アリー - みる会図書館


検索対象: 回教概論
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1. 回教概論

る思想の発達を見るに至った。 シーア派に従えば、教団指導者の選定に関しては、必ず一個の律法がなければならぬ。 この律法は、最も重要なる教義の一にして、決して教祖が自然の成行に委ねしめんとした のではない。然らばその律法とは何か。曰く、予一言者としてマホメットが選定された如く、 指導者も亦明らかに神によって選ばれているが故に、これを見出し且これに服従するのが 回教徒の義務であると。その最初の指導者即ちイマームがアリーであることに関しては、 全シーア教徒の間に当初より何の異論もない。かの優柔不断なるアリーが、如何にしてか くまで信者の尊信を受くるに至りしかは、彼等の理解し難きところである。シーア派のあ る者は、アリーを以て肉となれる神と崇めた。故に彼は一切の過誤と罪悪とを超越し、絶 対無二の服従を受くべきものである。彼の霊魂は、永遠不死にして、彼の死後は移ってそ の後継者の衷に宿る。 而して彼の霊魂が何人に宿るか、換言すれば、アリーの後継者は何人なるかに関しては、 シ 1 ア派中に幾多の分派を生じた。或は教祖の血を引けるファーティマとの間に生れし子の 教 教 孫に限ると言い、或はファーティマ以外の諸妻の子孫にても可なりと主張した。いずれに 回 もせよ、アリーの子孫がシ 1 ア派によって神聖視されたことは事実であるが、而もそれら章 の子孫が、殆ど例外なしに無為無能の徒なりしことも亦事実であった。シ 1 ア教徒は、ア第 ーの子孫のうち、その認めて真の後継者と信じたる者を奉じて、幾度びか事を挙げた。

2. 回教概論

の提議に応じて、カリーフアの権利の所属を審判者の協議に委ねた時、彼の部下のある者 は甚だしくこれを憤った。彼等に従えば、ムア 1 ウィヤが一個の簒奪者に過ぎざることは、 明々白々にして疑を容るべき余地がない。然るにアリーが正当にカリーフアの位を嗣ぎな がら、自らこれを不確実のものたらしめることは、許し難き薄志弱行である。かくして彼 等は、アリーを以て事を共にするに足らずとなし、相結んでアリー軍を「脱出」し、彼等 以外の一切の回教徒は、アリ 1 党とムアーウィャ党とに論なく、皆な神の道を歩む者に非 こと′」と ずとなし、悉くこれを不信の徒と目した。 彼等の奉ずるところは、徹底せる民主主義である。カリーフアは、彼等に従えば、全回 教徒によって選挙せられ、又は必要の場合には廃位せらるべきものである。そは決して特 別の門閥又は部族の出たることを要せぬ。若し回教指導者として適任ならば、奴隷であっ また ても宜しい。彼等のある者は、女子も亦カリーファたるを妨げずと唱え、ある者はまた全 くカリーフアを無用とした。 , 彼等は、自らアプ 1 ・バクル及びウマルの真の後継者たるこ とを主張した。事実彼等こそ原始回教の真個の体現者であった。彼等は回教徒が朋党比周 して権力の争奪に没頭し、歓楽と罪悪とに沈湎して、回教本来の友愛の絆を絶てることを 憤りて、自己の途を邁進するに至ったのである。而も是くの如き性質の団体に免れざるは、 止まるを知らぬ小派の分立である。彼等のうちの極端者は、その後も「脱出」に次ぐに ード 'Abd Allåh 「脱出ーを以てしたが、バスラを中心とし、アプダラー・イプン・イバ 192

