一 bn 一 båd を指導者とせる一派が、不思議にも能く団結を保ちて次第に多くの同志を得、現 に今日まで「イバ 1 ド派」の名を以て存続している。 そは先ずウマ 1 ン地方に弘布せられ、西紀七五五年 ( 回教紀元一三八年 ) に至り、イバ ード派の君主が統治者として選ばれた。最初の君主は、回教以前にウマーンの国王たりし ード派以外の回教をウマーンに入らしめざることに 一族の出であったが、爾来彼等はイバ 成功した。而してウマーン人は、航海者であり、商人であり、且植民者なりしが故に、イ 1 ド派をザンシ 、バール並に東アフリカ一帯に弘布し、以て今日に及んでいる。一方彼等 は、北アフリカにも信者を得た。北アフリカのイバード派は、現にアルジェリアの南部ム ザプ地方に中心を有し、自派以外の回教徒との婚姻を禁じている。 第二に述ぶべき回教の分派は、シーア Shi'a 派である。シーアとは「分派」の意味であ すえ る。彼等は既に述べたる如く、アリ 1 及びその裔を崇拝し、カリーフアの権は神意によっ て彼等に帰すべきことを主張する。この点に於てシ 1 ア派は、正にカ 1 リジー派と反対の いえど 極端に立つものである。正統回教即ちスンナ派と雖も、アリ 1 のカリーファたることを承の 教 認し、且その裔を尊敬する。そはただ彼等の要求する権利を否認するだけである。然るに 回 カーリジ 1 派は、アリーとその裔とを唾棄し、且彼等の一切の行動を呪詛する。アリーそ章 第 の人を暗殺したのも、実に曾て彼の部下たりしカーリジー派の一人であった。 さてアリーには、教祖の女ファ 1 ティマとの間に、ハサン Hasan 及びホサイン Hu ・
た。さり乍らシャーフイイは、虚構仮託の竄入あるが故に、真実なるものを葬り去らんと する性急を斥けた。人は伝説の真贋を洞察するの苦労を厭うてはならぬ。真に教祖の言行 であるならば、その権威は毫も古蘭の章句と異なる所ない。是くの如き言行が、古蘭の章 句と矛盾することありとせよ。若しその言行が、古蘭の該章句以後のものとすれば、古蘭 の規定はこれによって変改されたものと見ねばならぬ。かくて真実の「言行」は、法学の 至要の基礎とせられた。 次に彼は「合同決議。の意義を確立し、且これを拡張した。当初は「合同決議」とは、 初期カリーフア時代の「同朋」の決議を意味していた。然るにその後に至り、後代の学者 の合議も亦爾く呼ばれ、時代の推移の間に、自然に生じたる個人生活の慣習、統治上の慣 こと′」と 例、乃至裁判官の判決例までが、悉く「合同決議」の範疇に彙類されるようになった。従 ってその間に矛盾撞着を生ずべきは必然の勢いである。さり乍ら時勢の変遷、境遇の変化 が、異なれる生活の規範を欲し、且これを作るに至ることは、到底避くべくもない。故に シャーフイイは「合同決議。を以て、教団全体の合意を意味するものとなし、一の時期に 於て、教団全体が合意せる所のものは、神の意志に外ならずとした。回教徒一致の声は、 直ちに神の声である。何となれば教祖自身も「吾民の合同して決議することに謬りなし」 と言っているからである。この原則は、その胎内に代議政治を孕むものとして、極めて注 ならび 目に値する。現代ベルシア及びトルコに於ける革命は、実にこの事によって法学者並に神 しか 238
