夫人 - みる会図書館


検索対象: 太陽は気を失う
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1. 太陽は気を失う

156 九月の末になって夫人が観劇の招待券をくれたが、二人は行かなかった。公演直前の 舞台稽古の日に彼女が倒れて、代役が立てられたからである。夫人の出演しない芝居を 観る気にはなれなかった。 夕方に動脈瘤が破裂して、その夜のうちに夫人は亡くなった。最期を見守ったのは劇 団関係者の女と、病院へ呼び出された知明と麻美の三人きりであった。 「緊急連絡先にお二人の名前が登録されていましたので」 名刺をくれた女性は事務職の人で、身寄りのない人ですからと話した。夫人が言って いた金曜日のデートは通院だったそうで、彼女は死期の遠くないことを知っていたのか もしれない 用意していた遺一一一一口書に従い、劇団が営んだささやかな告別式にも二人は呼ばれた。公 演中なので関係者は少なく、ひっそりしたお別れであった。自分たちがそこで泣いてい ることが不思議で、マンションへ帰ってからも夫人のお芝居に騙されているような気が してならなかった。お海やみを述べる相手が一人もいなかったせいかもしれない。 その日一日、勤めを休んだ麻美と何をするでもなくばんやり過ごした。 「そういえばあなたの鉛筆画に二十万円もくれたけど、返さなくていいのかしら 「誰に」

2. 太陽は気を失う

158 彼は世界を巡ることを真剣に考え、午後もおそくなって麻美に話してみた。 「このマンションを売って、二人で世界を見にゆかないか」 「何年くらい」 「一年でもいい、 向こうで食べてゆけるようなら長くなるかもしれない 「いいわ、マンションが売れたら辞表を出します、イタリアにも行きましようね」 麻美はあっさり言った。彼女も夫人に出会ったことで強くなったらしい。取って置き の悲しみをくれた夫人に感謝しなければならない。孤独と格闘した七十六年の生涯が幸 せと一言えるかどうか。しかしそのうちの六十余年を舞台女優として生き切った人である。 ただの生活者ではないことの幸せなら自分たちにも手に入ると知明は思い、運命が待っ かもしれない旅の日々を思い巡らした。そのころには藤倉夫人の生々しい映像も記憶の カンバスに沈着するだろう、そう思い、異郷のどこかで物思うときの美しい夫人を一枚 の油絵に仕上げるつもりであった。

3. 太陽は気を失う

148 は高名な演出家の名をあげて、今度の舞台はよいものになるはずだから二人で観にいら っしゃいと言った。彼女自身は脇役で、もう何度も演じて馴れているという。 せりふ 「でもね、演出家が替わるとお芝居も一変するの、舞台の雰囲気も台詞回しも同じスト ーリーとは田 5 えないくらい、だからこの世界は面白いのよ 「役作りはどんなふうになさるのですか」 「人それぞれですけど、わたしは台詞を覚えながらその人間になってゆきます、お稽古 でいろいろ直されますが、目だけはこっちのものです、ある瞬間、それだけで演じるこ ともありますし 「遠くの客席からは見えないでしよう」 知明がそばからロを挟むと、夫人はにやりとして、あなた、つまらない人ね、と言っ 藤倉麗子が名脇役で知られる人と知ったのは、それから間もない日のことである。麻 美が同僚から情報を仕入れてきた。テレビや映画には出ない人なので、演劇に疎い人に は知りようもないが、高齢者向けマンションの暮らしからは想像もっかない名優であっ た。藤倉は本名で、演出家の夫は二十年ほど前に亡くなったという。 「わたしたち、とんでもない人と親しくしているようよ」 「いいじゃないか、同じマンションの住人同士が仲よくして悪いこともない 、」 0

