徒に対しては、概ね寛大なる態度を以てこれに臨み、その才能を利用するに躊躇しなかっ た。例えばウマイヤ朝では、ダマスコのヨハネを挙用して、長く宰相の重職におらしめた。 ヨハネはギリシア教会の最後の偉大なる学者である。而して彼の父セルギウスもまたウマ イヤ朝に仕えて大蔵卿の要職を務めていた。而も全体としてのヨーロッパ・キリスト教国 は一貫して回教の不倶戴天の敵であった。蓋し西アジア及び北アフリカの諸国は、長く口 ちきゅきゅう ーマ帝国の支配の下にその圧制と誅求とに呻吟していた。而して彼等のためにヨーロッパ 勢力よりの解放の路を拓けるものは、実にアラビア人の勃興であり、かかる歴史的因縁か らも、回教徒とヨーロッパ・キリスト教諸国とは常に対立抗争を繰返して来た。 インド教はキリスト教ほど有力ではなかったけれど、なお東方に於ける大なる障碍であ った。而して東インド諸島に於けるが如く、インド教の勢力が強大ならざる地域に於ては、 回教は殆どこれを克服し去るを得た。但しインドの大部分に於ては、インド教は頑強に回 あたか 教の進出に抵抗した。そは恰もヨーロッパ・キリスト教諸国の如く、回教徒の前に隠忍雌 伏して時節の到来を待ち、第十八世紀に入りて反撃を開始するに至ったのである。もとイ ンド洋岸の回教は、キリスト教との交渉も対立もなかりしに拘らず、その地域が西アジア れんらく に於ける回教圏中枢と密接なる聯絡ありしため、その影響の下にキリスト教に対して漠殊 たる反感を抱いていた。然るに第十六世紀以来、キリスト教諸国がインド洋に進出し来り、 永年に亙りて保持せる回教徒の地歩を脅威するに及んで、強烈なる敵意をキリスト教に対 016
クス・ミュラーの影響を受ける。他方、さまざまな宗教についての基礎知識 ( その中には イスラムも含まれていたであろう ) を学んだが、 , 彼の主体的関心はインド哲学にあり、特に 仏教に惹かれ、龍樹研究を卒業論文のテーマに選んでいる。 明治四十四年に大学を卒業するが定職につかず、参謀本部から依頼される翻訳のアルバ イトで生活費を得ながら、毎日、大学の図書館に通い、インド哲学、宗教の研究に没頭す る求道者の生活を送っていた。その間、松村介石が日本のキリスト教会から離れて組織し た「道会」という日本的な万教帰一的キリスト教の団体に入会し、機関誌『道』の編集に も携わるようになる。そこでその会の後援者であった押川方義とも知り合い、その思想的 影響を受ける。 このような生活の大川が、なぜイスラムに特別の関心をもつようになったのか。前述の ような生活が数年続いた大正二年 ( 一九一三 ) のある日、大川の間題関心に突然の変化が 生まれる。そのきっかけは、彼が偶然手にして読んだヘンリー ・コットンの『新印度』で あった。大川にとってそれまでインドは、深遠な哲学の国、仏陀生誕の聖地であったが、 今やそれは英統治下の悲惨な国へと変わった。こうして彼の関心は「印度から更に進んで 亜細亜諸国の近代史を読み、亜細亜問題に関する書物を読んで、欧羅巴の亜細亜制覇の経 緯、亜細亜を舞台とする列強角逐の勢を知」 ( 『安楽の門』 ) ることとなった。 他方で彼は、至高の真理、内面的・精神的自由を探求してきたインド ( およびアジア ) 2 ラ 8
が、なぜそのような状況に追い込まれたのか、その主体的原因を考え、次のような結論を 得る。すなわち、アジアは「その把握せる真理を社会的生活の上に実現するために主力を 注がなかった。その必然的結果は、内面的・個人的生活と外面的・社会的生活との分離を 招き、そのために一面には精神的原理の硬化、他面には社会的制度の弛廃を来たした」 ( 同 ) 。となれば、取るべき道は「此の二元的生活から脱却して、妙法を現世に実現する大 乗亜細亜とな、り、「吾々の国家的生活に、吾々の精神的理想に相応する制度と組織とを 与え」 ( 同 ) ることである。 