いに困るだけじゃないか」 「困っても、今のままよりましです」 彼女は唇を震わせたが、小町の太い神経に訴えるのは至難であった。 「ともかく今度の仕事が終わったらゆっくり話し合おう、誤解があるなら、すべて説明 する、それでいいねー 彼は一言い 、杏子は立ったまま反撃の言葉をなくしていた。 二日後に小町が出発すると、十日ほどの自由ができたが、彼女はすぐ久住に連絡しな かった。別れ話の結果は彼を喜ばせるものではないし、見通しがついたとも一一一一口えない するうち久住の方から事務所に電話があって、例のモデルが休暇をとってグアムにいる と知らせてきた。帰ってきたばかりで同じ旅行先はおかしいし、小町さんには向こうに 仕事の拠点を移す計画があるらしい、そう話す男は時間を無駄にしていなかった。モデ ルはハ ] フで国籍はアメリカだと聞くと、杏子には小町の魂胆が見えるようであった。 し彼が隠れてグアムへゆくのも、今度の仕事にあのサングラスを持って出かけたのも、そ 整、つい、つことかレ」田 5 った。 を 君の方はどうなったか、と訊かれて彼女は電話ロでうなだれた。 ら 「もう少し時間をください 、カ 6 「なんなら、ばくが小町さんと話そうか」
な月が出ていたと話した。杏子はそういうときの彼に中年の男らしい情緒を感じて、い つも帰ってゆく生活の方が間違いではないのかと思ったりする。久住から匂う清潔な安 らぎは、小町との暮らしにないものであった。ばんやりして乾杯の笑顔を忘れていると、 「どうしたの、小町さんのことが気になるのか」 言葉より優しい眼差しに見つめられて、彼女は首を振った。 「心配してもはじまらない人よ、今ごろロタのホテルで遊んでいるでしよう」 「それがグアムにいるらしい、撮影は一日で終わってタレントも帰国したそうだが、相 手役のモデルは臨時の仕事で小町さんといる」 「どうしてあなたがそんなことを知っているの」 「モデルの所属事務所がうちの顧客でね、グアムには伝もできたし」 まさら幤 ~ 彳 ( 静かな、しかし刺すような目で、小町とモデルの関係を告げていた。い くことでもないが、杏子はやはり落胆した。夫の享楽ぶりが目に浮かぶのと、久住に自 分という女の汚点を見られている気がするからであった。 「小町さんを変えることはできないだろう」 と彼は言った。杏子はいつのまにか出ている刺身を摘まんだ。 「今のままではたぶん君も変わらない、変わらない二人で仕方ない生活を続けるより、 新しい生活を築くときが来ていると思う、人におかしな目で見られない、っちに、ほくら
ば小町が愉しむことも知っている。 「小町さんはコマーシャルの撮影でロタだろ、つ、食事をしよ、つ」 「知っていたの」 「それも食事をしながら話すよ . 杏子は少しためらったが、久住が歩き出すと自然に寄り添った。どこで何を食べさせ てくれるのか、彼は人混みの銀座の方へ歩きはじめ、彼女は軽い動悸を覚えながら、そ ひとも のあとの時間を考えた。すると火点し頃の街はたちまち別の世界に変わるのであった。 情報編集者といって、ありとあらゆるマニュアルの制作と資料整理を仕事にしている って 彼は、様々な業種の人と知り合う。西太平洋の島々に伝があってコーディネーターをし ている小町とは、大手旅行会社の特別企画で一緒した。二年前のことである。広告代理 店経由で仕事の依頼があったとき、小町はパラオにいて、杏子が顔合わせと挨拶を兼ね て旅行会社に出向いた。そこに久住も来ていた。 て 下準備だけでも億単位の資金を投入する新型ツアーの開発で、杏子の会社はそのお零 整れにあずかるのであった。集まったのは旅行会社の開発チームと広告代理店のスタッフ、 を それにホテルと航空会社の関係者で、久住と杏子は末席に座って挨拶をしたきり何もす ることがなかった。彼らの仕事は微細なプランが決まってからはじまるからであった。 プリーフィングのあと、名刺を交換して散会すると、
