家庭に入ることは想像できたが、名のある企業に就職して安定を得た男が、分別盛りの 年になって大と宝石を相手に自炊することになるとは本人も思わなかったに違いない 「女運が悪くてね」 偶然の再会からしばらくして小西は自分から語った。初婚の相手は病的な浪費家で、 美しい人であったが生活が破綻して別れることになった。美人に懲りた彼は誰が見ても 家庭的な女性を再婚相手に選んだが、これが思ってもみない多情で、一年半の海外出張 の間に別の男と関係を持っていた。帰国したその日に女の方から離婚を切り出されたと きのショックは忘れられない。彳 皮女には結婚後も関係を絶てない複数の男がいたのであ る。呆然として、罵ることも殴ることもできなかった。 子供のいないことが救いとはいえ、生活の整理で疲れ果てたうえに、会社の上司には また離婚か、と欠陥のある人間のように見られた。気が抜けて仕事も乗らなくなると、 会社の評価も下がる。嫌な空気を感じるようになって、人員削減候補の筆頭になる前に 転職を考えたが、都会の会社勤めに未練はなくなっていた。 「最後は同僚の女性まで信じられなくなったよ、会社といったって利己的な人間の集ま りだからね」 「それで大と鉱物ってわけ」 奈央子は鵜呑みにはしなかった。彼女の知る小西こそ、おとなしく家庭を守るタイプ ののし
常であった。 「いい喫茶店を見つけてね、コーヒーよりケーキが、つまいから買ってきた、ひとつは卓 也にやってくれ 彼は立ったまま話した。集中したい人を察すると二分もしないうちに帰ってゆくが、 ろくに話もせずに女の手仕事を眺めていることもある。 「人の子を気安く呼ばないでほしいわ、ケーキはあとでいただきますー 「機嫌が悪いね、働き過ぎじゃないのか」 「あなたのようにぶらぶらしていたら、この世界では食べてゆけませんから」 奈央子は材料の孔雀の羽を削り、終わるとノギスで寸法を測りながら、気のない返事 をした。小西はいつものように女の穴蔵を見まわしていた。たくさんある細長い材 ( 広ロの瓶や花生けに立てて整頓してあるが、女らしいものの見えない仕事場であった。 「君が浮子作りの職人とはね、未だに信じられないよ」 「わたしも信じられないわ、あなたこそ、どうしてこんなところにいるの」 「こんなところはないだろう、自分も住んでいるくせに お彼は皮肉に笑った。 東京湾の東側にある大学の工学部で大規模生産技術を学んでいた一一人が、四半世紀後 に孤独な手仕事で食べているのは人生の皮肉でしかなかった。いっか女が仕事を捨てて
なんとか自信作ができたときには数年が経っていた。 箱より中身の方が軽い包みを抱いて、かって取りつく島もなく追い返された問屋へ持 ってゆくと、一目見た主人が、 「すまなかった」 と頭を下げた。 「これからも納めさせていただけますか , 「どんどん作って持ってきなさい , その瞬間に奈央子はヘラ浮子師として認められたのである。けれども誰かにもっとよ い浮子を作られたら、すぐに廃れる世界であった。品質を維持することはもちろん、常 に新作のための工夫をしなければならない。しかも根仕事で量産できないという隘路が 「家のローンの返済があるし、学資までは無理かしら」 帰り道、彼女は親の夢に目覚めた。そろそろ泉美の進学を考えなければならない時期 れであった。間に合うかもしれないと思うと困難は張り合いにもなって、その日から仕事 の目標を高くした。自身に最も厳しかった夫がそうであったように、物作りの厳しさに 潜む喜びを見出し、腕一本で生活してゆく自信を得たのである。妥協や気の弛みは生活 坂 舅、こ号れるあ 日々の巨怛しし「物 者としても禁物であった。それが自分に残された人生だと思い、