4. 太陽は気を失う

「そうだったわね」 二人が顔を見合わせて笑ったのは数日ぶりのことであった。夫人の死後も彼女の人生 に詰まった悲しみを引き受けていたから、儚い笑いになった。今はまだ夫人の寝室に飾 られている絵も、いすれどこかへ運び出されて消えてゆくに違いない。手元に残るデッ サンを保存しようと二人は話し、眺めた。上品な笑顔の一枚を家族にするのであった。 「せめて一度くらい藤倉さんの演技を観たかったわね」 麻美がコーヒーを淹れながら言い、知明もそう思った。 「いや、下の喫茶室で観たことがある、まんまと騙されたよ」 「どんな演技だった」 「いきなり目を剥いて、殺してやるって言われた、その一秒後には笑っていたな」 「描ける」 と麻美が訊くので、彼はその場でスケッチ風に描いてみたが、満足のゆくものにはな んらなかった。記噫の中の夫人は優雅に暴れているのに、少し前に別れてきた夫人が邪魔 するからであった。画家として頼りない目だと思った。なにか大事なものの欠けた無難 な生活に染まって、感性が錆びかけているような気もした。すると異郷の古いアパート し 悲 に暮らしながら、見るべきものを見て、カンバスと格闘している画家たちの姿が目に浮 かんだ。そこには苦しみや挫折もあれば、計り知れない充足もあるはずであった。

5. 太陽は気を失う

「あの人の三十分は、わたしたちの三十日より貴重かもしれないわ , 彼女は敬意をこめて、そ、つ一一一一口った。 八月も終わりかけた土曜日の午後、二人でちょっといらっしゃい、と夫人から電話が あった。三階へゆくのははじめてで、招じられたのは立派なソファーと赤いランプシェ ードの目立っ清潔なリビングであった。どちらも日本の住宅には大きすぎるサイズで、 い、間に置かれた黒いテープルにはインドネシア風のランナーかかけ ソファーは向き合 てある。 トレイに酒とグラスと氷やレモンが用意されていて、二人が座ると、 「少し早いけど、い力がー 」こよビールの入ったワイングラスがあって、いつもそう と夫人はすすめた。彼女の前。 ( して飲むらしかった。遠慮してもはじまらないので知明はビールをもらい、麻美はバー ポンをロックで嘗めはじめた。 ん「実は今度の月曜日からお稽古がはじまるので、しばらくお目にかかれないかもしれま せん、それで一度ゆっくりお話ししたいと思いましてね、台所にいろいろ作ってありま 砌すから、何か食べたくなったら、麻美さん、お願いします」 非心 この夫人の持てなしは二人にとって過分なだけでなく、思いがけない貴重な時間とな Ⅷった。麻美はうなすいて、素敵なお部屋ですねと話しながら、夫人しか見ていなかった。

6. 太陽は気を失う

うに飲物を口にする。知明のスケッチも負けずに早いので、たちまち二枚の素描になっ た。せわしなく鉛筆を動かす指先や上目遣いの視線にそのうち夫人が気づいて、目が合 うと立ってきた。歩き方も堂々としている。 「肖像権はご存じ そばにきた彼女はそう言った。シースルーの夏服から微かに女が匂った。 「モデルを頼まれた覚えはありませんけど」 「気紛れというか手馴らしです、気に障ったのなら謝ります」 「嫌な謝り方ね、あなた、どちらの御方ー 夫人は立ったままスケッチを見ていた。二階の三原です、と名乗ると、思惑がはずれ たような顔をして、 「高齢者には見えませんね、おいくつ」 と訊ねた。 ん「三十 , ハですが」 「おひとり」 砌「結婚はしていません 悲「微妙な言い方ね、未婚だけど妻はいるということかしら」 夫人は向かいの席に座り、アイスティーを注文した。それから自分の物のようにスケ みはら

7. 太陽は気を失う

女たちは笑い、話題の人を見た。知明が今日の夫人に何かしら無我愛のような親身を 感じるのは、自らを語りながら二人の将来に終始するためであった。温くなったビール に氷を入れて、彼女は話した。 「差し出がましいようですが、芸術を突きつめるおつもりなら、あなた方の年でこんな 老人の吹きだまりのようなところにいてはいけませんね、至れり尽くせりの四角いビル の小部屋で佳いものが生まれるでしようか、わたしなら思い切って旅をします、世界を 見なさい、 パリの場末の店で飲んだくれて馬鹿にされてみなさい、日本の漁師町や山村 で一生を送る人間の営みを見なさい、いっかきっと三原知明の絵が描けると思いますー いとま しみじみとした歓談のうちに夜がきて、一一人は暇を告げた。まだ聞き足りない気持ち であったが、片付けのために麻美を残して知明は階下へ下りた。アトリエにゆき、喫茶 室でのスケッチを眺めながら、まったく夫人の一言う通りだと思った。 次の日から夫人を喫茶室で見かけることはなくなり、電話もかけてこなくなって、稽 ん古に集中しているようであった。彼はあるときタクシーへ乗り込む夫人を見たが、稽古 場へ向かうときの彼女は運動会にでもゆくような装いで、喫茶室での颯爽とした雰囲気 も女優らしい輝きも見当たらなかった。むしろ年相応に枯れてふらっく姿は小さく見え

