣になれば、祇登の未来も閉じられてしまう。自分の ふち 年齢を考えると、そ、ついう事態は、おのれを絶望の淵に沈めるとおなじことで、どうしても回避
しなければならない 「だが : : : 」 農作業にもどった祗登は、また鼻晒した。 世のなかには、信じがたい事象や珍事件があるとはいえ、財力がまったくなく、郡県の高官と かいむ 4 」、レ」 - っ しよじん のつながりが皆無である呉漢の、なにがどうなると、諸人のなかで台頭するようになるのか われは、ありえないことを夢想しているにすぎないのか それでもかまわないという声が心のなかで生じた。呉漢は二十歳ほど年齢が下であるとはいえ、 生涯の友になりうる、と確信したからである。 珍事件は、祇登のほうに生じた。 かあん 棘陽から、この農場に人がきた。その人とは、姉が産んだ男子の夏安である。 二十五歳になった夏安は、ようやく一家の長として裁量をおこなうことを長老の家人から認 められ、さっそく母の弟である祗登に詫びにきたのである。母と父が亡くなってから夏家は祇登 を迷惑がり、近寄らせなくなった。が、 夏安は幼い心で、 あの人は仇討ちのために、心身をすり減らしているのに、なぜわが家は扶助してあげない 登 と、ひそかに貭既していた。それゆえ一家の長となるや、家人に祗登のゆくえをさぐらせ、お もに宛県で賃作をおこなっていると知ると、 びしん
「おかげで、横ながしをふせげました」 わる 「おい、おい、角斗はちょっとした悪だぞ。彭氏に訴えれば、ただじゃあ済まねえ。そんなやっ に、なんの用だ」 は′、つ・つ 「銭をとどけてやるのです。伯通さまのおばしめしです」 「冗談をいうな」 祗登はあきれてみせたが、呉漢は目で笑っただけでわけをいわす、明るさを失った道を歩いた。 祗登は黙って蹤いてきた。 わいおく やがて呉漢は里門のわきにある矮屋のまえに立った。 「穢ねえ家だ」 祇登は呉漢にきこえる程度の小声でいった。屋根にも壁にも、ひびや破れがある。 「角斗さん、いるかい」 こた この呉漢の声に応えるように目つきのするどい青年が戸を開いて顔をだした。 しがん 「あっ、子顔さん」 まゆ とたんに眉をさげた角斗は、別人のような顔になった。呉漢のうしろに立っている祗登をいぶ 正かるよ、つにまなざしを揺らしたので、 登 「この人は祇登といって、彭氏の農場で働くうちに、あなたの困窮に最初に気づいた人だ。あな たを助けたのは、この人といってよい」 きた
ていちょう から、亭長の実家へゆき、呉尉さんと話をしてから、わたしを走らせました」 角斗は舌をもつれさせながら語げた。 きゅ - っしゅ・つ 「況糸は、祇登先生が長年捜していた仇讎だ。よくみつけたな。それとも、況糸がわが亭に立 ち寄ったのかー 呉漢はおどろきをこめて嘆息した。 「その日、わたしは実家にいたので、くわしくは知りませんが、零陵郡の吏人が亭内で休息した、 ぎしょ・つ と魏祥がいっていました」 「そ、つか : 、われに代わって、祗登先生と郵解が応接したのだな」 事情を呑みこんだ呉漢は、やるせなげに目をあげて、春の天空を瞻た。 あだう 祗登先生は仇討ちをしたのだ。 それは、ます、まちがいない。両親と弟を殺して財を奪い、家に放火した非道の男を殺したこ とは、一方では美談になるが、他方では犯罪となる。殺された況糸が平民ではなく郡吏であると かんけん なれば、盗賊の横行で多事多難の官憲でもみすごすわけにはいくまい。やがて犯人が祗登である とわかったとき、祇登本人を官憲が追うことはいうまでもないが、祗登に近かった人物をも逮捕 す・るにちがいなし きよくよ - っ かあん 「祗登先生には、父母も妻子もいなし東 : 東陽の夏安は、先生の甥なので、その家には捜査の手 ちえ が入るが、夏安が逮捕されることはあるまい。先生は智慧者なので、夏安に頼るはずはなく、逃 の っ 152