するため、多額の贈物を彼等になせる時、他の信者等はこれを以て同一部族に対する依怙 の沙汰として激昂した。古蘭第九章第五十八ー六十節は、この憤懣を宥めるためのアルラ ーの言葉であるーー・「彼等のうち喜捨について汝を誹る者あり。彼等その一部を与えらる れば即ち喜び、与えられずば即ち怒る。彼等宜しくアルラーとその使者とが彼等に与えた るものに満足し、且〈アルラー吾等を満たし給う、吾等アルラーを崇む〉と言うべきなり。 喜捨は貧寒者、窮困者、その徴収者、その心和げられし者、奴隷の解放、負債者、アルラ 1 の道、旅人のために用いらるべし。これアルラーの掟なり。アルラーは知者なり、賢者 なり」。 是くの如く捐課は、当初は必ず納附すべき法律的義務ある租税ではなく、宗教的義務と して任意に行う寄附であった。さればマホメット死後に於て、多くのペダーイ族は、彼の 長逝によって彼との間に結ばれたる契約は解消したるものとなし、捐課を納附することを 拒んだ。第二代カリーフア・ウマルの如きも「アルラーを信じ、礼拝を行う者は、これを 容赦せざるべからず。吾等はただ回教の敵と戦う」と言ったと伝えられている。従ってウ マル時代に於てさえも、捐課はなお未だ租税の性質を帯びてはいなかった。 而も信者が布施を行わねばならぬことは、古蘭の随処に明記されており、且教団は次第 に多額の支出を必要としたので、後年回教法学の発達に伴い、学者は古蘭及び聖伝を根拠 として捐課に関する細々しき律法を制定するに至った。それらの律法は、捐課は如何なる
は二四彼等の所行に対する報賞なり二五ここにて彼等は妄言悪語を聴かず二六ただ請安 請安というを聴く。 「二七右方の衆、右方の衆は如何二八そは棘なき阜角樹二九果実累々たる香蕉樹の間 こんこん 三〇鬱々たる樹蔭三一滾々たる清泉の畔三二幾多の果実ありて三三欠乏せずまた食うを 禁ぜられざる処に住み三四荘厳なる座褥の上に坐す三五また吾等は美女を造り三六これ を永遠の処女となし三七年齢相若き又その心を歓ばすものとなせり三八これ彼等のため なり三九多くの前人四〇多くの後人この報賞を受く。 「四一然らば左方の衆、左方の衆は如何四二彼等は熱風沸湯の間四三黒煙の蔭四四涼な らず爽ならざる処に在り四五洵に彼等これまで歓楽に耽り四六大罪を事とし四七且常に 曰えらく、吾等死して塵と骨に帰したる後、如何んぞ復活すべけんや四八吾等の祖先ま た然るべけんやと四九言え、洵に古人今人五〇知られし日の定まれる時に、必ず召喚せ らるべし五一この時汝等迷妄不信の徒は五二サックムの果実を食いて五三腹を満たし 五四また沸湯を飲むこと五五渇ける駱駝の飲むが如くならん五六これ審判の日に於ける彼仰 の 等の饗宴なり 教 回 楽園の歓喜及び地獄の苦悩は、マホメットの特に好んで且巧みに描けるところにして、 章 良く彼の気質と才能とを示している。而してそれは同時に信者を得る最も有力なる方便で第 もあった。現在に於てもなお然る如く、マホメット当時の北アラビア人は、激越なる言説 スイドラ
嗚呼汝包まれたる者よ ! 起って教を宣べよー 汝の主を讃えよー 汝の衣を浄めよー 汚行を遠離せよ ! ( 古蘭七四ノ一ー五 ) この時以来啓示は相次いで降った。マホメットは次第に天啓の確実を信じ、自己の使命 の偉大を疑わず、何者を以てしても動かすべからざる金剛不壊の力を得た。彼は自らアル ラーの予一一 = ロ者として、アラビアの衆生をその罪悪と迷信とより救うべく、これに向って全 能にして大慈大悲なる独一の神に対する信仰を鼓吹せねばならぬ使命を自覚したのである。 是くの如くにしてマホメットは、遂に予言者として現れた。最初に彼に帰依せるはただ マ 後世の章 その妻だけであった。カディージャは常に彼と偕に在りて、彼を慰め且励ました。 , 第 信者が彼女を敬称する如く、彼女こそは実に「信者の母 Umm al Mü'minin 」であった。 次でその女児、従弟アリー、養子ザイド及びその他の二、三が信者となったが、地位ある 作の時と同じく上衣に包まれて身を床上に横たえた。その時に天使また現れて下の如く命 じた とも ふえ
