出 - みる会図書館


検索対象: 太陽は気を失う
239件見つかりました。

1. 太陽は気を失う

311 夕暮れから お願いしますー 内輪にだけ見せる厳しさで、いつもながらこの瞬間にもう一人の自分と切り結ぶ気持 ちであった。ほどよく暗くなってきた寄り付きに目をやり、凉しげな微笑を溜めてゆく のもいつものことであった。たちどころに彼女はすっきりした顔を作った。そうして花 柳の女らしく、なんの憂いもないように出を待っための座敷へ入っていった。

2. 太陽は気を失う

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3. 太陽は気を失う

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4. 太陽は気を失う

180 る気にもならなかった。 夕方、夕刊を取り込んで出の支度をしていると、組合から電話があって、秋のパリ邦 楽公演が決まったので新橋を代表して行ってほしいと言われた。和太鼓と三味線の共演 だという。週明けには奏者の顔合わせをして、演目を決め、すぐに稽古に入るそうで、 ひとり不動の演奏を聴かせるのが小勝の勤めであった。 「こんなときに急な話ですまないね」 「いいえ、お安い御用です、ありがとう ) 」ざいます、 「じゃあ、あとでまた」 吐息を引いて電話が切れると、小勝は付け毛をつけて、その中に池部のタイピンを忍 ばせた。。 ' すいぶん前にそうするようになってから座敷で失敗することもなくなり、なぜ となく安心もするのだった。髪の中の連れは誰からも見えない。彼女にはもうそんなも のしかなかったが、 それさえあればパリだろうとどこだろうと怖い気はしなかった。 「演奏家だってさ、あんたも行くのよ」 彼女は独り言を言いながら、不覚にも涙で化粧を濡らした。明け方、寿代が旅立った えもん ばかりであったが、 今日も粋に衣紋を抜いて約東の座敷へ向かうのであった。 かお

5. 太陽は気を失う

228 地方出の学生が一年目を暮らすような早稲田のアパートにも古い住人がいて、東京で は珍しく挨拶を交わす。偶然顔を合わせたときのご愛嬌で、立ち入った話はしないこと ふみえ と騒音を出さないことが暗黙の礼儀であった。そういう人は一階に集住して、文江の隣 人はおそらく水商売の男であった。それも一流の店ではないだろう。首から上だけが清 潔な五十年輩、夜行性、独身でギャンプル好き、料理も洗濯もする。下着と靴下は上物 だが、クレジットカードは持たない現金主義で、ときどき同居人ができる。文江も似た ような生活と年齢で、そこに暮らしはじめて二十年近くなるが、財産らしいものは増え ていない 「あんたの商売じゃねえ」 と二流のホステスにも言われる。 「あんただって今はいいけど五年もしたら」 彼女は胸の中で言い返し、厚化粧の顔で苦笑してみせる。天職と思っていたジャズシ ンガーになって長いが、売れたことはなく、未だに地方の観光ホテルやキャパレーを巡

6. 太陽は気を失う

川に架かる橋まで来たとき、古いリュックを背負った老年の婦人が腰を曲げて立って いて、ス ーの場所を知らない婦人は町の人ではなく、 ーパーはどこかと訊かれた。スー どう見ても九十年輩の容姿だったので、送ってゆくことにした。私も一泊の荷物を入れ たリュックを背負っていたから、後ろ姿は母子に見えたかもしれない。道々、婦人は九 十二歳で、三キロほど離れた新興集落に住み、同居の看護師だった娘が癌を患い、看病 していると話した。今日はどうしても必要なものがあって買いにきたということであっ 私は婦人に気づかれないように溜息をついてしまった。ちょうど九十歳になる母が娘 の私を看病するようなもので、そんなことは不可能だからであった。母はひとりでは外 出もできない。婦人のように杖をつき、自分を支える力もなかった。この九十二歳の視 線の低い女性にとって、よその町での買物は大冒険であろう。増える荷物を抱えて帰り はど、つするつもりかと訊くと、 ーのべンチで休んで、午後三時のバスに乗り 「買物を終えたら娘に電話をして、スー ます」 を 気 と何もかも決めているのであった。 ーにはあまり人もいなかった。入口でカートを用意してやると、婦人 海寄りのスー Ⅱはすがりついて、 、」 0

