三日間に全回教圏より集まり来れる信者の大会が開催されるのを例とする。そは宗教的行 事ではないが、回教徒結束のために重大なる政治的・社会的役割を務めることは言うまで もない さてミナ 1 滞在三日の後、参詣者は再びメッカに帰り、聖堂に詣でて告別七周礼を行い ザムザム聖泉の水を飲みて退出し、に全く参詣を終る。 多くの信者は、メッカよりメディナに赴き、マホメット廟前で礼拝を行う。但しワ、 プ宗徒は、これを以てマホメットをアルラーと同位に置くものなりとして、これを拒否排 斥している。参詣を済ませたる信者はハージー Håji と呼ばれ、信者の間に大なる勢力を 得る。 参詣は上述の如く定められたる月に於て行われる。但し回教徒は何時たりとも聖堂に参 拝することが出来る。参詣期以外に於て行わるる聖堂参拝は「参殿 'Umra 」と呼ばれる。 従って参殿は参詣と同時に行い得べく、また別個にも行い得る。両者を同時に行うには二 つの方法がある。一を「タマットウ Tamattu'J と謂い、他を「キラーン Q 一 ran 」と云う。 Tamattu' は利用するという意味で、参詣者は「参殿」を行わんとの念願を欲して禁忌に 入り、参殿を行える後に一旦禁忌を脱し、参詣日に更めてまた禁忌に入る。かくて参殿と 参詣との間は、厳格なる律法を守らずに平常の生活を営み得るが、そのために犠牲を献げ るか、又は参詣期中に三日及び参詣終了後に七日の斎戒を守らねばならぬ。 Qirån は結合 180
Kåfir 」である。不信者は、アルラ 1 の恩寵によって真理を認識し、これを信受し、且こ れを告白することによって、初めて回教徒たるの資格を得る。かくて回教の信仰とは「心 を以て真実に護持し、舌を以て確実に発表することーである。仮令アルラーの独一なるを 信じ、マホメットが神使なることを信じても、これを告白せざる者は信者でない。 総ての回教徒はアルラーを信じ、従ってアルラ 1 の意志即ち掟に従わねばならぬ。回教 おびただ の夥しき掟は、総称してシャル Shar' 又はシャリ 1 アハ Shari'ah と呼ばれる。シャルは 本来「道」即ち信者の履むべき道を意味し、延いてアルラーの定めたる律法を総称するに 至った。それは恰もユダヤ教の律法が、ユダヤ人の宗教的・社会的・家族的生活の全面を 規定するが如く、公私一切に於ける回教徒の行動を律するものである。 回教の律法は、宗教的・道徳的部門と法律的・政治的部門とに大別される。但し第二の 部門も、決して宗教から分離されておらず、また両部門のいずれにも属せざる数々の律法 も、明らかに宗教的意義を含んでいる。例えば許さるる楽器と禁ぜらるる楽器、金器銀器 の使用、男女の交際、競馬及び競射、男女の服飾等に関する諸規定の如きも、出来得る限 の 教 りマホメット及び初期信者の言行を模範とせんとする宗教的動機をその根柢としている。 回 章 さて回教の法律は、人間の行為を五種の範疇に分っ。第一は「義務 Far4J 即ち行えば 五 第 賞せられ、行わざれば罰せらるる行為である。第二は「功徳 Sunnah 」即ち行えば賞せら れ、行わざるも罰せられざる行為である。第三は「不問 Mubåh 」にして、律法が命令せ かっ
後継者を指名し得べく、時としては順次継承すべき二人又は三人の後継者をも指名し得る とされた。この場合に於て、カリーフアは教団を代表する唯一人によって選挙されること となる。但しその子を指名することは出来ぬと云う制約がある。 カリーフア選任の原則は叙上の如くであるが、事実に於ては、その選挙は首府の有力者 の手によって行われるか、若しくは生存中のカリーフアが、自己の意志により、又は強迫 によって後継者を指名し、民選の原則は実際に行われなかった。ただカリーフアがアラビ ア族クライシュ人たるべきことだけは固く守られていたが、トルコ人がカリーファたるに 及んでこの制規も破られた。 