の宗教的中心なるメッカに対抗して、多くの巡礼者をこの国に誘致せんとし、先ず最も荘 厳なる礼拝堂をサナー San'åに建立した。この宗教的にして且経済的なる対立は、次第 にメッカとヤマンとの反目確執を深め、西紀五七〇年ごろ、アプラハは遂にメッカ遠征を 敢行するに至った。アプラハはこの北伐軍に巨象を伴った。この偉大なる動物はヒジャー ズ人の未だ曾て知らざる所なりしを以て、深刻なる印象を彼等に与え、この年を「象の年 Äm al FilJ と呼ばしめるに至った。但しこの遠征軍は、陣中に天然痘が発生したので、 目的を遂げずして帰還した。マホメットはこの「象の年ーに生れたと言われている。 この時を距る約四百年、ヤマンの沃野に灌漑する巨大なるマリプ Marib 貯水池が氾濫 崩潰し、これがために多数のヤマン人が、耕作すべき土地を失った。かくて彼等は、半島 の東海岸及び西海岸に沿いて北方に移住し、先ず西紀第三世紀初頭、オイフラ 1 ト河の西 方にヒ 1 ラ Hira 国を建設し、次で第三世紀末葉、シリアにガッサーン Ghassan 国を建 設した。その後第四世紀に至り、ヒーラ国より岐れてキンダハ K 一 ndah 国が建設せられ、 一時北部アラビアの諸部族を統一した。 叙上諸国以外に於て、特に注意すべき「屋壁の民」は、ヤマンよりシリアに至る隊商路 の要衝に当れるヒジャーズの二都市、即ちメッカ Makkah 及びャスリプ Yathrib ーー後 のメディナ AI Madinah である。 040
その掌裡に在りし官僚も、その正式の任命を仰がずにはいられなかった。事実に於て既に 独立国の君主なりし諸州の太守、就中インドの如き白雲万里の地に拠れる者さえ、カリー フアの厳粛なる承認を経なければその位に安んずることが出来なかった。かくして回教教 団に於ける政治的実権は、第五世紀 ( 西紀第十一世紀 ) の中葉に至り、アラビア人の手よ り離れて、先ずサルジューク・トルコ人の手に移った。彼等の英雄トウグリル・べプ TughrilBeg の巨腕によって、東はアフガニスタンより、西はギリシア及びエジプトの境 に至る西部アジアの全領域が、所謂スルタン Sultan の治下に立つに至った。 若しサルジューク・トルコ人の政治的権力が、永く持続されたならば、恐らく回教教団 の中に政教の分化、或は少くも政教の分立が行われたであろう。即ちサルジューク・トル あたか コ人のスルタンは政治的元首として、アラビア人のカリーフアは宗教的指導者として、恰 もヨーロッパ中世史に於ける政治と宗教との関係を出現したであろう。形勢は実に是くの 如き傾向を呈しつつあったのである。而もこの形勢は、蒙古族の侵寇によって忽ち阻止さ れた。これを敢てせるものは、忽必烈の弟、旭烈兀 Hu 一 agu である。この猛将は西紀一二 ース朝を倒して、回教のスルタン 五八年 ( 回教紀元六五六年 ) バグダードを陥れ、アッパ とカリ 1 フアとを同時に葬り去った。僅に時のカリーフアの叔父が、エジプトに逃れ、エ ジプト王の保護の下に影薄きカリーフアの称号だけを護持することとなった。而して次で 興れるオスマン・トルコ人の君主は、再び一身にスルタンとカリーフアとを兼ぬるに至 フビライ 206
最大の影響は、ヘレネ文化及びベルシア文化であった。回教の純知的方面は、徹底してギ リシア文化に影響され、その神学は最も多くをアリストテレスの哲学に負うている。かく て回教文化は本質的に西洋的であり、インドやシナの文化に比べて、遥かに密接なる関係 をヨーロッパ文化と有っている。回教がヘレネ文化圏内に極めて迅速に弘布したのは、是 くの如き事情ありしに由る。 回教のこの発達は、ほば西紀一〇〇〇年までの間に成就せられ、当初の単純なる信仰が、 ろうこ この時までには一個の複雑なる社会体制となり、牢乎たる組織を与えられていた。