叔母 - みる会図書館


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1. 太陽は気を失う

「親父がいたら見物だったな」 くすぶ 叔母も一緒に微笑みながら、この話題を愉しんでいなかった。なにかしら心の中に燻 りつづけているものを噛みしめているのが、百合子には女の勘で分かった。レターヘッ ドに纏わる思い出かもしれず、そこに叔母の若さと秘密が臭った。古い家の曇りガラス の窓から叔父の転身の動機を透かし見る心地がしたが、それはほかでもない叔父が揉み 消したことかもしれない。優しい彼は叔母にも本当のところは語らなかったであろう。 すると愛妻を相手に黙々と木釘を作る姿からも、職人とは別の辛抱強い人が見えてくる のであった。 それぞれが話題を探すような、あまり気軽とは言えないお喋りのあと、百合子は暇を 告げて家を出た。戸外は夕まだきで、どこかで蝉が鳴いている。表通りまで送ってゆく という貞雄と歩きながら、彼女は再びこの街へ来ることはないだろうと思った。 由整理されたまっすぐな通りにかっての豊四季の土臭い面影はなくなり、蝉の声は住宅 の植込みから聞こえてくるらしい。湿気の多い日本の夏は彼女の肌に応えて、ハワイで は考えられない汗が滲んでいる。街の眺めも窮屈に感じられてならない。 もし叔母がハ もワイへ来ることがあったら、清々とする広い世界を見てもらおうと彼女は田 5 いはじめた。 物そのときは叔父の話は一切しない。今日で豊四季も叔父の思い出も味わい尽した気がし まっ

2. 太陽は気を失う

してゆくには妻の手も必要だったのだろう。叔母には小さな畑の世話と家事と子育てが ふしくれだ あって、終日仕事場にいるわけではないが、それでも節榑立った指になっていた。叔父 にはもったいないような美しい人であったから、百合子はなんとなく叔母の境遇を哀れ に田 5 、つことが亠のった。 愛妻家の叔父は豊四季の生活と掛け離れたところへ叔母を連れ出すことを考え、四、 五年に一度の旅行が夫婦の愉しみになった。百合子が短大生のときにその年がきて、叔 父は初めての海外旅行へ姪を誘った。費用を出すかわりに手足になってほしいという話 で、言葉の不安があったらしい。行く先は当時決心がいるほど高額だったフランスで、 百合子の専攻は英文科であったから、役に立つ自信はなかった。 さだお 「貞雄ちゃんは ? と一人息子のことを訊くと、 由「あの子は野球に夢中で、旅行中はちょうど合宿なの」 理 と叔母が答えた。旅はどこであれ叔母を若返らせる特効薬であった。もともとホテル や旅館のレターヘッドを集めるのが好きで、まだ東京に住んでいたころにはそのために 分 友人とよく出かけたという。そんなもののどこがいいの、と人が首を捻るものを蒐集家 物は好きになるが、叔母もそのひとりで、夢があるでしよう、と一一一一口うだけであった。 その年のフランス旅行は成功し、百合子も異国の魅力に目覚めて、短大を卒業すると

3. 太陽は気を失う

も改めて父親の仕事を見ながら、 しおり 「一本もらってもいいかな、栞代わりに使、んそ、つだ」 子供のときからそばにあって見飽きたであろう木釘を、礼服の内ポケットから手帳を 取り出して挟んだ。叔母は黙っていた。 彼が大学へゆくとき、この家の敷地は半分になり、次々と小さな家が建てられた。洋 風の家と洋家具と接着剤が普及して、木釘の時代ではなくなっていたが、叔父は二度目 の転身は考えなかったらしい。機械も入れす、頑固に手職を通した。需要の当ては一流 の工芸品を入れる桐箱であったが、そんなものは自分の家にすらなかった。 そのころまだ日本にいた百合子は夫婦の仕事を覗いたことがある。未成年の目で見た ときと異なり、仕事場には先行きの不安が影を落としていた。黙々と続けることが生活 であった。叔母はときおり自分の木釘を見てもらい、不出来だと叔父は笑って首を振る。 由叔母もすでにべテランであったが、叔父の腕前には敵わない。二人の不安と忍耐は見て いる百合子にも伝わって、明るく振る舞いながら重たい気分を味わった。ひとりの胸に 畳んでおくのも辛くて、家に帰ると父に話した。 分 「重之が自分で選んだ一生の仕事だ、苦しいだろうが、あいつは秋恵さんがついていれ 物ば負けない 「叔母さんも疲れていたわ」