3. 回教概論

而して常にウマイヤ朝の為に苦もなく鎮圧された。その間にアリーの子孫は往々にして突 如その姿を隠して全く行くえ知れずになる者があった。或はウマイヤ朝の為に暗殺された のでもあったろうし、或は自ら出家隠遁したのでもあったろう。而も執拗なるシーア派は、 これを以て神意に出づるものとなし、神は時到るまで密かにアリーの後裔を隠し置き、時 到らば即ちこれを世に出だして、世界の主となし給うと云う信仰を抱くに至った。 叙上の如き内訌ありしに拘らず、ウマイヤ朝は、アプダル・マーリク 'Abd al-Målik ( 回教紀元六四ー八四年 ) 、ワリ 1 ド WaIid ( 同八四ー九四年 ) 、ヒシャーム Hishåm ( 同一〇 ー一一三年 ) 等の政治的才幹を具えたるカリーフアを出だせるため、次第にその領土を 拡張し、北アフリカ一帯を平定して更にスペインに侵入した。されどヒシャ 1 ム死してマ ルワーン Marwån 二世その後を継ぐや、シーア派及びカーリジー派が、一時に起って諸 処に叛旗を飜すに至った。この内乱に乗じ、シーア派を利用してウマイヤ朝を倒し、自ら これに代れる者は、マホメットの伯父アッパースの後裔サッファー Saffåh である。 彼はカリーフアの権を教祖の一族に回収すべきことを宣一言し、いつも乍ら強力なる指導 者なくして、徒らに狂奔せるシーア派を操縦し、巧みに汗馬の労を取らしめた。「予言者 の家に集まれ ! ーと云える彼の標語は、シ 1 ア派を喜ばしむるに足りたが、而も彼はこれ によってアリーの後裔を奉ぜんとせしに非ず、己れ自らカリーファたらんとせるに外なら なかった。かくてザープ河畔の決戦にマルワーン軍を撃破し、ウマイヤ朝を倒すに及んで、 196

4. 回教概論

一 bn 一 båd を指導者とせる一派が、不思議にも能く団結を保ちて次第に多くの同志を得、現 に今日まで「イバ 1 ド派」の名を以て存続している。 そは先ずウマ 1 ン地方に弘布せられ、西紀七五五年 ( 回教紀元一三八年 ) に至り、イバ ード派の君主が統治者として選ばれた。最初の君主は、回教以前にウマーンの国王たりし ード派以外の回教をウマーンに入らしめざることに 一族の出であったが、爾来彼等はイバ 成功した。而してウマーン人は、航海者であり、商人であり、且植民者なりしが故に、イ 1 ド派をザンシ 、バール並に東アフリカ一帯に弘布し、以て今日に及んでいる。一方彼等 は、北アフリカにも信者を得た。北アフリカのイバード派は、現にアルジェリアの南部ム ザプ地方に中心を有し、自派以外の回教徒との婚姻を禁じている。 第二に述ぶべき回教の分派は、シーア Shi'a 派である。シーアとは「分派」の意味であ すえ る。彼等は既に述べたる如く、アリ 1 及びその裔を崇拝し、カリーフアの権は神意によっ て彼等に帰すべきことを主張する。この点に於てシ 1 ア派は、正にカ 1 リジー派と反対の いえど 極端に立つものである。正統回教即ちスンナ派と雖も、アリ 1 のカリーファたることを承の 教 認し、且その裔を尊敬する。そはただ彼等の要求する権利を否認するだけである。然るに 回 カーリジ 1 派は、アリーとその裔とを唾棄し、且彼等の一切の行動を呪詛する。アリーそ章 第 の人を暗殺したのも、実に曾て彼の部下たりしカーリジー派の一人であった。 さてアリーには、教祖の女ファ 1 ティマとの間に、ハサン Hasan 及びホサイン Hu ・

