められる場合がある。 「強力なのは、漁陽郡です。漁陽郡の太守と盟約をお結びになり、ともに援兵を南下させれば、 うれ 後顧の憂いはありますまい。われが漁陽太守を説き伏せてまいります」 そういって寇向は上谷の郡府をでてきたのである。しかし漁陽太守がほばおなじときに、盟約 のための使者を上谷へ遣ったとは、夢にもおもわなかった。 「なるほど、人とは、ふしぎなものだ」 と、寇向は呉茣にいい、 郡府へむかった。ただし、呉漢にむけるまなざしには、太守を輔佐す るわけでもない一県令が、どうして郡の軍事をあすかっているのか、といういぶかしさがふくま れていた。それにようやく気づいた蓋延は、 ごしがん なんよう 「太守も、呉子顔も、南陽出身で、かれはもっとも早く太守に仕えた者です。いわば、最古参の 臣です」 と、教えた。 なんだ、太守の偏私か。 軍事的才能も器量ももたぬ者が、太守のかたよった好意で、兵を率いることになるのか。この 巡ときの寇恂は、呉漢をひそかに蔑視した。 の 上級の官吏とは、つねにそういう目つきをしているものだ。 突 呉漢は寇向が自分にむける感情の所在などを気にせず、かれに嫌悪感をいだかなかった。こう へんし 291
劉将軍に謁見するのが、楽しみだ。 呉漢は彭寵の到着を待った。が、伝えられた日になっても、彭寵はあらわれず、翌日も、その 立日も、県に近づいてくる集団の影はなかった。 われは、従者からはずされたのか。 むつ ぞくり 膃とした呉漢は、属吏に命じて、事情をさぐらせた。翌々日に報告をきいた呉漢は、 「ど、つしたことか と、おもわず叫んだ。なんと彭寵はまだ出発していないという。その理由はわからないが、彭 やまい いらだ 寵が病になったということではないらしい。めずらしく苛立ちをみせた呉漢は、 「漁陽へ往く」 いきりたった。漁陽といっても、郡と県があり、この場合、漁陽県のことである。極寒の なかを急行した呉漢は、郡府に着くや、 「太守にお目にかかる」 と、入り口の吏人を突きとばすようにいい、 奥に踏み込んだ。そこには政務をおこなっている 彭寵がいた。目をあげたかれは、無言のまま怒気を放って立っている呉漢に、 「きたのか : 筆を置き、目で着座をうながした。 「なにを恚っている 刃月 256
若者たちに説教をするどころか、若者たちに語らせ、その話を熱心にきいていたということであ る。若者たちは、身内や友人にもいえない悩みや不満を、呉漢にうちあけていたという。 「それだけか」 またしても農場長はおなじ問いをした。 「それだけです」 むつ この若者も慍として去った。 それだけのはずがない、 とおもいつつ、農場長は、主人の彭寵のもとに報告に行った。 「ほう、今年は増収か。呉子顔が若者たちをうまく指導したようだな」 彭寵は満足げに笑った。 「おことばですが、わたしが調べたかぎり、呉子顔はこれといった指導をおこなったわけではあ りません。増収になったのは、呉子顔をひきあげたことにかかわりがないと存じます」 これをきいた彭寵は急に農場長をけわしく視て、 ほ - つきょ・つ 「今年は豊作の年ではないのだぞ。われは郡府にいるので、郡内の豊凶がよくわかる。収穫を ) 。こもかかわらず、わが田は増収となった。なにかかちかわなけ 増やしたところはほとんどなしし れば、そうはならない。長年、農場長をやってきて、それもわからぬのか。老いばれるには早す なさよ、つ」 と、叱り飛ばした。