回教は その後に於て、ヘレネ文化圏を超えて四方に進出し、わけても東方に於ては長き伝統を有 する高度の文化圏内に進出したが、その時には既に存分に発達せる強固なる体制として、 あくまで独自の面目を堅持するを得た。それ故に回教は、インド、シナ乃至インドネシア に於て、わけても低き階級の信者の間に、それらの国々の在来の伝統や文化の影響を見た けれど、回教本来の性格は、新しき環境によって決して本質的なる変化を見なかった。こ れ回教が極めて広き範囲に亙り、種々雑多なる民族の間に行われているに拘らず、能くそ いちによ ゆえん の文化的一如性を保持しおる所以である。 西紀六五〇年より一〇〇〇年に至る数世紀の間、回教圏は当時の世界ーー少くともョ 1 が ロッパを含む西洋に於て、最も文化高き国土であった。その都市は豪華、その寺院は壮麗、は ちんりん その学校は隆盛を極めし東方回教国は、暗黒時代に沈淪せる西方ョ 1 ロッパと、著しき対
杜絶した。 第三節「屋壁の民。 純乎として純なるアラビア人が、自ら「天幕の民 , と誇り、沙漠を自由の天地として太 古以来の部族的生活を送りつつありし間に、彼等のある者は沿海の沃地又は隊商路の要衝 に定着して謂わゆる「屋壁の民」となり、農業及び商業に従事して沙漠の南北に大小の国 家を建設した。 既に述べたる如く、アラビアに於て最も天恵に富めるは、半島の西南隅に位し、ギリシ ア人によって「多幸のアラビア」と呼ばれしヤマンであり、夙く既に西紀前一三〇〇年の ころ、ミナ M 一 na 人がここに国家を建設し、一時南部アラビアの殆ど全部に君臨した。やハ がて西紀前九五〇年頃、サバ Saba 人もまた一国を建て、西紀前六五〇年頃にはミナ人に ア 代って南部アラビアの覇権を握った。この時より五百年の間は実にヤマンの黄金時代であ り、その雄大なる貯水池、その堅固なる城廓、その宏大なる神殿の遺跡は、明らかに彼等ラ の繁栄と勤勉と敬虔とを物語る。その後西紀前一一五年に至り、ヒムャール Himyar 人章 が彼等の後を継いで南部アラビアに君臨し、西紀一二四〇年頃一旦アビシニア人のために征第 服されたが、四十年の後に独立を回復して、西紀五二五年に及んだ。
彼よ空腹なるまま、椰子実を食 探すために家に帰った。その人が椰子実を一籠持参した。 , 冫 いては探し、探しては食っているうちに、食過ぎのために絶命したと伝えられている ( 回 紀二六一年、西紀八七四年 ) 。 アプー・ダーウード Abü Dåüd Sajistani はその名の示す如くセースタンに生れ ( 回紀 二〇六年、西紀八一七年 ) 、回教世界のあらゆる学問の中心に旅行して知識を博め、当代に 彼よ約五十万の聖伝を集め、その中から四千八百を選 並ぶ者なき敬虔篤学の士であった。 , 。 んでその「一言行録」に纏めた。 ティルミズイ—AbüIsåTirmidhi は回教紀一兀一一〇九年 ( 西紀八一一四年 ) ティルミズに生 れた。彼の生涯に就ては広く各地を旅行したこと、ハンバル、プカーリー及びアプー・ダ ーウードに師事したこと以外は、殆ど何事も知られていない。彼は初めて聖伝をその真実 の程度に従って三種に分類した。 ナサ 1 ィー Abü 'Abd AI-Rahman al Naså'i は回紀一一一四年 ( 西紀八二九年 ) コラサン のナサーに生れた。 , 。 彼よ隔日に断食し、四人の妻と多数の奴隷を有っていたと伝えられて いる。回紀三〇三年 ( 西紀九一五年 ) 、彼はアリーの徳を頌えた一小冊を書いたが、この事 がダマスコの民を激昂せしめ、彼等のために殴打されて落命したと言われる。 マージャ Abü 'Abd Allåh Muhammad ibn Måja は回紀二〇九年 ( 西紀八二四年 ) イラ クに生れ、その「言行録」には四千の聖伝を収めている。 116