5. 回教概論

じんぜん たけれど、荏苒日を曠しゅうせる交渉が、竟に何らの結果をも生ぜざりしため、この年七 月末、両軍再び干戈を交ゆるに至った。 開戦第三日の朝まだき、アリ 1 軍の気勢大いに揚がり、正に勝利と見えたるとき、ムア ーウィャ軍の一隊が、長槍の尖端に古蘭を結び、陣頭高くこれを掲げてアリ 1 軍を逡巡せ しめ、その間に陣容を新たにして窮地を脱せることは、世に名高き語草である。かくてア リーは、再び協商によって事を決せんとし、ムアーウィヤの提議に応じて、両軍より各 「審判者」を出だし、カリーフアの正当なる権利者を判決させることとし、アリー自身は、 クーフアに帰りて経過を待望した。然るに一方ムアーウィヤは、その間に頻りに兵を用い て漸次広大なる領土を獲得し、エジプトをもその支配下に置くに至った。かかる間にアリ ーは暗殺者の手に斃れた ( 西紀六六一年Ⅱ回教紀元四〇年 ) 。ムア 1 ウィヤは、その実力を 以て動かすべからざるカリ 1 フアとなり、炫にウマイヤ家の政権確立を見た。 ムア 1 ウィヤの勝利は、実に深刻なる歴史の皮肉である。彼の父アプー・スフャーンは、 マホメットの初転法輪に際し、最も残酷なる迫害を加えて、後にメッカがマホメットの威 力の前に屈服せる時、万策尽きて最後に改宗せる一人である。而も今やその一子が、マホ メットの後を継いで、回教教団の支配者となったのだ。アリーに至る四代のカリ 1 フアは、 しようきよう 一切の回教徒が今日なお「正義の四カリーフアと KhulafaalRåshidün 」として悄愰思 慕するところ、而してアリーの死と共に、回教史家の「黄金の世」は終り、絶間なき宗教 かんか むな 190

6. 回教概論

さり乍らアリ 1 には、有力なる競争者があった。第一に、マホメット在世当時よりの教 団の長老タルハ Talha 及びズバイル zubayr の両人は、心密かに彼等こそアリーに優り てカリ 1 ファたるべき資格ありと信じていたので、最もアリ 1 の即位に不平であった。彼 けっさ 等は、マホメットの愛妻にして譎詐極まりなき稀代の妖婦アーイシャと結託し、アリ 1 を 以てウスマーン弑逆の首謀者なりと宣伝し、名を復仇に藉りて事を挙げ、バスラに赴きて 徒党を糾合し、アリ 1 攻撃の準備に従った。アリ 1 は、彼等の来り攻むるに先だち、軍を 率いて長駆メディナよりイラクに進み、バスラ附近に於て敵軍と会戦し、大勝を収めた。 この戦は、アーイシャが古代アラビア女酋に倣い、駱駝に騎乗して出陣せる故を以て、駱 駝の役と呼ばれている ( 西紀六五六年Ⅱ回教紀元三六年 ) 。 タルハ及びズバイルは、共に駱駝の役に戦死したが、アリーの為に更に恐るべき敵が残 っていた。そはウマイヤ家の一人にして、長くシリアの太守たり、ダマスコに拠って、牢 乎抜くべからざる勢力を扶植せるムアーウィャ Mu'åwiya である。彼は勝れたる政治的 ほとん 発 才幹を有し、能く軍隊の心を攬り、シリアは彼の統治の下に、殆ど独立せる一国となっての 教 いた。彼は初めよりアリーに服せず、自らカリーフアを僭称した。イラクを平定せるアリ 回 ーは、根拠地をクーフアに置き、翌西紀六五七年の春、軍を挙げてシリアに向い、オイフ章 第 ラ 1 ト河畔ラッカ Racca に近きシッフィーン S 一 ff ョに於て、ムアーウィャ軍と衝突した。 然るにアリ 1 は、ムアーウィヤを以て能く懐柔し得べしとなし、決戦を避けて妥協を試み ろう

7. 回教概論

'Abd al Där 'Abd Shams Harb Umaiyya 'Affän ( 第三代教主 ) 'Uthmän ウマイヤ Mu'äwiya 'Abd Sufyän Qusåi 'Abd al Manår Häshim ( アリー妻 ) Fätima ( 第四代教主 ) Muhammad 'Ali Abü Tålib 'Abd Alläh 'Abd al Muttalib 'Abbäs Saffäh 066 アッパース