「ヘラブナが釣れなくても誰も死にやしないが、まずい浮子は湖沼から追い出される、 だからこっちが命を懸けるんだ」 彼はそう言いわけした。今ならなんの抵抗もなくうなずくところだが、ひとりで作り はじめたときの彼女は覚悟が足りなかった。生活と子供の将来をかけていながら、人に 負けない浮子を作ることに淡白であった。それでは端から負けているのも同じだと、や がて気づいた。作業は孤独との闘いでもあった。 彼女は釣りのプロでもアマでも気持ちよく使える浮子を目指した。そのために自分で もヘラブナ釣りをはじめた。印旛沼で好い年をした女がひとり釣りをする姿は、間違え ば狂気に見えたかもしれない。だが、夫がそばにいてくれるようで愉しかった。自作の 浮子の動きから次の課題も見えてくる。 ヘラ浮子には四種あって、長いものは六十センチにもなる。材料の孔雀の羽の骨には 綿のようなものが詰まっていて、ちょうどよい浮力を生んでくれるし、感度も悪くない それを二枚に割ってから数枚を張り合わせて竹ひごを入れ、木綿糸で巻いて乾燥させる とシンができる。このシン作りが浮子の命で、それは優しく紙ャスリで磨いてゆく。最 後に水面に出るトップに彩色して仕上げるが、手仕事なので全く同じものはできない。 全神経を集中して理想の浮子ができても、一本だけ問屋に納めるわけにはゆかない 詰めの品質を均一にするには腕を磨くしかなく、ひたぶるな努力と失敗を積み重ねて、
然の死別は彼女を打ちのめし、腑抜けにした。しかし泣いてばかりもいられなかった。 「これから二人の子をどう育てるのか 「自分が外で働けば二人はカギっ子になる 「家でできる仕事は浮子作りしかない、やらなければあの人の浮子も消滅してしまう」 彼女は一念発起してヘラ浮子師を目指したが、夫の仕事の域に到達するのは至難だと すぐに分かった。長く彼の丁寧な仕事ぶりを見てきたというのに、簡単そうに見えてい た作業の本質を馴れだろうと勘違いしていたのである。一流の職人技を見ながら、何も 見ていないのも同然であった。 てさば 夫の手捌きをひとつひとっ思い出すことからはじめて、五十余りの工程を自分のもの にするだけでも月日がいった。三十代で製造業の技術者から転身した夫も同じ苦労をし たのである。いっ折れるとも知れない、無我夢中の貧しい生活が待っていた。 「子供のミルク代もないのに」 と若かった彼女は夫の冒険を醒めた目で見ていたが、やがて彼はあたりを早く取る新 方式の浮子を次々と考案した。研究熱心な完璧主義者で、妥協の産物はひとっとして許 さなかった。納品前にたまたまそんなものが見つかると、同じ種類のものは全部へし折 って捨ててしまった。職人の誇りであり、主婦にはない勇気であった。たった一箱の不 ひとっき 出来な浮子のために夫婦は一月分の生活費を失うことになった。
西健夫は数年前に近所の新興住宅地に越してきた奈央子の大学時代の仲間で、あるとき 印旛沼のほとりで出会うと、そのまま家にまでついてくるような男であった。学生のこ ろから野放図なところがあったが、長い歳月を経ても変わっていなかった。 「わたしの留守中にあの人を気軽に家に上げては駄目よ、つけあがるから」 「でも、かあさんの友達だろう」 「友達にもいろいろあるの、二度も離婚して大と暮らしている男を信用できると思う、 突然こんなところに引っ越してきて、ちゃらちゃらした指輪だのネックレスを作る人よ」 「かあさんの浮子と何が違う」 「もちろん神聖さよ、物作りには清潔な魂がいるのー 奈央子は言ったが、女の作った浮子など売れないと頭からはねつけられて、幾度悔し い思いをしたか知れなかった。一本一本の浮子に生活がかかっていたから我慢したが、 青ざめた顔で問屋を出るときの屈辱感とあてどなさは今でも忘れられない。ひとり悪戦 苦闘の日々が続き、命懸けで作らなければ生きてゆけないと思いつめたときから十年の 歳月が過ぎたが、 よくここまできたと思、つ。自分のことながら、絶望して終わらなかっ たことに感、いしてしま、つ。 ヘラ浮子師だった夫が脳出血で急死したのは、働き盛りの四十八歳のときであった。 奈央子は今その年を生きているが、やはり人生を終えるには早すぎる若さであった。突 たけお
固めたところであった。家があって、仕事があって、食べてゆくことが、普通にはでき ない日々が続いた。母親が父親にもなる母子家庭の弱点は女ひとりでは足りない時間と 体力と信用で、二人の子は支えにもなれば重荷にもなった。夫の啓二が頼りになる人だ っただけに、アクセルもプレーキもなくして坂道を滑り落ちる感覚で生きてきたから、 みの 娘の結婚はひとつの稔りであり、区切りであった。 たく いんばぬま 午後も遅くなって印旛沼にほど近い千葉の家に帰り着くと、風邪で寝ているはずの卓 也が起きていて、結婚式はどうだったかと訊ねた。