こうして大川は、「最も広汎な意味での政治の研究」、特に政治と宗教の関係に関心をも ち始める。そして、「私が宗教と政治とに間一髪を容れぬマホメットの信仰に心惹かれた のも此頃のことであった」 ( 同 ) と述べている。 以上が大川がイスラムに関心をもつようになった経緯である。だが、この思考の推移に は論理の飛躍がある。アジアの衰退が大川のいうように、政教の分離であるとするなら、 両者の一致を旨としてきたイスラム世界の現状はどのように説明されるのであろうか。お そらく、インドを初めとして広くアジアの近代史をみていく中で、インドの伝統的宗教と は対照的なイスラムに出会ったのであろう。事実、当時は、共通の敵に対する全世界のム説 解 スリムの連帯と共闘を唱導するジャマ 1 ルツディーン・アフガーニーの汎イスラム運動が 広汎に見られた時代であった。この頃大川はまた、歴代天皇の伝記の執筆依頼を受け、そ
最大の影響は、ヘレネ文化及びベルシア文化であった。回教の純知的方面は、徹底してギ リシア文化に影響され、その神学は最も多くをアリストテレスの哲学に負うている。かく て回教文化は本質的に西洋的であり、インドやシナの文化に比べて、遥かに密接なる関係 をヨーロッパ文化と有っている。回教がヘレネ文化圏内に極めて迅速に弘布したのは、是 くの如き事情ありしに由る。 回教のこの発達は、ほば西紀一〇〇〇年までの間に成就せられ、当初の単純なる信仰が、 ろうこ この時までには一個の複雑なる社会体制となり、牢乎たる組織を与えられていた。回教は その後に於て、ヘレネ文化圏を超えて四方に進出し、わけても東方に於ては長き伝統を有 する高度の文化圏内に進出したが、その時には既に存分に発達せる強固なる体制として、 あくまで独自の面目を堅持するを得た。それ故に回教は、インド、シナ乃至インドネシア に於て、わけても低き階級の信者の間に、それらの国々の在来の伝統や文化の影響を見た けれど、回教本来の性格は、新しき環境によって決して本質的なる変化を見なかった。こ れ回教が極めて広き範囲に亙り、種々雑多なる民族の間に行われているに拘らず、能くそ いちによ ゆえん の文化的一如性を保持しおる所以である。 西紀六五〇年より一〇〇〇年に至る数世紀の間、回教圏は当時の世界ーー少くともョ 1 が ロッパを含む西洋に於て、最も文化高き国土であった。その都市は豪華、その寺院は壮麗、は ちんりん その学校は隆盛を極めし東方回教国は、暗黒時代に沈淪せる西方ョ 1 ロッパと、著しき対
の虐政に苦しめる民なれば、愛国心からの反抗がある筈はない。蹂躙せられたる民は唯 むし として新しき主人の前に俯伏した。異端の徒は寧ろ残酷に彼等を迫害し来れる権力の顛覆 を欣んだ。やがてこれら新附の民は、彼等の腐敗堕落せる宗旨に比べて、遥かに新鮮純一 なる回教の信仰に帰依するに至った。而してアラビア人自身は、往々にして取沙汰せらる ひょうかん る如き慓悍凶暴の民ではなく、寧ろ反対に甚だ恵まれたる素質を具え、その接触せる文化 を学び且これを摂取する上に何の偏見をも抱いていなかった。かくて征服者と被征服者と が、やがて同一信仰を奉じ、また雑婚によって血液を混じ、この融合から一個の新しき文 化が生れた。この文化はサラセン文化と呼ばれ、剌たるアラビア精神によって、ギリシ ア、ローマ及びベルシアの古代文明に生命を与え、これを回教的信仰によって綜合せる世 界文化であった。 回教は往々にして東洋的宗教と呼ばれ、その文化は東洋的文化と呼ばれている。さりな がら回教は、ゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教を包容する宗教群の一宗派であり、 この宗教群に共通なる根本信仰の上に立っている。そは決してインド又はシナの宗教群と 同類のものに非ず、従って若しインド及びシナを東洋的と呼ぶとすれば、明らかにこれと 対立する西洋的性格を有っている。而して最初にアラビア人が進出せる地域は、謂わゆる ヘレネ文化圏であった。ヘレネ文化圏とは言うまでもなくギリシア・ローマ文明の世界で あり、回教徒の初期の征服は殆どこの文化圏に限られていた。従って回教文化を長養せる よろこ はつらっ 012