8. 回教概論

有なる寡婦の家に傭われ、隊商を率いてシリアに往復したが、カディージャは彼の才幹と 美貌とを愛し、遂に彼に向って結婚を申込んだ。マホメットは直ちにこれに応じてカディ きゅうそだい ージャを妻とした。而して昨の窮措大、一朝にして鉉に富みて地位ある紳商となった。カ ディージャは、マホメットより長ずること十数歳であったが、人となり貞淑柔和にして能 くマホメットに事え、琴瑟頗る相和した。両人の間に二男四女あったが、不幸にして末女 こと′」と ファ 1 ティマ Fåtima を除き、他は尽く夭折した。而してマホメットは、伯父アプー・タ ーリプに対する謝恩の至情からその子アリー 'Ali を迎えて養子となし、ファーティマを 以てこれに娶した。アリーは後に第四代カリーフアとなった。 マホメットの生涯のこの時期に関する吾等の知識は極めて貧寒である。殊に彼の精神的 発展に就ては何らの依拠すべき記録もない 。されど彼が「律義者と Amin 」という綽名 を与えられていた事実から推して、その性行が極めて無私忠実なりしを知るべく、またそ の第二子をアプダル・マナ 1 フ 'Abd al Manaf と名付たことによって、当時の彼の信仰 がなお従来の宗教を離れざりしことを知り得る。何となればアプダル・マナーフは「マナ 1 フの僕」を意味し、而してマナーフはアラビア在来の多神教に於て崇拝せられし一神格 なるが故である。 ただ ただそれマホメットが、その卓越せる常識と多年の経験とを以てして、その後啻に商業 かえ 上に於て何らの成功を収めざりしのみならず、却って家運次第に傾くに至りしことは、明 めあわ つか きんしつ 0 う 4

9. 回教概論

が今日までモロッコに君臨している。故に厳格に云えばモロッコ人はシーア派であるけれ ど、ベルシアに見るが如き強き宗派的感情を有しておらぬ。 同じく当時より今日まで存続せる今一つのシーア派は、南部アラビアのヤマンに拠れる ザイド Zaid 派である。彼等は、ホサインの孫ザイドの信奉者なるが故に爾く呼ばれ、 部ベルシア及び南部アラビアに勢力を得た。北部ベルシアのザイド派は、西紀八七〇年頃 より約六十年間、タバリスタンに君臨したが、サマン朝の為に亡ばされた。後者は西紀八 〇〇年頃、ヤマンのサダを首府として一国を建て、後にサナーに遷都して今日に及んでい る。ヤマンは後にトルコ領となったけれど、トルコの統治は常に名目だけであった。ザイ ド派は、イマームに関して、さまで厳格なる思想を固持しなかった。 , 彼等はアリーとファ ーティマとの子孫であれば、何人でもイマームたり得ると考え、また必要の場合には然ら ざる者も一時その位に在るを得とした。従って彼等は、アプ 1 ・バクル及びウマルをも、 正当なるカリーフアとして承認する。 これに対して、最も重きをイマームの資格に置けるものは、シーア派中のイマーム派での 教 ある。イマーム派は、何人が正しきイマームなるかに就て、実に七千余の小派に分れて相 回 争った。而してそれらの異見は、これを二個の範疇に入れることが出来る。一は回教教団章 第 の指導権がアリーの子孫の一人に至りて止まり、その最後の一人は神によって隠されてい るが、時到れば神意によってその姿を世に現すと主張するもの、他はこれを否定して指導 しか

10. 回教概論

嗚呼汝包まれたる者よ ! 起って教を宣べよー 汝の主を讃えよー 汝の衣を浄めよー 汚行を遠離せよ ! ( 古蘭七四ノ一ー五 ) この時以来啓示は相次いで降った。マホメットは次第に天啓の確実を信じ、自己の使命 の偉大を疑わず、何者を以てしても動かすべからざる金剛不壊の力を得た。彼は自らアル ラーの予一一 = ロ者として、アラビアの衆生をその罪悪と迷信とより救うべく、これに向って全 能にして大慈大悲なる独一の神に対する信仰を鼓吹せねばならぬ使命を自覚したのである。 是くの如くにしてマホメットは、遂に予言者として現れた。最初に彼に帰依せるはただ マ 後世の章 その妻だけであった。カディージャは常に彼と偕に在りて、彼を慰め且励ました。 , 第 信者が彼女を敬称する如く、彼女こそは実に「信者の母 Umm al Mü'minin 」であった。 次でその女児、従弟アリー、養子ザイド及びその他の二、三が信者となったが、地位ある 作の時と同じく上衣に包まれて身を床上に横たえた。その時に天使また現れて下の如く命 じた とも ふえ