れてくると、小町は仕事でもないのに支度をはじめ、彼女はそんな義理もないのにと思 った。 「花婿は、人間は溺れても三十分は生きていると言った、あの安つほい男でしよう」 「安つほいかどうか、やたら女に持てることは確かだ」 「サイバンという魔法ね、日本だったら誰も見向きもしないわ」 それは小町も同じだろうと思うが、現実は道理や倫理を踏みつけて進行している。 久住を知ってから、杏子は以前のように小町を仰げなくなってしまった。どうにか会 社を潰さずにいる才覚は認めるが、ほかがあまりにだらしなく、人間の質となると首を ひねるしかないからであった。そういう彼女も久住に曳かれて、どこへゆくのか知れな し川を流れているのだったが、小町に対する当てつけでないことは確かだった。 久住は銀座通りから狭い巷へ折れて、寄り付きに植木鉢の並ぶ古い木造の料理屋へ入 っていった。今どき電球の明かりを配した仄暗い店で、壁に沿って並んだテープル席に て 先客が一一、三組掛けていた。久住は案内の女中に希望を告げて、奥の席に杏子を座らせた。 整「スッポンの雑炊がうまいから、あとで食べよう」 を 立ったまま彼は言い 、会社に一本電話を入れてくるから、と外へ出ていった。杏子は メニューを眺めて、女中が来るとビールと肴をいくつか頼んだ。さきに運ばれてきたビ ールを注いで待っていると、戻ってきた久住が微笑を浮かべながら、ビルの谷間に見事
決めたように、来し方に終止符を打たなければならない 次の日から家と事務所にある自分のものを片付けて、マンションを出たのは三日後の 夕暮れであった。新しい日々に必要なものはスーツケースとボストンバッグひとつに収 まり、思い出や海いにつながるものはすべて捨ててしまった。小町は小町で自分のがら そこから彼も新しくはじめるだろう。偽りの生活を続けて くたを見つめてみればいい。 みたところでどうにもならないのだと思った。 暮れてゆく川べりに風が立ち、川の見えないマンションの寄り付きにも親しい匂いが 流れてきた。ささやかな植込みが揺れて、古い葉が風に飛ばされてゆく。呼んでいたタ クシーが来ると、彼女は運転手に荷物を任せて乗り込んだ。 「少し飛ばしてください」 そう告げて、小町と暮らした家を振り返ることはしなかった。かわりに近所の公園や ビルの看板を感慨深く眺めた。知っている街並みは瞬くうちに消え去り、やがて高速に 、 ) 、記應にあるだけの悲哀が 乗ると、彼女は目を閉じた。ここまで来た長い道のりを思し 吹き飛ばされてゆくのを感じ、これから生まれる記憶の入口に待っている人を想った。
ゝえ、二人のことですから . そう言ったものの、小町を相手にやり通せる気がしなかった。知らず識らず馴らされ てきたとみえて、口先だけの男にどうしても歯が立たない。といって別れるために醜態 を演じて飛び出す勇気もなかった。 籍を入れずにきたのも小町の自由な考え方がはじまりだが、本当は杏子からも自由で 、と感化された彼女は夫 いたかったのかもしれない。愛情があれば形式はどうでもいい を放任する妻になってしまった。相手が悪かったと気づいたときには仕事も家庭も愛憎 も一緒くたの生活が固まっていて、身動きがとれなかった。 「それこそ夫婦だよ . 小町は平気な顔で過ごしたが、そこまで結婚生活を見下す冷めた気持ちは杏子にはな 皮女にはそこしかないからだろう。失敗したなら かった。、 しつまでも自由な男と違い、彳 出てゆくしかないと分かっていながら、久住が現れなかったらと思うと、ひとりでは何 もできない自分を知るのであった。 「君はお人好しだから、心配だな」 と言った久住の声を彼女は思い出した。待っていてくれる人がいるのに、まだ煮え切 らない自分も敵であった。愛情からくる男の批判なら、甘受して生きてゆくのも自分の ような女の幸せだろう。幸も不幸もたまたまから生まれる縁のいたずらだと思う。彼女
肉をこめて夫へメールで伝えた。小町が名刺を渡しただけの女だから、たいしたことは ないだろ、つと思、つ。ご執心なら彼は携帯の番号も教える。厄介なのはそっちの方で、ど こで何をしているのか知れない時間があった。 「ねえ、別れましようかー あるとき思いつめて言ったことがある。小町は笑って、なんのメリットもないね、と 受け流した。そもそも籍は入っていないし、子供もいないので、別れるのにも面倒な手 続きのいらない夫婦であったが、それ以上にどちらが欠けても困る会社や生活が大きな 問題であった。おまえが心配するようなことは何もしていない、と平然と言う男が一日 消えてしまうと、杏子はまたやってるなと感じながら何もできない。仕事場が海外なの と、現地の仲間にはぐるかいるからであった。 くすみかけた愛情より馴れた生活が壊れることを布れたのは彼女も同じだったかもし れない。、 月町に対して負い目があるとすれば一時期ひとり暮らしの母を援助してくれた でん て ことで、二つ返事の大まかなところが良さでもあった。いつもの伝でうやむやにされる 整と、別れ話は立ち消えてしまった。 を 眺望を謳う川べりのマンションに暮らしながら、二人の部屋から隅田川は見えない なにかそういういかかわしさが小町の仕事や人間関係にもあって、曖昧なことに振り回 される日常であった。次々と相手のかわる仕事の報酬は乱高下し、家賃と借金の返済を