ろうれつ くする場合もある。呉翕が陋劣な智慧のつかいかたをしないとわかった呉漢は、心のなかで兄に 感謝した。弟を善導してくれたのは、兄を措いてほかにいないであろう。 漁陽の郡府にはいった呉漢は、待たされることなく彭寵に面会することができた。すぐにかれ 「物には、売りどきと買いどきがあります。人もおなじで、おなじ行動と態度が、ときがちがえ しょ - つじよ・つ ば、その価値は霄壌ほどちがってしまいます」 と、説きはじめた。勢力を増大させつつある劉秀が、もうどこからの援助も要らないという時 点になって、その軍に参加を申し込んでも、軽視されるだけである。人に頭をさげたくない彭寵 が、尊大さをつらぬいても、けつきよく絶好の機を失ったがゆえに、みじめに低頭しなければな 物つじよ′、 らなくなる。しかし、いま劉秀を助ければ、彭寵はいかなる恥辱にも遭わないどころか、その ギ」きょ・つ 義侠によって天下に名が知られることになる。 「邯鄲で立った天子が、人々の絶賛を得るほどの善政をおこなっているのですか」 「いや、それはないが : : : 」 彭寵の容態に迷いの色が生じた。 266
仇討ち と、つめ寄った。 それはどういうことですか」 「返書・ こつじゅん こんどは寇子翼すなわち寇恂が眉をひそめた。寇恂は上谷郡昌平県の出身で、郡府の上級の 「」うきょ・つ 吏人であり、太守の耿况に絶大に信頼されている。あざなが子翼である。 「漁陽太守の書翰が、上谷太守のもとにとどけられたはずだが : 「知りません」 すると両太守の書翰がゆきちがいになったらしい。突然、破顔した呉漢が、困惑ぎみのふたり 「馬をおりて、そのあたりに坐りませんか」 どうま・つひか・け と、やわらかノしし 道の日陰をゆびさした。さきにその日陰にはいって、腰をおろした呉 漢は、坐った寇向に、 「わたしは安楽県令の呉子顔といいます。さきほどのおふたりの話をうかがっているうちに、人 のふしぎさを感じましたよ」 と、いって、微笑してみせた。 「人のふしぎさ : : : 」 寇向はさぐるように呉漢を視た。県令ごとき者が、太守の代理になっていることのほうがふし ぎだ、と いいたそうであった。 しょ - っへ 285
「ふむ。ここに住みたい気持ちがわからぬでもないが : 薊県の令にするわけにはいかぬ」 「はあ : : : 」 こよわからなかった。 一瞬、韓鴻がなにをいいはじめたのか、呉漢し ( 「なんじがここに到着するまえに、なんじに一県をさずけようと考えていた。薊県は河北の最大 よ - っしょっ の要衝なので、その治安に関する人事は劉将軍にまかせるしかない。そこでー・ーー」 いいながら、韓鴻は地図を引き寄せた。 あんらく 「漁陽に彭伯通どのがはいるのであるから、郡府から遠くない安楽県に、なんじがはいれ。安楽 は薊県からも遠くなし と、つだ」 「それは、どういうことですか」 「どういうこと、と問うまでもなかろう。その県の令に任命するといっているのだ」 「はあ : さかた 呉漢のかっての感覚では、逆立ちをしても、県令にはなれない。それなのに、こんなにかんた んに県令になってよいのだろうか。その心情を察した韓鴻は、声を低くして、 . り・よ / 、。り・ん 」わ - っキ」よ・つお・つほ・つ 「昔、緑林の賊であった王匡や王鳳は、みな国をさずけられて王になるはずだ。そ、ついう時代 なのだ。なんじの亭長のころの仕事ぶりは、よく知っている。枉がったことをせず、人民のため に働いてくれれば、いまの王朝のためになる」 、亭長であったなんじを、一足飛びに、 246
でしよう」 と、いってから、首をあげた。 はんぞう 「はは、樊蔵どののことは、なんじがいちばんよく知っている。よけいな使いをさせるところで あった」 呉漢は軽く頭を掻いた。 しょよ - っ 翌朝、漁陽と上谷の騎兵隊は歩兵隊を従えて、郡府のある沮陽をでた。 をつよ・つ この隊は広陽国のヘりを通って冰郡にはいった。いちおう、よけいな戦いを避けたといえる。 「さあて、添郡の太守は、われらをどう迎えるか」 五人の隊長が集まったところで、寇怐がそういうと、すかさず耿翕が、 亠つよ - つほ - っ 「太守の張豊はもともと尊大な人で、時勢の本流をみきわめられない。それゆえ、うわさにま どわされ、占いや方術を好む。すべてに自信がないのに、つねにみずからを高みに置こうとする。 おそらくわれらの隊を迎撃するのに、吉凶を占わせてから、指図を与えるにちがいないので、策 ちどん などあろうはずもなく、しかも遅鈍にちがいない。この郡を通るのに、あらかじめ考慮しておか ねばならぬことは、ひとつもない いい切った。 一、れは大一言壮語ではない。 呉漢は耿の発言をききながらひそかに感心した。 298