さぎ この人が詐欺をおこなったのではない。 ごかんうれ きと・つみ 呉漢は嬉しげに祗登を視た。 A 」信旧ド ) ていた。こ たれになんといわれようとも、祗登がうすぎたないまねをするはずがない、 はなしはんぶん の信念がむくいられた瞬間である。話半分のこつをつかんだ、とも感じて、自信を得た。 かす 「あなたが他人の銭を掠めたとは、おもいませんでしたよ」 そ、ついった呉漢の目を凝視した祇登は、 「なんじだけは信じてよさそうだ」 しし、眼光からするどさを消した。 「それで、あなたの名を騙った者は、たれなのですか」 ここが肝心である。 こ・つよ・つ りじん ようぽ・つ えん 「紅陽侯の吏人から教えられた容貌に、心あたりはなかった。宛から紅陽へ行った者たちの顔は、 正だいたいわかっている。それにあてはまらないとすれば、他の県からきたやつだ」 の 登 祗登は腕を組んだ。 しばらく沈思していた呉漢は、
大飢饉 「ひとり、会わせたい人物がいる」 」と - っ ごかん 、いかにも豪族の家とみえる大邸宅の近くまで行った。 と、いった祗登にみちびかれた呉漢は 「そこで、待っていてくれ」 わいおく 祗登が、そこ、といったのは、矮屋で、軒がかたむき、なかは無人であった。 あ や だいぶまえから空き家だな。 そうおもいつつ呉漢は、家のなかにはいらず、隣家との境に立っ土壁にそって奥にすすんだ。 さいえん 以前は菜園であったにちがいないところに、雑草が生い茂っていた。その草を折り曲げて敷物が わりにすると、腰をおろした。 ほどなく、家のなかから祗登の声がした。 「ここです た 呉漢は起った。この影を認めた祗登は、 「はは」 あ と、笑声を揚げ、 てんぞうそうま、 ていちょう 「天造草昧なり、か。亭長は、みずからそれを示している」 のき 171
安衆侯の乱 「そうですね。それはよいのですが : : : 」 「ほかに、こまることはあるまい 祗登は呉漢の困惑ぶりを楽しむようにうす笑いを浮かべた。 「話半分、とい、 2 、とについてです」 「それがどうした」 「人の話は、半分が妄であるとすれば、あなたの話にも、おなじことがいえます。それで、こま っているのですー 「こやっ 祗登は嚇と呉漢を睨んだ。が、呉漢はおびえもせす、 「見聞を広めるのも、考えものです。識れば知るほど、真実から遠ざかることになりかねない かといって、 ~ 知ではど、つしよ、つもない。見ることと聞くことは、それほどむずかしいとい、つこ とでしようか」 と、自問自答するよ、つにいった。 祇登は怒るよりもむしろあきれたように呉漢をながめはじめたが、やがて、 「おもしろい男だとはおもっていたが、なるほど、そうだ。なんじは大物になるぜ」 と、称めた。 この日から、祇登はつねに呉漢の近くにいるようになり、自分のこどもほどの年齢の呉漢にぞ
大飢饉 まゆ かす と、いってみた。太い眉をもった剣士は、微かに苦笑して、 「なんだ、われを知っておったか。われは亭長に目をつけられていたのかもしれぬな」 と、祗登にむかっていった。 「まあ、坐ろう」 ふたりの袖をつかんだ祗登がます坐った。かれは腰をおろした呉漢に、 てきし 「こちらはわれの友人で、狄師という。剣の達人だ。況糸を討つに際して、かれに助力しても ら / 、し玉 - っ えん らった。そのせいで、かれも宛にいられなくなった。いまは洛陽の豪族の客となっている」 と、説明した。うなずいた呉漢は、 かあん 「さようでしたか。祗登先生はご自身の不運にめげず、甥の夏安どのを助け、わたしのような無 たす 学な亭長を佐けてくれました。天のあわれみがようやく先生にとどいたというおもいです。本来 なら、先生の仇討ちをわたしが助けるべきなのに、あなたさまの手をわずらわすことになりまし た。ここでお礼を申します」 ていちょう と、狄師にむかって鄭重に頭をさげた。 「いやあ : : : 」 軽く横をむいた狄師は、わずかに祗登にささやいた。 目でうなずいてみせた祗登は、 「じつは狄師の仮寓に不快が生じている。その豪族が政府に協力して人数をさしだそうとしてい そで あだう 173