小町の帰国と新しい仕事が重なり、繁雑な日常に戻ると、杏子は久住のことをなかな か切り出せなかった。小町はまたどこかの島へゆくことになりそうで、夜も打ち合わせ でにしい。モデルのことはもちろん、グアムでの臨時の仕事についても口にしなかった。 整ひとりの夜、彼女は夫の旅行鞄を開けてみたが、服と仕事に関わるものは片付けたあ いとで、たいした物は入っていなかった。出てきたのは新しいホテルのパンフや雑誌や眼 鏡ケースであった。レイバンと記された小ぶりのケースからジョン・レノンを思い出す 丸いレンズのサングラスが現れると、彼女は首を傾げた。小町の趣味ではないし、グア うとしている久住は確かな男だと思った。 食後のお茶の時間を昔しむよ、つに、二人は立ち上がった。外へ出ると、あたりは明か りの乏しい夜で、銀座通りまでのほんの一足も薄闇の中にあった。明かりの瞬く通りに は人群れが待っている。 「本当に静かな住宅地だから 久住は街角に停まっていたタクシーを拾って、先に杏子を乗せた。目白の彼のマンシ ョンまでは結構な道のりのはずであった。特別な夜に向かって走り出した車の中で、彼 女は一歩ずつ熱い気持ちを隠さずに近づいてくる男を大切に思わずにいられなかった。
優先するので、会社でありながら決まった給料は出ない。テレビ番組に関わると、会社 名の代わりに番組名を記した名刺を作り、終わると捨ててしまう。もらった人がテレビ 局の社員と思って電話をすると、リー フ企画です、と杏子が出るのであった。 事務所には小町が持ってくる書類や雑誌や写真が山積みになっていて、置き場所に困 ると家にも運ばれてゆく。旅馴れているので旅行鞄は小ぶりだが、物入れに八つはあっ てそれぞれに最後に使ったときの荷物が詰まっている。そのうち片付けるから、と言っ たまま何年も放置し、結局また新しい鞄を買ってくる男は、女性関係でも似たようなこ とをしているに違いない。相手はパッケージツアーの旅行者であったり、ダイビングの インストラクターであったり、ときには外国人のこともある。南洋の島々に暮らす日本 人には自由人を気取る男たちがいて、日本の社会ではとても通用しない軽さで放恣な 日々を愉しむ。過去の戦争の知識も犠牲になった先住民族への思いやりもなく、ただ常 夏の島で暮らしているという自負に酔う彼らは小町の仲間でもあった。観光地化した戦 争遺跡で記念写真を撮る娘たちを相手に、悲壮の最期とサンセットクルーズの美しさと が同じ比重で語られるのであった。 サイバンのダイバーズショップに小町と気の合う男がいて、杏子も現地で会ったこと がある。たくましげに日焼けしただけの下品な中年男で、話すことにも節度がなかった。 その男が十五歳も年下の小娘と三度目の結婚をすることになり、披露宴の招待状が送ら
っ 1 -0 きようこ その日最後のメールを送り、夕暮れに京橋の事務所を出た杏子は家の買物のために近 くすみたつお くのスー ノ . ーへ向かいかけて、こちらへ歩いてくる久住達郎に気づいた。京橋といって も狭い通りの雑居ビルの一室に夫婦で営む会社がある。どうしてここに、と思う間もな く彼はそばへきて、 「やつばりひとりだったね と言った。近くの銀行で打ち合わせをした帰りで、会社へ電話をしてみたが誰も出な こまちっとむ いので歩いてきたということであった。夫の小町努が一緒だったらどうするつもりだっ たのだろう、と杏子は男の不用意さに呆れた。 「そのときは君を挟んで鮨でも食べるさ」 「困るわ、わたしはどちらを見ればいいの」 「もちろん勘定を払う人の方さ」 小町と仕事をしたことのある久住は気楽に考えていて、顔を合わせて困ることもない らしかった。もともと雑談の話題に困るような人ではないし、そこに仕事の匂いがすれ