次にヤスリプ即ちメディナは、北方に向って緩く傾斜せる平野に位し、水に豊富なる点 に於てアラビアでは稀有である。多くの河床が皆な南より北に向い、ザガー ハ Zaghåba むか に於て合流してイダム ldam 河谿に注ぎて海に嚮う。河床に水あるは降雨の後に限るけれ ど、井を掘りて容易に水を得られるが故に、この地には夙くより農耕が行われていた。 やや ャスリプの起原及びその最古の歴史に就ては、正確なる何事も知られていない。稍々確 実に知り得るはユダヤ人がこの地に定着してより後のことであるが、彼等が南下し来れる 年代もまた明らかにし難い。ただ西紀第一世紀頃には、クライザ Kuraiza 及びナディー ル Nadir と呼ばれしユダヤ人の両部族が、この地に占拠して栄えていた。然るにその後 ヤマンに於けるマリプ貯水池の崩潰による南アラビア人の北方移住が開始せらるるに及び、 アウス Aus 及びカズラジ Khazraji の両アラビア部族がこの地に来りて土着することとな った。彼等は長くユダヤ人の支配下に置かれていたが、第五世紀末葉に及んで、遂に彼等 に代ってャスリプの覇権を握るに至った。 新しきャスリプの主人公は、従来ユダヤ人の占拠せる諸堡塁を略取し、その上に若干の 堡塁を築いた。最も有力なるカズラジ族がヤスリプの主権を握りて居を市の中央に占め、 その南部及び東部にはアウス族が住んだ。これらの両族以外に、彼等の移住以前よりこの 地に住み、永年に亙りてユダヤ人と接触し、多かれ少かれユダヤ化せる数個のアラビア族 044
スト教は夙く北方よりアラビアに伝えられたが、東ロ 1 マ皇帝コンスタンテイヌス二世の 時に至り、西紀三五六年テオフィルス Theophilus を首班とする一伝道団をヤマンに派遣 した。テオフィルスはアデン Adan 及びその他の二個処に礼拝堂を建設した。その後西紀 五〇〇年頃、ナジラーン Najran の民が挙ってキリスト教に帰依した。而してユダヤ教は 一層弘くヤマンに行われ始めた。ユダヤ人が多く南下し始めたのは、西紀七〇年、ローマ 皇帝テイトウスによるパレスティナ征服以後のことであるが、彼等はアラビアの各地に定 着して農耕並に商業を営み、メディナ及びターイフにも有力なる居留地を築いていた。わ けてもヤマンに於ける彼等の勢力は目覚ましく、ヒムャール国最後の君主となれるドウ・ ヌワース DhuNuwas は実にユダヤ人であった。 たいとう ユダヤ人の是くの如き擡頭は、ヤマンのキリスト教徒との対立反目を招き、西紀五二一一 人 ア 年ドウ・ヌワースはナジラーンに於けるキリスト教徒の大虐殺を行った。その残存者がこ の暴状を東ローマ帝国に訴えたので、ジュスティン一世は書をアビシニア国王に送り、ヤ ア び マン征討の軍を起さしめた。よってアビシニアは西紀五二三年及び五二五年、大軍を催し ラ てヤマンに入り、ドウ・ヌワースを攻めて遂にこれを亡ばした。而もキリスト教徒の援助 ア 章 者として来れるアビシニア人は、一朝にして征服者と代り、第二次遠征軍を率いたるアプ 第 ラハ Abrahah は、自らヤマンに君臨するに至った。 アプラハ及びその部下のアビシニア人は、今やヤマンをキリスト教化し、北部アラビア
せられて開花せるものに外ならぬが故に、如実に回教文化と呼ばるべくある。事実文化的 には、征服者たるアラビア人が、被征服者のために却って征服されている。 英主マンス 1 而もカルロ大帝の偉大なる帝国が、大帝の没落と共に四分五裂せる如く、 ル Mansür 及びマーム 1 ン Ma'mün の回教帝国も、同一轍を踏んで行った。名高き回教 史学者イプン・カルドウン lbn KhaIdun は、アラビア人を批判して下の如く言っている。 日く彼等の性格は、若し宗教的情熱が統一の絆たるに非ずば、決して帝国を建設するに堪 えず、而して能く帝国を建設するも、これを統治する才能を欠くこと、一切の民族のうち アラビア人の如きはないと。こは酷評ではあるがある程度まで当っている。権力の欲、黄 金の欲は、次第に増長したが、アラビア人の宗教的情熱は、年と共に冷却して行った。