4. 太陽は気を失う

196 「それも夫婦の問題だろう、おまえが心配しなくてもいいー そういう時期を乗り越えて、叔父と叔母は木釘を作り続け、一人息子を自立させ、ア メリカ人とのハーフの孫を得た。幸せな人生と言えるかどうか、叔母は淋しい晩年を送 っている。それでも彼女には木釘があるが、百合子にはコンクリートの部屋と絵葉書の ような眺めのほかに残るものもなかった。夫が先に逝くとは限らないが、今からその淋 しさが見えているのも情けないことであった。 「疲れたでしよう、リビングでお茶でも飲みましよう」 叔母が言い、彼らは仕事場を出た。ほば元の骨格のまま窓や内装を替えた家はすっか り明るくなって、仕事場だけが過去の匂いを残している。かっての縁側とガラス戸は取 り壊されて、白壁に出窓をつけた部屋に百合子は案内された。落ち着いた色調のカーベ ットや布張りのソファーはホテルを思わせるシンプルさで、一目で叔母の好みと分かる。 低いティーテープルにジュースを運ぶのを手伝いながら、百合子は叔母の趣味を思い出 した。 「ホテルのレターヘッドのコレクションは続けていらっしゃいますか」 ソファーに寛いで訊いてみると、叔母は微かに戸惑う顔をした。 「あれはやめました、どうしても紙は古くなりますからね、新しいままの記憶と合わな くなって、あるとき思い切って処分しました。

5. 太陽は気を失う

201 誰にも分からない理由で ろう。叔母は老いても新しいままの記憶を抱いて、木釘を作り続けるだろうと思った。 一生捨てられないものを二つ得た女が幸せかどうか、百合子には分からない。叔父のそ れがひとつであったことを思うと割り切れない気持ちであったが、このさき叔母の口か ら事実を聞くことはないだろう。 走ってくる空車が見えると、彼女はほっとした。生まれ変わった街の景色に異国にい るような違和感を覚えて、早くハワイへ帰ろうと思った。叔父が新生活の場に豊四季を ノエ 選んだように、三十階の窓から常夏の島を新しい気持ちで見られるかもしれない。、、 ット機に乗ってコンクリートの部屋へ帰るだけのことが、今では生家をなくした彼女の 帰郷でもあった。

6. 太陽は気を失う

) 皮よ目立って、誰よりも彫りの深い顔立ちをしている。ビー 輪が広がった。体格のよし彳 ( ルを注ぐ毛深い腕をからかう人がいて、百合子も今更のように叔父のそれと思い比べた。 そのとき叔母が話しかけてきた。 「貞雄は信じませんけど、重之さんはあのころ一流のセ 1 ルスでしたよ、あのまま続け ていたら、きっと重役になるか独立するくらいの才覚はあったでしようね」 「そうだとしたら、なぜわざわざ畑違いの手職人になったのですか」 「ある時期、男の人が思いつめる転機というか、豊四季の生家と家業を残したかったよ うです、わたしにはそう話していました、よかったら帰る前に寄ってください、たぶん あなたがあの家を見るのはこれが最後になるでしよう」 叔母は言い、儚い笑みを浮かべた。百合子の目に久しぶりの叔母はひどく淋しげに見 皮女は貞雄が母親にも似てい えて、一年のひとり暮らしが応えているようでもあった。彳 由ないことを不思議に思いながら、そこにいない叔父に転身した本当のわけを訊いてみた 理 い気がした。 「後継者かい、無理な相談だね、今の時代にこんなものをやる物好きはいないよ」 分 いつであったか、そう言っていた人を思い合わせた。 誰

7. 太陽は気を失う

194 仕方を選んだような気がする。違うとすれば木釘のかわりに訳文の一行を溜めてゆくこ とだろう。彼はそのことに気づいていない。 「決まりきった生活というなら、会社員の家庭も同じだろう、毎日変わったことが起こ る方がおかしい、ひとり暮らしの学生が一日を自由にしても生活とは言えないからね 「それはそうだけど、やつばり勤め人と職人の生活は違うと思う、会社に勤めていたら 家族といる時間は限られてしまうでしよう」 百合子は言ってからしばらくして、自分の言葉に気づいた。叔父が欲しかったのは愛 妻と過ごす時間ではなかったろうかと思 ) しいや、それはわたしの願望か、と自嘲した。 「家が職場でも家族と顔を突き合わせていなければ同じことさ、翻訳家は職人とは言え ないけどね」 「それは違う、相手の気配を感じるだけでも一緒にいることになる、ねえ、叔母さん」 彼女はそう思った。 「そうねえ、いなくなってみると気配が懐かしくなりますね、木釘を作っていると、す ぐそこにいるように感じることがあって、それが錯覚でも安心します 叔母は叔父の座布団に目をあてていた。そうして四十年余りを生きた夫婦であった。 叔父の仕事台の上には最後の木釘を溜めた箱が今もそのまま置かれている。もう手に入 らないと思うと売ってしまうのがしくて、お手本にしている、と叔母は話した。貞雄