来春に国立大学の受験を控えた息子 は誰に似たのか暢気で、三年生の今も将棋クラブに顔を出している。私大へやる資金も ゝ 0 、、 ヘッドに替りな 浪人を許す余裕もないというのに、風邪で休む日は本当に何もしなし こっそりメールを打つのであった。 がら、勉強は頭の中でしていると言い、 奈央子は居間のテープルに引出物の包みを置いて、疲れた体をソファーに沈めた。 「式はとてもよかったわ、泉美らしいというか大袈裟なことが一切ないし、それなりに 厳粛で牧師さんの言葉も素敵だった」 ま 「姉さんも今日から人妻か、 し 「嫌らしい言い方はよしなさい、それより起きていて大丈夫なの」 「小西さんが来たよ」 坂 、、皮の車で病院に連れてゆかれ、点滴を打ってきたことを報告した。小 と卓也は言し彳
いずみ 東京の小さな教会での挙式は娘の泉美を普段通り控えめに見せたし、そのあとスペイ なおこ ン料理の店で催された披露宴も分相応の微笑ましいものであったが、奈央子は終わると ぐったりした。クリスチャンでもない二人が教会で誓いを立てて、スペイン料理で祝う という経済的な儀式は若さの発想であろうし、招待客も少ない。ひとりで出席した彼女 は馴れない雰囲気と料理を持て余して、娘の晴れ姿ばかり見ていた。 どうにか短大へやった娘はそのまま東京に住み続けて、通信社に勤めていたが、恋人 ができるとあっさり結婚を決めてしまった。相手はオーナーシェフを夢見るイタリアン のコックであった。今どきの青年で、清潔な顔と物怖じしない心を持ちながら行儀作法 を知らない。話すことも自分のことばかりで、相手を見て大人の会話ができない。娘が 優しい人だと一一一一口うので奈央子は強く反対もしなかったが、万一のときの援助もできない だろうと思った。それは泉美も心得ていて、目標があるから生活は質素にすることに決 めていると話した。だが、注意していても躓くことはあるのである。 突然の夫の死から、途方に暮れた長い季節が過ぎて、奈央子もようやく生活の地盤を つまず
決めたように、来し方に終止符を打たなければならない 次の日から家と事務所にある自分のものを片付けて、マンションを出たのは三日後の 夕暮れであった。新しい日々に必要なものはスーツケースとボストンバッグひとつに収 まり、思い出や海いにつながるものはすべて捨ててしまった。小町は小町で自分のがら そこから彼も新しくはじめるだろう。偽りの生活を続けて くたを見つめてみればいい。 みたところでどうにもならないのだと思った。 暮れてゆく川べりに風が立ち、川の見えないマンションの寄り付きにも親しい匂いが 流れてきた。ささやかな植込みが揺れて、古い葉が風に飛ばされてゆく。呼んでいたタ クシーが来ると、彼女は運転手に荷物を任せて乗り込んだ。 「少し飛ばしてください」 そう告げて、小町と暮らした家を振り返ることはしなかった。かわりに近所の公園や ビルの看板を感慨深く眺めた。知っている街並みは瞬くうちに消え去り、やがて高速に 、 ) 、記應にあるだけの悲哀が 乗ると、彼女は目を閉じた。ここまで来た長い道のりを思し 吹き飛ばされてゆくのを感じ、これから生まれる記憶の入口に待っている人を想った。
後の時間を使ったのだろう。 眠れずに寝返りを打っと、語りかける人のいないべッドが見えて、杏子は虚しいもの に眺めた。もしそのときがきたら、わたしは誰に電話をするだろうかと考え、今なら久 住しかいないと思った。すると無性に声が聞きたくなって、枕許の携帯電話に手を伸ば した。 非常識な時間であったが、昨夜からのことを話すうちに久住は目を覚まして、 「それはつらかったね、不安なら今から迎えに行こうか」 と一一一口った。 「ここへ来るのはよして、あなたには見せたくないもので一杯なの」 「思い切って片付けたらいい、 時間はあるようでないよ」 「そうねー 杏子は本気で身軽になることを考えはじめた。千佐子の霊もその辺を漂いながら、そ はかな しうなさいと言っている気がした。人は年とともに物を溜めて、埋もれ、人生の儚さを知 整るとき、その無駄に気づくのかもしれない を た「明日、会えないか」 ら 久住が心配そうに言い、彼女は二、三日待ってくださいと答えた。この人をこれ以上 、カ 9 6 待たせてはいけないと思い、ある考えを実行するつもりであった。病身の千佐子が心を