238 それほど恵まれていた久美子がとうとう堪えかねて離婚を決意したのは、夫が庶子を 家に入れたからである。男の子はすでに十二歳で、結婚から十五年が過ぎていた。よい 教育を受けさせて跡継ぎにするつもりでいる、と夫は臆面もなかった。子供に罪はない が、まともな家庭とも言えない。子宝に恵まれなかった久美子はそれまでにも夫の浮気 の始末をつけてきたが、 その子供と同居するほどの心のゆとりはなかった。 不実を続けながら、夫の正妻への執着は異常なほどで、久美子には理解できないこと であった。一族の息のかからない弁護士に相談してから離婚に漕ぎつけるまでの道のり は長く、弁護士同士の代理交渉の裏では夫婦というおかしな生活が続いた。一一一一口うなれば 静かな死闘であった。彼女は勝ち、女盛りをかけた夢に破れた。充足はない。だから居 直り、 「これからがわたしの本当の人生よ、見てらっしゃい」 はばか と言って陣らなかった。 鎌倉から麻布のマンションへ転居した久美子は昔に還ったように活動的であった。文 江に専用の携帯電話を持たせて、どこにいても呼び出す。夜中のこともあった。 「ひとりでしようね 「煎餅布団の中よ、今度は何があったの」 「六本木にい ) し出物があるの、あんたにも見てほしいから早く帰ってきて」
う生き方は許されなかったのね、そんな人、わたしの世代にはいつばいいるのよ」 「十五歳というと戦後ですか」 「そう、父が戦死して、何もできない母が一家の主、わたしは末っ子で上に兄二人と姉 かいましたけど、残ったのはわたしひとり」 終戦の年、彼女は七歳であった。生まれてから見てきたものは暗い、ひもじい、不自 由な社会で、その後も古着を纏って戦争の続きを生きているような感覚であったという。 「上の兄は戦争中に病死、次の兄は終戦の年に空襲で焼け死に、やっと戦争が終わった と思ったら、今度は跡を追うように姉が自殺して、まだ子供だったわたしがなんとかし なければならなくなったの、辛かったわねえ、どうなっても仕方がない、生きられるだ け生きようって思いつめて、子役を募集していた劇団へ飛び込みました、とにかく食べ なければならないし、好きでもなんでもないから、本当に何か不浄な世界へ飛び込むつ て感じでしたね」 ん知明は相槌をはばかり、麻美は黙ってバーポンを嘗めていた。 「今はお芝居が好きですけど、はじめは演技のことなんか知りませんし、なんとなく自 分が生きてゆけそうな場所として選んだというだけでした、才能なんてね、あったのか 悲ないのか未だに分かりません、母は父の妾で一人っ子でしたから、わたしには身寄りが いません、五十五歳で母が亡くなったとき、あまりの身軽さにぞっとしました、結婚は
152 しましたよ、やはり役者でした、でもその人は脊椎カリエスが悪化して、余病もあって 呆気なく死んでしまいました、いくら経験しても死別は嫌なものですー 肉親も夫も失った夫人には芝居しかなくなった。しかし女優が年を取りながら演劇の 世界で生きてゆくことはむずかしい。年相応の役がいつも待っているわけではないし、 若さも老いも求められる。四十歳で子役を演じた彼女は名優の仲間入りをしたが、私生 活で充たされることはなかった。仕事が途切れると日本を出て観劇し、世界を見た。言 葉も習慣も違う人間が、都会でも田舎でも、喜びを分け合うときの顔が美しい。帰って ゆく日本が大きな家庭に見えるのがよかった。目が肥えて脇役でありながら大胆な演技 ができるようになると、その変身ぶりがある演出家の目に留まった。のちに再婚相手と なる人で、彼とは八年暮らしたが、子供はできず、突然の別れが待っていた。 「また死なれちゃったの、自殺よ」 夫人は明るく言った。 「わたしを無視して勝手に死ぬなんて、なんてひどい男だと思いました、腹が立って納 骨の日まで骨壺を下駄箱の一番下に入れてやりました、でも今はね、いろいろ教えてく れた彼との八年がわたしの血肉になっているような気がします、だから藤倉の妻のまま 終わるつもりです」 夫人の表情が和らぐと、知明と麻美は顔を見合わせた。女優の人生にこれほど悲しみ せきつい
