小町の帰国と新しい仕事が重なり、繁雑な日常に戻ると、杏子は久住のことをなかな か切り出せなかった。小町はまたどこかの島へゆくことになりそうで、夜も打ち合わせ でにしい。モデルのことはもちろん、グアムでの臨時の仕事についても口にしなかった。 整ひとりの夜、彼女は夫の旅行鞄を開けてみたが、服と仕事に関わるものは片付けたあ いとで、たいした物は入っていなかった。出てきたのは新しいホテルのパンフや雑誌や眼 鏡ケースであった。レイバンと記された小ぶりのケースからジョン・レノンを思い出す 丸いレンズのサングラスが現れると、彼女は首を傾げた。小町の趣味ではないし、グア うとしている久住は確かな男だと思った。 食後のお茶の時間を昔しむよ、つに、二人は立ち上がった。外へ出ると、あたりは明か りの乏しい夜で、銀座通りまでのほんの一足も薄闇の中にあった。明かりの瞬く通りに は人群れが待っている。 「本当に静かな住宅地だから 久住は街角に停まっていたタクシーを拾って、先に杏子を乗せた。目白の彼のマンシ ョンまでは結構な道のりのはずであった。特別な夜に向かって走り出した車の中で、彼 女は一歩ずつ熱い気持ちを隠さずに近づいてくる男を大切に思わずにいられなかった。
夜おそく、アトリエにしている小部屋で小説の挿絵を描いていると、仕事のある安堵 を覚える反面、ラインを踏み外している気持ちにもなる。今は月刊誌の仕事が月に三本 あるが、小説を読み、絵を描いて、自費で送り届けても、収入は六万円にもならない 〆切まで五日のゆとりがあるときもあれば一日のときもある。一日一枚は必ず仕上げ、 入稿の遅い作家にあたると徹夜もするのであった。充足も長くは続かない きよかた 「清方も挿絵の名人よ」 麻美が言ったことがあるが、もともと挿絵からはじめて風俗を得意とした日本画の人 であった。小品を卓上芸術と呼んで愛した人と比べられても困るばかりで、彼女の励ま しはそのまま口論の種になった。芸術が分かるだけに深いところで言い争うほど疲れた。 興奮し、落胆した麻美の体に異常が起きて、救急車を呼んだのはその夜のことである。 流産であった。妊娠を知らなかったと言って彼女は青ざめたが、愛情により初めて授か った子を愛情が消してしまったのであった。 ん 二人ともその夜のことはロにしなくなっていたが、知明は今でも一部始終を思い出す ことができる。思い出してやらなければ子供がかわいそうだし、麻美にもすまないこと をしたと思う。本当は彼女こそ自由に描きたいのではないか。そんな気がして目につく 悲ところに画材を広げてみるが、彼女は滅多にアトリエには入らない。自分を殺し、知明 の才能に夢を重ねて、芸術につながる学芸員の仕事に安んじている。目の前の現実を直
まだ夜は長い
111 考えるのもつらいことだけど 「きっとライアンもそう思っている、彼はご飯も日本酒も好きでしよう、翔くんが結婚 して孫ができるころには定年だから、思い切って日本へ移ることも考えるでしよう」 「あの子は三十までに日本のどこかに小さな家を建てるつもりでいる、いくらかかるか 知ったら青ざめて、夜の遊びへ走ると思う、そのころ真智子さんはどうしているかし ら 「結婚はできても、子供は無理ねえ」 「まだそのつもりだったのー 「当然でしよ、わたしが未婚でいるのはわたしのせいじゃないもの」 更けてゆく夜の静けさの中で二人は笑った。七年か八年後にまたこうしていられるか どうか。真智子は高校生になるという末娘にも会いたかったし、やはり一度はアメリカ へ訪ねたいと思った。窓の外は雨の気配が消えて、車の音も風の音もしなかった。胸の うちに微かなそよぎを聞きながら、彼女は友人の微笑にこめられた苦い哀しみを見ない わけにもゆかなかった。
225 まだ夜は長い 温い風が出ている。前にもそうして帰ったような気がして、裕子を見ると、苦痛の表情 であった。 「俺はどこも病んではいない、ただ考えることがありすぎるだけだ」 彼は言ったが、 何も思いっかないままであった。 「まるでぶつつり人生が途切れてしまったようだよ、これからどうすればいいのか答え が見つからない」 「分かります、わたしにもそういうときがありましたから、でも手遅れにならないうち に病院へ行きましよう、今日、とてもよいお医者さまが見つかったのよ」 ーの駐車場沿 彼女は案外な力で、夫の腕を自分の首に巻くようにして歩いた。スー いに薄明かりがあって、がらんとした車道に二人の奇妙な影が伸びていた。夜風に吹か れて千切れそうな影を、女のひどく重たい靴音がつなぎとめている。邦昭は思うように ならない体を任せながら、そうしている間にも何かしら取り返しのつかないものが失わ れてゆくのを感じた。バ ーテンの一一一一口う通りだと思いなから、いつになく冴え冴えとする 目で夫婦の影を見ていた。
誰にも分からない理由で まだ夜は長い ろくに味わいもしないで さいげつ 単なる人生の素人 夕暮れから 解説江南亜美子 289 312 181 203 227 249 269