カリーフアは、啻に回教徒の精神的導師なるのみならず、同時に回教の全領域に於ける 政治的主権者であった。彼は常に「正義の四カリ 1 フア」を亀鑑とし、下の義務を尽さね ばならぬ。一、宗教の保護。二、回教領土の防衛。三、回教を承認せず、又は一定の法律 的条件の下に降服せざる者に対する戦争。四、係争事件の判決、及び犯罪行為に対する神 の法律の執行。五、国庫の管理、殊に租税の徴収及び俸給の支払。六、行政事務の監督及 び行政状態の検閲。カリーフアがこれらの義務を行う時は、全回教徒は忠実に彼に服従せ ねばならぬ。されど若しカリーフアが、これらの義務を尽すに不適任なるか、若くはその 権力を濫用するか、若くは精神的又は肉体的衰弱に陥る時は、教団指揮者たるの資格を失 うが故に、新にこれを選挙せねばならぬとされた。
するため、多額の贈物を彼等になせる時、他の信者等はこれを以て同一部族に対する依怙 の沙汰として激昂した。古蘭第九章第五十八ー六十節は、この憤懣を宥めるためのアルラ ーの言葉であるーー・「彼等のうち喜捨について汝を誹る者あり。彼等その一部を与えらる れば即ち喜び、与えられずば即ち怒る。彼等宜しくアルラーとその使者とが彼等に与えた るものに満足し、且〈アルラー吾等を満たし給う、吾等アルラーを崇む〉と言うべきなり。 喜捨は貧寒者、窮困者、その徴収者、その心和げられし者、奴隷の解放、負債者、アルラ 1 の道、旅人のために用いらるべし。これアルラーの掟なり。アルラーは知者なり、賢者 なり」。 是くの如く捐課は、当初は必ず納附すべき法律的義務ある租税ではなく、宗教的義務と して任意に行う寄附であった。さればマホメット死後に於て、多くのペダーイ族は、彼の 長逝によって彼との間に結ばれたる契約は解消したるものとなし、捐課を納附することを 拒んだ。第二代カリーフア・ウマルの如きも「アルラーを信じ、礼拝を行う者は、これを 容赦せざるべからず。吾等はただ回教の敵と戦う」と言ったと伝えられている。従ってウ マル時代に於てさえも、捐課はなお未だ租税の性質を帯びてはいなかった。 而も信者が布施を行わねばならぬことは、古蘭の随処に明記されており、且教団は次第 に多額の支出を必要としたので、後年回教法学の発達に伴い、学者は古蘭及び聖伝を根拠 として捐課に関する細々しき律法を制定するに至った。それらの律法は、捐課は如何なる
さて斯くして建設せられたる回教諸法学派のうち、回教紀元第七世紀までは、六派の学 派が多かれ少かれ帰依者を有していたが、その後スフャーン派及びザーヒル派の二つは亡 び、今日現存するものは、シャーフイイ派、ハニーフア派、マーリク派、及びハンバル派 の四学派である。炫に学派と云うは、方向又は傾向を意味するアラビア語 Madhab の飜 訳であるが、これを以て単に学問上の分派と考えてはならぬ。いっさいの回教徒は、必ず 叙上四派のいずれかに帰依し、各派の法律に従わねばならぬ。故に学派であると同時に宗 派である。而して回教徒の帰属を決定するものは、稀なる例外を除けば、常に地理的事情 である。換言すればその生れたる地方に行われたる学派に帰依するのが原則となっている。 いま諸学派の地理的分布を見るに、シャ 1 フイイ派は下エジプト・シリア・南アラビア・ 南インド・マレ 1 半島及びマレ 1 群島に行われ、ハニーフア派はトルコ・中央アジア・南 インドに、マ 1 リク派は上エジプト・テュニス・アルジェリア・モロッコ及びその他アフ ンバル派は主として中央アラビアに於て行われている。 リカ各地に、、 諸学派の盛衰は、概ね偶然の、若くは外面的事情によって左右された。殊に権力者の好 悪が、最も大なる影響を及ばした。例えばシャーフイイ派の如き、もとアッパース朝の下 に恰も官学の如き庇護を受け、今日よりは遥かに多数の帰依者を有していたが、第十六世 紀初頭、オスマン・トルコ人が教団の主権を握るに及び、そのスルタンはハニ 1 フア派を 採択せるが故に、爾来トルコの政治的範囲内に該派が最も弘布せらるるに至った。トルコ 242