さて斯くして建設せられたる回教諸法学派のうち、回教紀元第七世紀までは、六派の学 派が多かれ少かれ帰依者を有していたが、その後スフャーン派及びザーヒル派の二つは亡 び、今日現存するものは、シャーフイイ派、ハニーフア派、マーリク派、及びハンバル派 の四学派である。炫に学派と云うは、方向又は傾向を意味するアラビア語 Madhab の飜 訳であるが、これを以て単に学問上の分派と考えてはならぬ。いっさいの回教徒は、必ず 叙上四派のいずれかに帰依し、各派の法律に従わねばならぬ。故に学派であると同時に宗 派である。而して回教徒の帰属を決定するものは、稀なる例外を除けば、常に地理的事情 である。換言すればその生れたる地方に行われたる学派に帰依するのが原則となっている。 いま諸学派の地理的分布を見るに、シャ 1 フイイ派は下エジプト・シリア・南アラビア・ 南インド・マレ 1 半島及びマレ 1 群島に行われ、ハニーフア派はトルコ・中央アジア・南 インドに、マ 1 リク派は上エジプト・テュニス・アルジェリア・モロッコ及びその他アフ ンバル派は主として中央アラビアに於て行われている。 リカ各地に、、 諸学派の盛衰は、概ね偶然の、若くは外面的事情によって左右された。殊に権力者の好 悪が、最も大なる影響を及ばした。例えばシャーフイイ派の如き、もとアッパース朝の下 に恰も官学の如き庇護を受け、今日よりは遥かに多数の帰依者を有していたが、第十六世 紀初頭、オスマン・トルコ人が教団の主権を握るに及び、そのスルタンはハニ 1 フア派を 採択せるが故に、爾来トルコの政治的範囲内に該派が最も弘布せらるるに至った。トルコ 242
第一節アラビア半島 アラビアは、西は紅海によってアフリカ大陸と分たれ、北はシリア沙漠、東はベルシア 湾及びウマーン湾によってアジアの自余の国土と隔てられ、巨斧の刃に似たる姿をインド 洋上に展べている。そは一個の半島なるに拘らず、アラビア人自身はこれを「アラビア人 の島 Jazirat al Arab 」と呼んだ 9 まことにアラビアは、その地理的隔絶性のために、アア ラ ジア・アフリカ・ヨーロッパ三大陸の相結ぶ形勝の地に位しながら、長く孤島的存在を続 ア けて来た。紅海の彼岸に於て、ベルシア湾の彼岸に於て、またシリア沙漠の北に於て、幾 多の帝国が興亡し、幾多の民族が去来したけれど、如何なる国民もその完全なる支配をこ ア こうかく の磽礁不毛の国土に及ばせるものはなかった。そは永く世界の未知の「島」として残され、章 今日でさえこの島の奥地に関する吾等の知識は、南極または北極に関するそれよりも貧弱第 である。 第ニ章アラビア及びアラビア人 かかわ
ことを示し、信者は靴を脱せずしてその中に入るを許されぬ。いまインド及び中央アジア に於ける寺院の様式を次頁に図示する。而して寺院には灯台の形せる一個又は数個の「光 塔 Manarah 」が附設せられ、高く聳え立っている。 さて礼拝堂には必ず「導師 lmam 」がおり、また学生を教導する「教師 Maulawi 」が いるが、時としては一人にして両者を兼ねることもある。外に信者を礼拝に召集する「賛 教 Mu'addin 」がいる。 さて礼拝の時刻来れば、賛教は光塔に登り、メッカ聖殿に向って直立し、双手を挙げて 拇指を双耳に触れながら、出来るだけの高声を以てアラビア語の「宣礼偈 Adån 」を唱え る。 「アルラ 1 は大なり、アルラ 1 は大なり、アルラーは大なり、アルラーは大なりー 吾は証言す、アルラーの外に神なし、アルラーの外に神なしー 吾は証言す、マホメットはアルラーの使徒なり。マホメットはアルラーの使徒なりー ( 右に向きて ) いざ礼拝に、いざ礼拝に ! ( 左に向きて ) いざ救済に、いざ救済にー アルラーは大なり、アルラーは大なり ! アルラーの外に神なし ! 」 この宣礼に応じて礼拝堂に集まれる信者は、導師の指揮の下に、上述の順序で礼拝を行 154