次の朝、まだ温かい塩おにぎりをひとつもらった。 「これしかできなくてえ」 と頬を染める女性は天使であった。母が物欲しげに私のおにぎりを見ていたが、どう してもやれなかった。 私たちは公的避難所へ移ることになり、そこは実家からまた少し遠くなる小学校であ った。どうせ家には帰れない。母はもうひとりの歩行困難者とともに病院の車で送って もらい、私は歩いた。 外は昨日の雪や暗雲が嘘のような青空であった。至るところで家が崩れ、小学校の校 庭にも大きな亀裂ができていた。先に避難してきた人たちは教室に持参したものを敷い て横になっている。避難者リストに氏名を記入すると、夜には一人おにぎり一個とたく あん一切れが支給されると知った。朝と昼は何もない。体が何日持つか計算し、その前 気に母を連れて脱出することを考えた。けれども車もなく、あっても運転できず、鉄道も 陽使えず、どうして東京へ辿り着けるだろう。 教室には暖房がなく、隙間風が嫌な寒さを運んできた。夜のおにぎりをもらえるまで いかもしれない起則くんのお墓のことも思った。
三階の藤倉夫人が二階の知明を訪ねるようになったのは七月の中ごろであったから、 もう三週間近く描いていることになる。詳しく訊いてみると夫人の要望はデッサンで、 ん気に入ったものができたら油絵にしてもよいという程度の、あやふやなものであった。 一日三十分、知明のアトリエで描くことが条件で、時間ははっきり決まっていない。 都合のよいときに電話をくれて知明の都合がよければはじめる。金曜は休みで、 非心 「デートがあるから」 という理由であった。 さいものを使い、安い費用で効率的に描き上げるのであった。 リビングに残る明 集中するための明かりは机のスタンドだけで、アトリエは仄暗い。 かりも洗面所へゆくためのものになり、夜の家は地下道のようになる。ほとんどテレビ を見ない麻美は寝室でラジオを聴きながら、待ちくたびれて寝てしまう。小さな家の中 で男と女が擦れ違う時間は、日中、知明が家事や買物をしても縮まらない。そんな暮ら しを守るために女は勤め、月給をもらい、男は副業で本来の望みをごまかしている。仕 事の夜、彼は誰も聴いていないラジオの音に物侘しい行きづまりを感じながら、麻美は 幸せだろ、つかと思、つことかある。
65 がらくたを整理して は久住の部屋で休らう時間の意味するものを大切に思うようになっていたが、心のどこ かで次の失敗を布れるときがあった。そういう形で小町との長い生活が影を落としてい マジュロからときおり短いメールが届くだけの数日が過ぎ、考え疲れたある夜、寝室 あさいちさこ の電話が鳴って、出ると友人の浅井千佐子からであった。十一時を過ぎていたので、急 用だろうかと案じたが、久しぶりに聞く声は学生時代のままの柔らかさであった。 「こんな時間にごめんなさい、どうしても話したくて、病院からなの」 千佐子は告げて、とりとめのないお喋りをはじめた。無名の画家と結婚して、生活の 苦労をし尽くし、どうにか絵画教室で食べながら夢を見ている人であった。杏子も生活 費を融通したことがあるが、月に千円、二千円と返してくるような暮らしで、実直な人 うる 柄だけが財産の夫婦であった。彼女はときおり少し潤む声で話した。 「主人が美術展で入賞したの、大賞よ、やっと絵が売れるの」 「おめでとう、素晴らしいわ 急に目の冴えた杏子は自分のことのように嬉しくなって、繰り返した。 「それであなたはどうして病院にいるの」 「ちょっとした手術をしたの、三食点滴、麻酔付きだから、のんびりばんやり、目が覚 めたら夜でしよう、すぐあなたに報告しなくちゃと思って
冷たい風が花柳界に吹き続ける中、廃業の危機は凌いだものの、気がつくと料亭一軒 に芸者十六人という所帯が千佳子の生きる世界になっていた。芸者の出先が一軒きりと いう異常さはこの生業の限界を超えていて、気力や結東でどうにかなるものではなかっ ふたっき 二月前に舅を送って間もなく、夫の正衛が発病すると、妻としての病院通いもはじま った。花街を支える女ひとりの不安は従業員にも伝わり、客のいないときの雰囲気は空 き家のように沈んだ。千佳子は顔色もなにも変えていないつもりであったが、当主が胃 癌で入院するという事態は跡継ぎが日本にいないこともあって、余分に心配をかけたら タしい。それでなくても斜陽の心細い光に弱体を晒してきた商売であった。 手術の前日にパラオから帰国した光洋はホテルの副支配人らしく落ち着いていて、主 具を確かめさせるのであった。無駄な、しかし堪えることを覚える夜であった。 芸者を呼べるかもしれない二次会のあてもなく、その夜の千佳子はばんやりして腰が めまい 据わらなかった。じわじわと首を絞められるようで、目眩すら覚えた。どうにか客を帰 して寝る前に夫に愚痴をこばしながら、気を変えるどころか背負ったものの重みを知る のが落ちになった。