とアラビアとの中間に位する。而して回教国家の隆盛が、これら諸国の統一を必要条件と するは言うまでもない。アッパース朝初代カリ 1 フアの努力は、この目的を遂げ得たかに 見えた。彼等は内憂外患と戦い、能く回教文化の極盛時代を実現した。彼等は磁石の使用 によって、東西両洋の航海貿易を盛大ならしめた。バグダ 1 ドに荘厳を極めし宮殿楼閣を 築いた。彼等の学者は、アッシリア、エジプト、ギリシア、ロ 1 マの古典を研究し、これ をその国語に飜訳し、また回教を哲学的に研究し組織した。史学及び地理学の研究もまた 盛んに行われ、彼等の手に成れる史書及び地誌は、その後ヨーロッパ語に飜訳せられ、今 なかんずく なお重要なる資料となっている。就中数学・医学・化学の研究は最も発達した。算術には インド数字を採用して、これを世界後世に伝え、アラビア数字として今日に行われている。 代数学及び三角術に於ても、ギリシア人より遥かに簡単なる解式を発見した。アルジェブ ラの語は、アラビア語の「連結」と云う意味である。その他農工業の方面に於ても偉大な る発達を見た。ダ ' マスコには大規模なる織物工場を作り、盛んにリンネル及びモスリンを 製出した。モスリンが「ムスリムー即ち「回教信者」と云う語の転訛なるは説くまでもな 。またサマルカンド及びバグダ 1 ドに、広大なる製紙工場を創立し、巨額の洋紙を産出 した。彼等の文化は、 かくして遥かに当時の西欧文化を凌駕していた。この文化はサラセ この文化は、決してサラ ン文化と呼ばれているが、厳格に言えば是く呼ぶは正しくない。 セン即ちアラビアの文化に非ず、彼等に征服せられたる諸国の文化が、回教的精神に統一 204
こと、国男女が互に皮膚を接触すること、但し両者の間に結婚の約束成立せる者を除く、 国生殖器に触れること。小穢を犯せる者は曰礼拝を行うこと、Üメッカ神殿を巡拝するこ と、曰古蘭を手にし、その頁及び表装に触れることを禁ぜられる。 小穢は小浄 wudü' によって解除せられて清浄となる。小浄は下の如き順序を守りて行 われる 曰穢を祓うために小浄を行わんと念じ、双手を手頸まで洗い ( 図ノ一 ) 、曰 両便を浄め ( 図ノ一 l) 、四口を漱ぎ ( 図ノ一一 I) 、国刷又は指を以て歯を磨き ( 図ノ四 ) 、因水 を吸人して鼻孔を浄め ( 図ノ五 ) 、旧額より顎まで、並に左右の耳辺まで全顔面を洗い ( 図 ノ六 ) 、囚右肘を撫で ( 図ノ七 ) 、囲左肘を洗い ( 図ノ八 ) 、田双手に水を注ぎ、小指と親指 とを除く六指にて頭を洗い ( 図ノ九 ) 、人差し指で耳の内側、親指でその外側を洗い ( 図 ノ十 ) 、固両手で頸を洗い ( 図ノ十一 ) 、固右足を洗い ( 図ノ十一 D 、左足を洗う ( 図ノ十 III)O 各部は三度宛繰返され、一部より他部に移る時に遅滞を許さず、また決して順序を 誤ってはならぬ。若し右手の前に左手を洗い、歯を磨く前に鼻を洗えば、小浄は総て無効 かっ となり、礼拝を行っても違法となる。また洗滌に用いらるる水は清浄であり、且清浄なら しむる力を有せねばならぬ。これに関して驚くべき繁瑣なる規定があるが、多くの地方に ては最も不潔なる水が平気で使用せられ、時としては悪疫伝播の最も有力なる媒介とさえ なっている。 次に大穢は下の事によって生ずる。曰死亡、Ü精液分泌、国男女の四肢接触、四月経、 142