アメリカでも大きな企業の財務管理に転身したライアンは自足し、西海岸の町に分譲住 宅を買って暮らした。 夢の代償にロ 1 ンが生まれ、絵里は日本食のレストランでアルバイトをすることにな った。アメリカでは普通のことだし、同僚も同じ境遇の日本人女性であったから、教え られることも多かった。苦労なのは三人の子供たちの学校への送り迎えを義務づけられ ていることで、下の娘は就学前であったから十数年間休めないことであった。家事とア ルバイトと学校への送迎とで一日は終わり、アメリカの生活を愉しむどころではなかっ た。疲れた彼女は家では英語を話さなくなり、休日は日本のテレビ番組を見て過ごした。 子供たちの英語は日に日に上達したが、今度は日本語が怪しくなって週に一度日本語 学校へ通わせることになると、彼女の休日はないも同然であった。話すだけで読み書き のできないバイリンガルでは将来が不安なこともあって、続けるしかなかった。しかし 日本語学校へ通う子供たちはどうしてもアジア系のグループに入ってしまい、自由の国 の小さな世間で育っているのを見ると、アメリカで暮らす意味も薄れていった。彼女は くれたわけでもなし、自然でいいという判断であった。 っ悩み、ライアンに相談したが、、 の一年は時間との闘いで過ぎていった。 え 三年に一度か二度、真智子がアメリカへ訪ねてゆくと、そこは映画で見るようなアメ 考 リカの地方の一般的な家屋と家庭であった。絵里はにしくしながらおっとりしたところ
182 ゆりこ 東京近郊の住宅地にも都会的な景観が広がり、久しぶりに見る柏の駅周辺は百合子の とよしき 知る街ではなくなっていた。盛夏の一日、豊四季の叔父の一回忌があって、ハワイから 出席した彼女は寺まわりの森や木造家屋の家並みが様変わりしているのに驚いた。法事 のあとの昼食を兼ねた会席に用意されたのは駅頭に近いホテルで、日本料理屋の座敷に 落ち着くと、そこだけが静かな別の空間であった。 十五人ほどの集まりには名前を思い出せない人もいるが、顔立ちのどこかに血縁の近 さを感じる。それぞれの父親とその兄弟が年の順に亡くなると、集まるのは従兄弟会の ような顔触れで、百合子は子供のころの顔を思い合わせて懐かしく眺めた。 「今どき親の実家がそのまま残っているなんて珍しいね、子供たちからみたら祖父母の 実家とい、つことになる」 長兄の息子が言い、 「隆志さんにはもう孫がいるだろう、するとどうなる 次兄の息子が揶揄した。百合子の父がその次であった。
これから会社で鍛えられ 「書く方がだめ、漢字が小学生並みのレベルから上達しない、 るでしよ、つが」 どうにか子供のひとりを社会へ送り出した絵里は、そこが日本でも上出来だと考えて きっすい いた。生粋のアメリカ人でさえ失業する世の中であったし、ライアンの会社でも大勢の 人が解雇されていた。もともと翔には日本人的な気質があって、会社帰りの酒や宴会に 自分を知っている判断でもあって、人はふさわしいと 憧れていた節がある。単純だが、 ころで生きるのが一番だと思う、と彼女は話した。 「子が親から離れてゆくのは必然だけど、アメリカと日本というのも不便ね、いっかあ なたたちも帰ってくるの」 ライアンは引退したら日本で暮らし 「あと二人、学業を終えないとどうにもならない、 ても、 ししって言うけど、それにも先立つものがいるからどうなることか」 「ライアンは堅実だから貯めてるでしよう」 「若いときはそんなところもあったわ、でも今は安月給を嘆く、酒好きの、肥満体でし っ かない、これ以上肥ったら心臓が心配ね、彼も一度患っているのよ、家のローンと子供 るの学費と三台の車の維持費は五十五歳の心臓を脅かすのに十分でしよう、レイオフの不 考安も常にあるし、そこへ母親の認知症と妻の大病でしよう、一日働いて帰る家には解決 しない問題が待っているわけだから、お酒を飲みたくなるのも無理はないわー
だし、話したくなければ何時間でも黙っていられる」 「蛙の子は蛙ね」 「翻訳と木釘作りは一緒にできないが、たしかに似たところはある、喜びの種類が違う から、まず会社人間には向かない 「子供のころ豊四季の家にゆくと、玄関の戸を開けた途端に空木の匂いがして刃物の音 がする、声をかけて仕事場を覗くとき、なんだか悪い気がしたのを覚えているわ、わた しの顔を見ると叔父さんは笑うけど、仕事はやめなかったから 「貧しかったのさ、子供の野球道具を買うために何本の木釘を作ったか、親父が職人に なったころにはもう下火もいいところだったからね」 貞雄は言ったが、本当ならそれでよくフランスへ行けたものだと百合子は思った。叔 父は傷んだ家も改築している。そのために借金をする人には思えないが、あるいは叔母 のためにしたのかもしれない。器量に恵まれ、よい教育を受けた叔母は質素に暮らして いても美しく、叔父は幸せに違いなかった。百合子は一度だけ見せてもらった叔母の蒐 集品を思い浮かべた。洒落たロゴマークの印刷された便箋は、几帳面に一枚ずつパラフ イン紙に挟まれ、切手用のアルバムに収まっていた。パ リのホテルのものもそこに加え られたはずであった。 食事の途中で席を立った貞雄が男たちにビールを注いでまわると、なごやかな談笑の