か くて富貴を求めて得ざりしアラビア人は、再び沙漠に帰りて、昔ながらの生活に復った。 とみしようま これと共に回教の戦闘力が、頓に銷磨した。カリーフア自身の保護が、今や傭兵を煩わさ ねばならぬ様になった。而してローマの軍隊が然りし如く、後にはこれらの親衛軍が、カ達 発 リーフアの死命を制するに至った。前述せるシ 1 ア派の叛乱に連れて、諸州の太守も次第 教 教 次第にバグダード政府より離れ、半独立国となって行った。回教紀元第四世紀、即ち西紀 回 第十世紀中葉以来、アッパース朝のカリーフアは、全く政治的権力を失い、ただ虚位を擁章 第 するに過ぎなかった。 それにも拘らず、カリーフアは不思議にも精神的権力を持続した。カリ 1 フアの廃立が
る意志、その巧妙なる手段は、その大胆不敵なる目的と相俟ちて、世に稀なる伝奇的なも おびただ のであった。数十年の努力の後、彼の信者は夥しき数に上った。而も彼自身は、播種者と して世を去り、遺志を継げるその子アハマッドの時に、運動は初めて表面に現れ、西紀八 1 ライン、南部アラビアに於て、 九八年 ( 回教紀元二八五年 ) 以来、南部メソボタミア、 アッパ 1 ス朝に対する叛旗が堂々と飜されるに至った。而してアハマッドの子サイド Said は、正しくべルシア人でありながら、第七代イマームその人の裔なりと称し、ウバ イド・アラー・アルマハディ 'Ubayd AIIåh aI-Mahdi と名乗りてエジプトに至り、西紀 九一七年 ( 回教紀元三〇五年 ) この地に所謂ファ 1 ティマ朝の基礎を置き、その初代君主 となりてカリーフアを称した。ファーティマ朝は、その後五十年にしてエジプト並にシリ アを征服し、西紀一一八八年 ( 回教紀元五八四年 ) までこれに君臨したが、竟にクルドの 英雄サラー・アッディーン Sa 一 ahadD ゴ即ちサラディンの為に亡ばされた。 第四節回教に於ける政権と教権 既に述べたる所によって、アッパース朝の治世が、多事を以て終始せることは、言を俟 さだ たずして明白であろう。当初アッパース朝の建設者が、首府をバグダードに奠めたるは、 その非凡なる政治的識見を示すものである。チグリス河畔のこの都は、ベルシアとシリア
てハレー彗星現れ、その後四年にして、流星雨の如き異象現れたので、さなきだに迷信深 き民のこととて、一体に甚しき不安に襲われた。或は世界の末日が近づいたと唱えた。或 ぎようぼう は新しき救世主の出現を翹望した。ユダヤ教に於けるメシアの観念と、同一の精神的根拠 を有するマハディ Mahdi の思想が、俄然として擡頭し来れるのも、実にこの頃のことで ある。而してシーア派は、アリーの裔が救世主即ちマハディとして、世に現れる日が来た と宣伝して、人民の間に多くの信者を得たるに乗じ、諸処に叛旗を飜してアッパース朝に 挑戦した。 時のカリーフアが、これらの叛乱を鎮定するために、非常なる努力を払って、彼の世子 こそマハディなれと宣伝したのを見て、吾等はマハディ思想が如何に有力なものとなりし かを知り得る。この宣伝が如何ほどの効果ありしかは疑問であるが、兎にも角にもカリー フアの武力が、統一なきシ 1 ア派の叛乱を抑圧し去った。それらの叛徒のうち、ハサンの 孫イドリス・イプン・アプダラ—IdrisIbn'AbdAllåh は、メディナに於て事を挙げたが、 志成らずして西紀八〇〇年 ( 回教紀元一八四 ) アフリカに亡命し、モロッコに一国を建て て、イドリス朝の第一代君主となった。この王朝は西紀九九六年 ( 同三八六年 ) まで継続 し、北アフリカの西半に、マホメット家の権力を確立した。その後内乱相次ぎ、シーア派 の諸王朝が起っては倒れ、倒れては起ったが、西紀一五九二年 ( 同一〇〇一年 ) に至り、 同じくハサンの後裔なるマホメットが、群雄を従えて再びモロッコ国を統一し、その子孫 198