ので、ヤスリプ市民は彼等の信仰を熟知していた。彼等はユダヤ人が独一の神工ホバを信 ぎようぼう 斯くの如き じ、救世主メシアの出現を翹望しつつあるを知った。或はヤスリブ人の間に、 信仰を教える救世主が、彼等の同一種族の間より出現せんことを希望した者があったかも 知れぬ。而して当時のヤスリプは、外に対してはメッカとその繁栄を争わんとし、内に在 りてはアラビア人とユダヤ人と相争い、またアラビア人中のアウス・カズラジ両族の対立 あり、市民が彼等のために繁昌と平和とを将来すべき偉人の出現を待つに至るべきは、自 然の人情であった。 伝説によればャスリプ市民とマホメットとの関係は、三段階を経て密接の度に進んだ。 最初ャスリプ市民のある者が聖堂参詣の序を以てマホメットに至り、その教を聴いて大い よろこ にこれを欣び、直ちに彼の信者となり、帰りてこれをャスリプ市民に告げた。かくて市民 は、アウス・カズラジ両族を代表する十二人を選び、メッカとヤスリプの中間に位するア カバ Aqaba に於てマホメットと会見せしめた。これらの代表者は皆な彼の信仰に帰依し、 ャスリプに帰りてこれを市民に伝えたが、市民の多くもまた欣んでこれを信受した。 而もメッカに帰れるマホメットは、翌年の参詣期まではヤスリプの事情を詳らかにし得 ~ なかった。而してこの待機の間に名高きマホメットの昇天が行われた。即ち宣教第十年七章 月二十七日夜、マホメットは先ずエルサレムの神殿に導かれ、そこより更に天上に運ばれ第 て目の当りアルラーを拝し、一日五回の礼拝を行うべきことを命ぜられたというのである。
回教の信仰は、その根本に於て、極めて簡単であり、教団の組織もその原則に於て、ま た極めて簡単である。それにも拘らず、否実にその事のために、回教教団の発達は混沌錯 綜を極めている。マホメットに導かれたる信者は、ただ回教徒たるを自覚せる外、決して 統治団体、利益団体、又はその他の如何なる団体の一員なりと云う意識をも有していなか った。総ての信者が、神の定むる所に従って行えば求めずして教団の理想的状態を現ずる と云うのが、マホメット及びその帰依者の信念であり、専ら神と信者との関係のみを念頭 に置き、教団又は教団中の団体と信者との関係に就ては、殆ど意を用いることなかった。 かくの如き思想は明白に宗教と道徳と法律とを混同せるものにして、教祖マホメットは、 これらの三者がそれぞれ人生の三つの方面に於ける規範として、特殊の領域を有すべきも のなるを知らなかった。故に教団に於ける律法は、本質に於てあくまでも個人的にして、 社会的要素は極めて少い。必要に迫られて後世に発達せる回教律法に於ても、神に対し、 同胞に対し、自己に対する義務を、微細に亙って規定しているが、教団そのものに対する 第七章回教教団の発達 かかわ わた 182
上来吾等が回教法律と呼べるもののアラビア語は、回教徒が踏まねばならぬ「道」を意 味する Shar' 又は Shari'ah である。そは回教徒が、アルラーによって定められたりとす る一切の律法ーー寧ろ一切の人間の本務の総称である。故に回教法律は、一切の点に於て、 最もユダヤ法と酷似し、宗教的・社会的・家族的生活に亙る人間行為の規範を定めるもの である。この意味に於て、ユインポルが 'IlmaIFiqh を PflichtenIehre と訳せるは正しく ある。かくの如くにして、回教法律にありては、その本質に於て全然法律の範囲外なる宗 教上の儀礼乃至道徳的行為を律すべき規定が、啻に回教法律の一部なるのみならず、儀礼 上の義務の如きは、特に重要なる部分を形成している。 さり乍ら是くの如き一切の規定に、悉く同一の強制力を有せしむることは、到底不可能 事に属する。故に回教に於ては、その強制力の大小によって、法律行為を「五種範疇と Ahkåm al Khamsah 」に分類する。その第一は「義務行為 Fard 」である。そは行わざれ ば法律によって罰せられ、行えば賞せらるる行為である。第二は「可奨行為 Mandüb 」 である。これを行えば賞せらるるも、行わざればとて法律の罰する所とならぬ。第三は 「不問行為 ubåh 」である。そはこれを行うも亦行わずとも、賞せられず罰せられざる行 為である。第四には「不可行為 Makrüh 」である。これを行うことは望ましくないけれど、 法律の罰は受けない。第五には「禁止行為 Haråm 」である。これを行えば即ち法律によ って罰せらる。 248