ものとした。最も霊感に満ちたる美しき章句が末尾に廻され、乾燥無味なる長篇が前に置 かれたるために、人は古蘭を読むこと半ばならずしてこれを擲つを常とする。ヴォルテア じゅうりん の如きは「毎頁吾等の常識を蹂躙し去る不可解の書」と罵倒した。 〔註〕 ( 1 ) クルアーンはシナ回教徒によって古蘭・可蘭・克蘭等と音訳されている。予は中国回教倶進 会本部が民国二十一年に印行せる王文清の漢訳を、古蘭経と題せるに従ってこれを借用した。 ( 2 ) 古蘭四三ノ三。同八五ノ二二。 ( 3 ) 古蘭四三ノ二。同四四ノ五八 ( 4 ) Theodor Nöldeke 【 Sketches From Eastern History, p て . 25 ー 26. 但しミュイアは彼を読む ことも書くことも知らなかったとしているーー W. Muir: Life of Mohammad, pp. xiv-xv. ( 5 ) メディナ奉蔵の古蘭原典は、トルコ政府よりドイツ皇帝ヴィルヘルム二世に献上したと言わ れている。ヴェルサイユ条約第八部第二章第二四六条参照。 ( 6 ) 七種の読誦法のうち、最も弘く行わるるはハムザのそれである。またエジプト以西のアフリ 力ではナフィの、インドではスンナ・シーア両派ともアーシムの読誦法による。 八に「古蘭の ( 7 ) Maulvi Mohammad Ali: The Holy Qur ・ an, xliiff. 彼は古蘭七五ノ一七・一 結集と読誦とは吾事なりーとあるを根拠として、マホメットが天啓によって古蘭諸章の序次を定 めたと主張する。 098
メッカは、一木一草も無き荒涼たる丘陵に囲まれて、洋風浴槽の如き形をなせる谿谷に 建てられ、暑熱は酷烈、空気は乾燥、甚だしく不健康なる土地であるが、アラビアを横断 する隊商路とこれを縦断する隊商路とが、丁字形に相会する地点に位している。ここには ハガルとその子イシマエルを渇死から救ったと伝えらるる名高きザムザム Zamzam 井が ある。その水は塩分を含みて常用に供すべきもないけれど、この井の存在が、当初メッカ を隊商宿駅たらしめたる条件の一なりしことは疑いない。既に述べたる如く、ヤマン人は 往古より南アラビア・東アフリカ乃至インドの貨物を、ヒジャーズを経てシリア及びエジ プトに運んでいた。メッカの民はこの驚くべく有利なる商売に垂涎し、富裕なるヤマン商 人を羨視していたに相違ない。従ってローマ商船の紅海及びアラビア海進出によってヒム ャールの国運衰微するに及び、彼等に代って自らこの貿易を営まんと志すに至れることは、 極めて自然の径路である。この交代又は推移は甚だ徐々に行われたに相違ないが、西紀第ハ ラ ア 七世紀に入りてよりは、ヒジャーズを通過する隊商路は、最早メッカを根拠地とせるアラ ビア人の支配下に立っていた。 , 彼等はヤマン人が南方より運び来れる貨物をメッカに於て ラ 受取り、これを自らシリア及びエジプトに、また恐らくはベルシアにも輸送して、莫大な ア る利益を収めていた。メッカ商人のある者は、自らヤマンに赴いて商品を仕入れたが、彼章 等の主なる仕事は、ヤマン人やアビシニア人の運び来れる貨物を買取りて、これを北方諸第 国に輸出するに在った。かくてメッカ以北の隊商路は、殆ど彼等の独占する所となり、一