7. 太陽は気を失う

206 邦昭も二年前に退職してから、情熱を注いだ仕事に代わる生き甲斐を探しているが、 一、二年の間は休養と決めていたし、それで生活に困ることも まだ見つかっていない。 なかった。世界を相手にする商社の生産開発室のアジア局長まで上りつめたあとの定年 いったん素の自分に還りたかったこともある。しかし、もしまた仕 退職であったから、 事をするなら、やはり新天地を感じられる海外がよかった。木村の個展に誘われたのも、 主題に異郷を感じたせいかもしれない。 一点すっ丁寧に見るうち、彼は木村の好きなものが分かるような気がした。どこを描 き返してサ いても空が広いのと、その下の小さな生活が見えるのが共通点であった。引 ハンナの絵を見ると、やはり地平線に集落らしい突起が描かれている。木村は絵を描く ために旅をしたのではなく、必要な旅の途中で見てきたものを描いているという気がし た。つまり邦昭の考える根っからの芸術家ではなかった。ただし個展を開くところまで 漕ぎつけた才能と熱意は認めなければならない 会場を一巡りして煙草を吸いに外へ出ようとしたとき、ちょうど戻ってきた木村と出 会い、一瞬お互いを確かめた。 「やあ、来てくれたのか」 少し驚いたようすの男はノータイの黒ずくめの服装に太めの身を包んでいた。それで 紳士に見、んるからおかしかった。

8. 太陽は気を失う

298 「しかし恋愛結婚という感じはしないなあ」 「すぐ近くにいますから、お呼びになって訊いてみてはいかがですか」 千佳子はきっかけに勧めてみるが、今日はどうもね、次の愉しみにとっておこうと一言 われるのが落ちであった。 ある日、久しぶりによい顔触れと人数の揃った宴会の予約が入って、喜代乃に余興の 準備をしておくように告げると、次の日から店の向かいにある見番の稽古場が華やいだ。 宴会の主催者は喜代乃も知る事業家の二代目であった。 やがて当日がきて、挨拶に出た千佳子は男たちの和やかな雰囲気に期待したが、予約 を受けた帳場の話と違い、次があるから芸者は呼ばなくていいと言われると、笑顔の裏 で消沈した。喜代乃たちはもう出の衣裳で待っているはずであった。余所から声がかか らなければ化粧も稽古も無駄になってしまう。五十人の芸者が一夜のうちににしく座敷 を巡った日々を彼女は覚えていたから、まさか芸者をただ待たせておくような日がくる とは思ってもみなかった。 美弥に座敷を任せて和喜本へ電話を入れると、喜代乃が出て、 「ほかにお座敷の予定はありませんから、お客さまの気が変わるのをお待ちしてみま と言った。心の浮き立っ若い妓たちには気丈な顔をして、足袋の替えや化粧直しの道

9. 太陽は気を失う

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10. 太陽は気を失う

ら、寿代がこのまま逝くような気がして恐ろしかった。 ロビーへ向かう途中で二階に礼拝堂があるのを思い出して行ってみると、案外な広さ と威風であった。入口のドアは開いていて、中は薄暗く、人影は見えない。両側に長椅 子の並んだ通路の奥に青や赤のにぎやかなステンドグラスが見えて、その前に祭壇があ る。ためらったが、彼女は歩いていった。 天井が丸く高く、病院のうちとも思えない静寂な空間には神も死霊も潜んでいそうで あった。立派な祭壇の前に二段の階段があったが、上がってよいものか分からない。お 祈りの仕方も知らないので、彼女は祭壇に向かって手を合わせ、あなたがどんな神さま でもよいので、寿代をもう少し生かしてくださるなら、その分だけ私の寿命を削っても かまいませんと祈った。むかし見た映画の記憶を真似て十字を切ることも忘れなかった。 紙に包んだ賽銭を階段に残してロビーへ戻ると、まだどうにか歩いている人間のしぶと さにほっとした。 その日から、一日は重たく気力で押してゆくものになった。体の自由な朝早くから寿 代を見舞い、彼女の家を覗き、それから朝食をとって稽古場へゆき、午後三時には風呂 に入り、遅い昼食のあと出の支度をして、六時前には料亭に入る。気遣いと芸の座敷は 八時か九時まで続く。それだけでも六十八歳の女の一日ではないが、家に帰れば帰った で次の日の用意がある。