回教諸国の衰運に伴いて、回教そのものもまた種々なる打撃と抑圧とを受けて来た。さ りながら若しこれを以て回教の生命の泉が既に涸れ果てたるかに想像する者ありとすれば、 その人は甚だしき速断を敢てするものである。ョ 1 ロッパの天地を震撼せる回教徒の政治 的全盛時代は、もとより返らぬ夢となった。而も回教そのものは、決して過去の宗教とし て取扱わるべきものでない。そは今日に於ても、なお儼然として偉大なる宗教であり、且 吾等をしてその多望なる将来を想わしむる生命と活力とを具えている。 こぞ 回教紀元第八年、教祖マホメットが、世界に向って「人類挙って吾教に帰依せよ」と宣 言して以来、アラビアの沙漠を揺籃とせるこの宗教は、原を燎く猛火の迅速を以て四方に 説 弘まり、もとより時によって盛衰隆替を免れなかったけれど、現にこれを数字の上から見 ても、二億数千万の信者を擁している。而してその奉ずる信条に忠誠なることに於て、そ章 の信仰の篤実なることに於て、マホメットの帰依者は、これを全体より言えば、他の如何第 なる宗教を奉ずる者に比べて、優るとも決して劣っておらぬ。 第一章序説 りゅうたい
マホメットによりて同時に国民的自覚と宗教的信念とを強烈に鼓吹せられたるアラビア 人は、破竹の勢いを以て半島より進出し、先ずシリア、パレスティナ、エジプト、北アフ リカ及びベルシアを従え、次で西はスペインを略取し、東はインダス河畔を征服して、マ ホメット歿後百年には、ロ 1 マ帝国がその最盛時に君臨せるよりも広大なる版図の主人公 となった。その後この厖大なる帝国は四分五裂して、回教徒の政治的勢力は地に墜ちたが、 かえ 精神的には却って最も華々しき勝利を遂げた。それは最も残酷に回教徒を脚下に蹂躙せる 二つの強暴なる民族、即ち第十一世紀にはサルジューク・トルコ人が、次で第十三世紀に は蒙古人が、軍事的には徹底して彼等を征服し去れるに拘らず、精神的には彼等のために 征服せられ、共に回教を奉ずるに至りしことである。また蒙古の大軍がバグダードを襲い て衰世のアッパ 1 ス朝を血河に溺れさせ、且スペイン・キリスト教諸国が漸く回教徒を圧 ほとん は 迫し始めた丁度その頃から、回教は殆ど何らの政治的・軍事的背景なしに徐々にスマトラ に弘布し始め、次第に勝利の歩みを東隣諸島に進めて、遂に南洋一帯をその精神的領土と はしがき かっ かかわ じゅうりん
の心を惹くことは当然である。 メッカ第二期の諸章にも情熱と活気とはあるが、想像の逞しさは次第に減じ、格調は次 こよって 第に散文的となる。天地に於ける神のカ、歴史に現れたる神の心が、数々の例証。 力説されている。彼の信仰に反対する者に対して、いまや叱咤と激怒との代りに、道理に よる説得が試み始められた。但しその議論は明確を欠き且カ弱い。初期に於て僅に言及さ れたるに過ぎぬ彼以前の予一一 = ロ者に就ても、この度は長々と物語られている。而して恐らく この期の初頭に属する古蘭の一章は、特に吾等の注意を惹く。そは古蘭の劈頭に置かれる 開経章にして、回教に於ける主の疇であり、疑いもなく回教の真珠である 「一アルラーは讃むべきかな、そは諸世界の主、 一一大慈者、大悲者、 三審判の日の王なり。 四吾等爾に事え、救を爾に求む。 伝 五吾等を正しき道に、 及 蘭 六爾が恩寵を垂れ給う者の道に導き、 古 章 七爾の怒に触れ、また迷える者の道に導き給う勿れ。」 四 メッカ第三期の諸章は、古蘭の相当なる部分を占めているが、総じて散文的である。従第 前のものに比して章も長く節も長く、全体としての調子は説教に類している。そは古蘭中 なか