る読者もすくなくないだろう。 男女の愛の物語がおおいが、親と子の関係を描いたものもおおい ( 両方のテーマが結 びついているものも ) 。田舎で暮らす老いた親世代と、都会で自立した暮らしを送る娘 犬兄も、いくつか描かれる。親 や息子が、経済的な事情から縁という鎖を断ち切れない ~ には親の人生が、子には子の人生があり、都会に出たときには夢も、出ることへの高揚 感にまぎれた罪悪感も抱いていただろうが、やがてそれは残してきた老いた人たちへの 深い哀れみとなる。一方で、親の側にも子には頼りたくない、哀れまれたくないとのプ ライドもあるから、関係は複雑なのだ。 アメリカに暮らす女友達の絵里と旅行に出かける「考えるのもつらいことだけど」で は、自身も乳がんを経験した真智子が、絵里のがんの再発を知る。独り身の真智子に対 して、絵里にはアメリカ人の夫と子供たちがいる。高額な抗がん剤治療の費用は夫の医 療保険で賄える絵里だが、まだ自立せぬ子供や夫との関係、なによりも普段は遠く離れ た地で暮らす親の介護問題などが、心配事となってふりかかり、その痩身をさらにやっ れさせた。 説 誰に、どれほど頼ることが許されるのか。当然ながら、子は成長するにつれて親とは 解異なる人間になる。親が望んだような子にはならず、子から見た親が望ましい存在でな くなることも多くある。血縁があるゆえに、やっかいな感情をもてあましてしまうのが、
たかざわしげゆき 叔父の高沢重之は五人兄弟の末弟で、豊四季では最後のひとりであろう木釘職人であ った。あたりは明治維新後の授産を目指した不毛の開拓地で、稔りの乏しいかわり、原 うつぎ には木釘の原材料になる空木が豊富であった。現金収入を求める入植者の副業として木 釘作りが広まるのは自然のなりゆきで、やがて戦前に至ると本業に匹敵する勢いを得て 全国に豊四季の名を轟かす。そのころ百合子たちの祖父母が栃木から移住して、やはり 木釘で生活を立て直した。愉しみの少ない根仕事だからか、子供たちは誰も跡を継がな かったが、 あるとき重之が東京の勤めを辞めて職人に転身した。親の見よう見まねと子 供のころの手伝いの経験が頼りであったが、すでに空き家だった豊四季の家へ夫婦で引 っ越し、以来そこで生きたのである。大志もなく、人と争うことが苦手な自分は会社勤 めに向かない、というのが転身の理由であった。 寡黙だが子供に優しい叔父が百合子は好きで、幾度か仕事場を見ているが、薄明かり あぐら 由の板の間に胡座を組んでひたすら小刀を動かす姿は淋しいものであった。しかし表情は 理 穏やかで、眼鏡の眼差しも柔和であった。彼の脇には道具のペンチや数丁の小刀が置か れ、膝掛けの前の台には仕上げた木釘を溜める木箱がいくつかあった。その前には空木 分 の皮の山があり、座り続ける手仕事は二畳ほどの広さがあれば足りてしまう。百合子の 物記意も切り取られた二畳の空間にあって、彼女は邪魔にならないように斜め向かいから 見ていた。 きくぎ
「ええ、そう」 「ひとっ確率の問題もある、卓也の進学のことだが、県内の国立しか道がないなら学部 をかえた方がいい、今の学力で工学部は無理だろう」 小西は不意に言い出した。 「浪人させるか私立なら話は別だが」 「そんな余裕はないわ」 「少し融通しようか . 「結構です、受験に失敗したら就職させますからー 彼女は言ったが、そういう形で子供を社会へ送り出すことは考えていなかった。小西 が卓也の学力を知っているのも思いがけないことで、二人はどこかで会っているのだろ 、つかと田 5 った。 「彼は君に遠慮している、本当は東京の私立が第一志望だよ」 「そうやって人の家のことに立ち入るのはよしてくださらない、あなたになんの関係が あるの」 「ひとりの若者の将来を左右するかもしれない大事だし、母親が知らないから、言って みたまでさー いつもそうして不意に切りつけてくる男に彼女はかっとして混乱した。他人の援助な