8. 太陽は気を失う

いわねえ、と揶揄した。 麻美がいるときに来たことがあって、年の離れた女ふたりは案外に気が合った。夫人 はアトリエに麻美を呼んで、知明のことは忘れてしまったようにお喋りを愉しんだ。 「あなたもお描きになるの」 「以前は描きましたが、今はもうしません」 「あら、どうして」 「毎日くたくたになる仕事がありますし、才能も知れてますから」 麻美は嫌がらずに答えていた。 「わたしがあなたの年ごろには無分別で、才能がどうとか悩んでいる暇もありませんで したが、 今の若い方はなんでもできる時代なのに堅実なようですね」 「情報がありすぎて、自分で考え出すことが苦手なのです、何かを決めるのにも与えら れた選択肢の中から選び取るだけですから、決断と一一一一口えるかどうか、人と違うことにな んるのが怖いのかもしれません 「それでは踏み外せませんねー 「よい意味では無理です」 悲 三十分のデッサンが終わってからもリビングで二人は話した。麻美は夫人の大きな人 柄に惹かれたらしく、知明と話すときよりも従順であった。打ち解けてゆくうち、夫人

9. 太陽は気を失う

150 知明に視線を向けた夫人は、あなたにはたくさん描いてもらいましたから、デッサンは お終いにしましようと告げた。 「正直なところ、あなたが初めて喫茶室で描いてくれたものが一番好きです、あれにサ インをして、わたしにください」 「しかしあれは鉛筆のスケッチで、ゲラの裏に描いたままですから、紙も安物なら絵と しても小さすぎます」 「かまいません、裏に活字があるなんて素敵じゃありませんか、立派な額に収まるよう な重たい絵より、どうしてかそういうものが好きなの、きっと儚いものに縁があるよう に生まれついているのでしよう」 「演劇のことはよく分かりませんが、華やかな印象がありますー 「舞台はね、なんといっても人様に観てもらうお仕事ですから、でも普通の幸せに恵ま れて一生を終わる役者なんていないんじゃないかしら、そもそも幸せなら役者になろう なんて考えないでしようし」 夫人は少し思い巡らす顔になって、あまり減らないビールに目を落とした。いつもと 違う雰囲気の彼女は知明の目に新鮮で、描くならこういう表情がよかったと画家の目で 眺めた。そのうち夫人は言った。 「わたしは十五歳のときからこの世界で生きてきました、進学して勤めて結婚してとい

10. 太陽は気を失う

140 ッチを引き寄せて見入った。 「もう少しまともな絵は描けないの」 、、由ムムをします 「士 A 」 , もかと、つ力、冫み市 「肖像画はおいくら」 「号数にもよりますが、小 さいものでも十万円は下りません」 「結構よ、一日三十分あけます、十月までに完成させてください、モデル代は負けてお きますー 知明は夫人の人格も唐突な話も信じられずに聞いてしたが、 ゝ ' 断る権利もなさそうであ った。裕福そうな人から収入の見込める仕事を依頼されて悪いこともなかった。アイス ティーが運ばれてくると、夫人は下がってゆくウェイトレスを指差して目を剥いた 「あなたたち、できているんでしよう、分かってるのよ、今度わたしの留守にあの女を 連れ込んだりしたら、二人とも殺してやる」 知明が呆気にとられていると、瞬時に表情を戻した夫人が、どう、いまの、と微笑み かけてきた。 「お芝居よ、演技ですよ、わたしの仕事ですから覚えておいてください」 まわりを見ると、ウェイトレスも客も笑っている。あとになって知ったことだが、夫 人は七十六歳で現役の舞台女優であった。