と、夭いユはからいい 馬をひき渡した。 邯鄲の物価が異様に高騰していると察した呉漢は、 「ここに泊まるのは、やめよう」 ふっとう 奩するよ、つに騒がし すぐに県外にでた。冀州は全体的に静かであった。この州が沸月 くなるのは、数か月後であろう。泊まりをかさねて冀州から幽州にはいったとき、急に風がつめ たくなった。 幽州の西南端にある郡は、冰郡と勃海郡であるが、呉漢らがはいったのは添郡である。郡府が あるのは添県である。その県にはいるとまっすぐに市場へ行った呉漢は、商人とみじかくことば を交わして、 「寄り道をする」 と、ふたりに指示した。 しゅ - つらく めぐ 馬車は泝県の郊外まで走り、ト / 聚落に到った。頑丈な柵が繞らされた聚落で、門の脇に見張 り小屋がある。 「おおい、たれかいないか」 こた この呉漢の呼び声に応えて、小屋から中年の男がでてきた。 はんぞう すいきゅう なんよう ていちょう 「樊蔵どのの下で働いている隹久に会いにきた。われは南陽郡の宛県で亭長をしていた呉子顔 か」 ・こしがん 214
しようま・つ づいた呉漢は、出迎えの騎兵をみた。そのなかの顔なじみの吏人に笑貌をむけた呉漢は、 りゆ - っしゅ 「よく留守してくれた」 と、ねぎらいの声をかけた。その吏人はすばやく馬首を寄せ、 かれい 「あなたさまが遠征なさっているあいだに、郡府から派遣された仮令がはいり、吏人の大きな交 替がありました」 と、不満をこめて報告した。仮令とは、仮の県令である。かれは県庁に赴任すると、さっそく 呉漢の息のかかった吏人を罷めさせ、つれてきた腹心と側近に重職を与えて、おのれの身辺を固 めてしまった。 「それゆえ、あなたさまのご令兄がご到着したのに、官舎にはいれす、わたしが民家をご用意し ました」 「兄がきたのかーー」 素直に喜びたいところであるが、彭寵の指図をうけた仮令のやりかたに人としての温度を感じ なかったので、複雑な気分になった。 「なんじには迷惑をかけた。なんじは知るまいが、劉公は蕭王を拝受し、われは大将軍を拝命し た。なんじがここで冷遇されているのであれば、われに仕えよ。蕭王はやがて更始帝にかわって 天下に号令をくだす。なんじの才を、われとともに、蕭王のためにつかったらどうか」 吏人は頭をさげた。 338
「人は、おなじころに、おなじようなことを考えるものだ。それが、おもしろくもあり、ふしぎ は一つは / 、つ・つ かんたん つうかん でもある。あなたが騎兵を率いてわが郡にきたのは、太守の彭伯通さまに、邯鄲への通款をやめ りゆ・つぶんしゆく かたん て、劉文叔将軍に加担するように説くためではありませんか」 ごかんこうじゅん 呉漢は寇恂をまっすぐ視ていった。 寇向はうなずくのをためらっていたが、肚をすえたように、 「そうだ」 こ・つえん むつ と、答えた。とたんに呉漢だけではなく蓋延も笑った。膃とした寇向は、 ししょ・つ 「われを、嗤笑するか」 と、ふたりを睨んだ。そのけわしさを片手をふってさえぎった蓋延は、 しゅ じよ・つ」 / 、 「あなたとまったくおなじ趣意をもって、わが太守の使者が、いまごろ上谷の郡府に到着して ぎよよう 征 〔るでし = う。 0 まり漁陽の太守と上「の太守は、地上ではなく、すでに空中で意見の交換をお こない、同意しあったということですさあ、これから、あなたはわが太守である彭伯通さまに 遠 騎会ってください。上谷自の突騎をみせてください。彭伯通さまは、大いに喜ばれるでしよう」 突 いって、起った。 み と 289