に、諸処に散在する断片を纏め、これを一巻の経典に結集する必要を痛感せるウマルは、 バクルはこれをザイド・イプン・サ ・バクルに勧めてこれを決意せしめ、アプー サイドはこれを以て山を動かすよりも困難なる大業なりとして、当初 1 ビットに命じた。、 は容易に受諾しなかったが、遂に説得されて結集に着手した。この際ウマルは、マホメッ トより直接に何事をか聴聞し、これをその面前に於て筆録せるものは悉くザイドに提出せ よと命じ、且その真実を立証する二人の証人あることを条件とした。ザイド曰く「予は古 蘭を探し始めた。予はこれを椰子葉や石盤や人間の脳裡から集めた。最後に予はアプー クザイマ・アンサ 1 リ AbüKhuzaimaAnsari が、懺悔章の末尾の数句を所有せるを発見 した。これらの数句は他の何人もこれを所持していなかった」と。かくして古蘭の最初の ・バクル及びウマルを初めとし、当時の故 結集がザイドによって成就された。そはアプー 老に十分なる満足を与えたであろうことは、これに対して如何なる異存も唱えられなかっ 1 ・バクルこれを護持し、その死 たことによって知り得る。この最初の古蘭原典は、アプ 後はウマルこれを護持し、ウマルの死後は彼の女にしてマホメットの妻なりしハフサ Hafsa これを護持することとなった。恐らくこの原典に拠って幾多の複本が作られ、信 者の間に弘布されたことであろう。 然るにウスマーンのカリーフア時代 ( 西紀六四四ー六五六年 ) に至り、アルメニア及びア ゼルバイジャン遠征軍を率いたるホザイファ Hudhaifa が、これらの地方に於て古蘭読誦 。 94
は暗記せるものである。商業都市メッカには、文字を知れる者多く、彼の最初の帰依者た る妻カディージャ、ワラカ、アリー、アプ 1 ・バクルなど、皆読み且書き得たので、マホ はや メットの初期の啓示も、彼等の手によって夙く既に筆記されていたであろう。そのメディ ナに遷りて後は、ウバイ・イプン・カープ Uba 一一 bnKa が彼の常任書記なりし上、その 他にも書記の役を務めたる者の数が、二十四人又は四十二人に達したと言われる。彼の秘 書役にして、後に古蘭結集の重任に当れるザイド・イプン・サービット Zaid ibn Thåbit は、ヘブライ語にも熟達していた。 マホメットは、予一一一一口者としての二十三年間、不断にアルラーの啓示を受けたのであるが、 これを筆録せる多数の断片は、彼の生前に於て組織的に整理されたことが無い。また吾等 はそれらの断片が如何にして保存されていたかを知らない。多くの啓示は、ある特殊の場 合に下され、従って一時的価値を有せるに過ぎなかったので、マホメットは敢てこれを保 存せんとしなかったであろう。一層重要なるものは、或はこれを筆記せる人々の手許に在 り、或はマホメットの妻たちの家々に置かれたであろう。而してそれらの断片の全部又は 大部分が、取纏めて一箇処に蔵置されてはいなかった。 また天啓は、既に述べたる如く、決して書写によってのみ保存されたのではない。そは 信者の脳裡にも保存された。記憶はアラビア人に取りて最も安全なる貯蔵庫であった。彼 ほとん 等は殆ど信ずべからざる記憶力の所有者にして、従前とても長文の詩歌や系図を暗記する かっ 092