8. 太陽は気を失う

百合子が思い出すのは、叔父が丸い空木の原木を割り、さらに包丁で小割りにし、 刀で皮を剥いて節を抜いてゆく作業の地道さであった。その間、走り続ける人のように 無心の叔父がまた地味であった。根仕事は押し並べてそういうものかもしれない。しか すた し叔父は廃れかけていた手職にいったい何をかけたのだろうか。そこに叔母がいなけれ ば恐ろしく孤独な、愉しみの少ない作業の連続であった。ひねもす同じ場所に座って木 釘を作るのは辛いだろうし、屋外の労働とは別の体力がいる。これといって刺激のない 一日は長いようで、気がつくと無事に過ぎてくれるが、そこから明日への張り合いが生 まれるとも思えなかった。 「親父の一生はほとんどこの二畳足らずの空間で流れた、向かいの二畳におふくろがい て鏡のように同じ仕草をしている、滅多にロもきかない、学校から帰って二人を見ると、 子供心にもつまらない夫婦だと思った」 由貞雄は母親の前でも遠慮しなかった。主役のいない今は時効の話で、叔母も苦笑して 理 いる 「仕事が生活の形を決めてしまうこともあるわ、職人の家ならなおさら、貞雄さんのと もころもそ、つじゃなくて」 物百合子は妻子のいる家庭で書斎に籠る男を思い浮かべ、ハワイの高層ビルの涼しい部 屋で夫の帰りを待っ女とどちらが孤独かと考えた。貞雄は知らず識らす親と同じ生活の

9. 太陽は気を失う

192 豊四季はホテルから二キロほどのところにあって、今ではマンションもあれば保育園 もある住宅密集地であった。昼食のあと散会してタクシーで通ってきた道に畑はなく、 叔母の家にも僅かな地面が残るだけであった。土地を切り売りし、改築を繰り返した家 は一般の住宅と変わらず、外からは職人の住まいとは分からない。叔母が玄関を開け、 貞雄と一緒に中へ入ると、間取りはあまり変わっていないので、百合子はすぐに仕事場 を見つけた。 「まだ道具も材料もありますね」 「わたしがのんびりやっています、ここが一番落ち着く場所になってしまって」 叔母は自分の居場所を見まわした。叔父の座布団も道具もそのままにしているらしか った。窓の増えた仕事場は明るくなって、百合子の記憶にある息苦しい空間ではなくな っていたが、やはり空木が匂う。古いままの仕事台に短い木釘を溜めた箱があり、貞雄 も久しぶりに見るのか、じっと立っていた。 「材料の空木はどうしているのですか、この辺りにあるとも思えませんが」 すみ 「もうずっと前から県内の夷隅地方から取り寄せています、空木のなくなった豊四季で 木釘を作り続けるというのも変ですが、昔から豊四季と木釘はひとつのものですし」 「柏は知らなくても、豊四季といえば木釘と分かる人の方が多かったらしい 貞雄もそばから言った。

10. 太陽は気を失う

だし、話したくなければ何時間でも黙っていられる」 「蛙の子は蛙ね」 「翻訳と木釘作りは一緒にできないが、たしかに似たところはある、喜びの種類が違う から、まず会社人間には向かない 「子供のころ豊四季の家にゆくと、玄関の戸を開けた途端に空木の匂いがして刃物の音 がする、声をかけて仕事場を覗くとき、なんだか悪い気がしたのを覚えているわ、わた しの顔を見ると叔父さんは笑うけど、仕事はやめなかったから 「貧しかったのさ、子供の野球道具を買うために何本の木釘を作ったか、親父が職人に なったころにはもう下火もいいところだったからね」 貞雄は言ったが、本当ならそれでよくフランスへ行けたものだと百合子は思った。叔 父は傷んだ家も改築している。そのために借金をする人には思えないが、あるいは叔母 のためにしたのかもしれない。器量に恵まれ、よい教育を受けた叔母は質素に暮らして いても美しく、叔父は幸せに違いなかった。百合子は一度だけ見せてもらった叔母の蒐 集品を思い浮かべた。洒落たロゴマークの印刷された便箋は、几帳面に一枚ずつパラフ イン紙に挟まれ、切手用のアルバムに収まっていた。パ リのホテルのものもそこに加え られたはずであった。 食事の途中で席を立った貞雄が男たちにビールを注いでまわると、なごやかな談笑の